このサイトを立ち上げて、3か月近くが経過しようとしている。内容のレベルがどの程度か、更新の頻度はこれで良いのか、トピックの取り上げ方はバランスが取れているか、いろいろ問題はあると思うが、無理のない程度に前進していこうと思う。

このサイトでは、哲学を限りなく「素人目線」で扱うようにしている。その最大の理由は、まさに自分が哲学の初心者で素人であるからなのだが、どのくらい素人(アマ)なのか自己判断すると、まあ哲学を専攻している大学1年生レベルくらいかなと思う(もちろん、高校生でも『純粋理性批判』を完読するような一部の優秀な例外はいるのだが)。具体的に言うと、有名な哲学書の原典(翻訳)に挑戦するも途中で挫折し、新書や解説書で勉強して再挑戦するというようなレベルである。

それでは、哲学における玄人(プロ)はどのくらいのレベルなのであろうか。自分の大学院(他分野)での経験から言うと、哲学のプロとは優秀な修士、あるいは博士課程以上と言えるのではなかろうか(もちろん優秀な学部生など、例外は存在する)。これは、哲学全般の基本書には一通り目を通し、自分の専門とする分野を含め2~3か国語で原典を購読でき、国内外の学術雑誌数紙に目を通し、査読付きの論文に応募し、国際学会で発表するというレベルである。(このレベルに達していない大学院生はたくさん存在する。)

さて、これを読んでいる大半の人は、哲学のプロではないと思われる。それどころか、哲学のアマになることでさえ容易ではないであろう。特に働いている人は、よほどの覚悟がないと、基本書に手をつけることすら困難であると思われる。いや基本書どころか、入門書や新書にも手が伸びないかもしれない。それでは、時間も能力もプロとは比較にならない私たちアマチュアは、いったいどのように哲学に接したらよいのであろうか?専門家は世界が違いすぎるし、そもそも「哲学なんか難しくて、無理!」なのであろうか。

そうではない。アリストテレス『形而上学』冒頭にあるように、「すべての人間は生来知ることを欲する」のだ。哲学することは人間の「権利」であると言える。「何かを知ろうとして考えること」が哲学の本来の意味であるとすれば、哲学とは(仮に学問としての「哲学」を知らなくても)人間の本質なのであり、本来本質にアマもプロもないはずなのである。

さらに、哲学とは単なる学問ではなくて、己の生き方や世界観とリンクしている以上、プロがアマをすべての面で凌駕していることはありえない。どんなアマにでも、自分固有の領域があるはずである。それはどんな専門家でも到達できないような自分だけの領域なのである。それを「疑問」と言い換えてもよい。世の中で自分だけが持つ「疑問」、それが自分にとっての哲学である。

哲学を専門に志している人に話を聞いて勉強するのは、大切なことである。しかし、単なる「お勉強会」ではだめである。たとえ相手が専門家であっても、言葉の本来的な意味で「批判的に」聞かなければならない。(当然ではあるが、ここでの「批判的」という語は「非難する」という意味合いはまったくない。)自分の意見とは食い違う面が必ずあるはずなのである。それは自分の知識が劣っているからとは限らない。特に哲学の分野においては、専門家の意見といえども、自分の生き方や世界観と同一であるはずがないのであるから、むしろ我々が「違和感」を感じることの方が当然と言える。

勉強会に限らず、人生を生きていく過程で感じるあらゆる「違和感」を単なる「違和感」に終わらせず、「自分で考え抜いて言語化すること」、これこそが我々アマチュアに与えられた哲学の使命ではないだろうか。(たいていの人間は、この違和感を一瞬感じるが、そのうちその違和感のことなどどうでもよくなってしまう。)ここで「考え抜く」と「言語化する」は同義である。人は言語化することによって考えるからである。

さらに言えば、プロであるからこそ見落としていることもある。哲学研究者は日々哲学を研究しているがゆえに、様々な「前提」を当然のこととして思考する「癖」がついている。しかし、その「前提」が誤りだとしたら、どうであろうか。また、その「前提」が仮に正しいとしても、専門家であるがゆえに、哲学本来が持つ「驚き」、私たちが世界に持つ「感覚」を忘れていることがある。その意味では、むしろ哲学のアマチュアの方が哲学の真理に近づけるという逆説すら生じるのである。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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