20代の頃同僚に「先生の卒論は何ですか」と聞いてまわっていたことがある(ちなみに僕は英語教師である)。
たいていの人は「何だったっけなあ」と苦笑するのみであったが、たまに「フォークナーだったかしら。」などと答える人がいようものなら、立ちどころに「リサーチ・テーマは何だったんですか?」と、たたみかけるように質問するのであった。

今考えても趣味悪いと言うか、若くてバカだったなあと思う。この質問は、「初恋の相手は誰ですか?」、「その人のどこが好きだったんですか?」というのと同じくらい、不躾で青臭い。しかし、当時の自分の気持ちをわからなくはない。なぜならば、たいていの人は大人になると、自分の書いた卒論など忘れてしまうからだ。いや、自分の書いた卒論の細かい部分を忘れるという話ではなくて、卒論を貫くテーマ、自分にとっての一番大切な問いを忘れてしまう。いや問いがあったことさえ忘れてしまう。

いやいや、最初からたいていの人は、そのような〈問い〉に関心などなく、卒論とは単位を取るためにしなければならない「義務」であり、終わらせて忘却してしまうべきものなのだ。「世界の富の不平等」を研究した者が、そんなことはまるでなかったかのように、高い給料と充実した福利厚生の企業を求めて就活し、カフカを研究した者が、世の中に何の不条理も感じず、SNSに昨日食べた料理の写真をアップしている。まあそれが人生だ、現実を生きなければね、というわけだ。

卒論を学問の「はじまり」だと考える学生は少数だろう。たいていの卒論など、読むに堪えないものだ(修論だって大方事情は同じである)。卒論の評価がAだったなんて、そんなのはどうでも良いことだ。卒論とは、いかに自分がダメで、何もわかっていないかを知る場なのだ。だいたいリサーチ・クエスチョンにしたって、本当に心の底から疑問に思って、その疑問について考え続けないと生きていけないほど切実なものだったのか、自分に問いかけてみると良い。

経済学部の学生がアダム・スミスを、哲学科の学生がカントを引用したといっても、彼らの著作を(原語とは言わないまでも)網羅的に読んだのか。いや主著でさえ完読したのか?新書程度でわかったふりをしていないか?僕も含めて誰もが、後ろめたい気持ちを抱きながら卒論を提出する。

卒論で追求しきれなかった〈問い〉は、本来「自分の負い目」、「果たされていない宿題」として、その後何十年も人生において反復されなければならない。あの時感じた疑問に、自分の人生は答えを出せたのか。この〈問い〉は就職することとも、パートナーを見つけることとも独立して、心の中に生き続けていかなければならない。20代の頃の自分は、本能的にそういうことを感じて、「大人」に問いかけていたのだと思う。

学問と言うのは、絵葉書のような記念品ではないのだ。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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