川瀬和也『ヘーゲル(再)入門』 (集英社新書)を数回にわたって紹介します。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し手に取っていただければと思います。「    」は原則引用部分です。

今回扱うのは「第二章 揺れ動く認識」です。

一 感覚的確信の意義

『精神現象学』においては、主人公である「真理」が信じていた「確信」と「真理」の〈ずれ〉が露呈することで議論が進んでいきます。

さて、この章の冒頭で「感覚的確信」という表現が出てきます。これは「目の前の感覚に何も付け加えずに受け入れるときにこそ真理を知ることができる」という考え方です。

「「感覚的確信」の検討を通じてヘーゲルが目指したのは、直接性を重んじる態度がどのような仕方で挫折するかを描写し、それを通じて、直接性を重んじる立場の問題点を明らかにすることだったのだ」のです。

今までの流れで、だいたい理解できますね。ここで「挫折」とありますように、直接性を重んじる、感覚から得られた確信は、実際には真理へといたりません。真理との〈ずれ〉が生じるわけです。ここで第一章を思い出しますと、ヘーゲルは直接性よりも媒介を重視したのでした。きっと、この後に「媒介の優位性」が書いてあるに違いないと予想して、読み進めていきましょう。

具体例として、ヘーゲルは「今」を分析します。「今は夜だ」という「感覚的確信」を書き留めたとしても、昼間に見てみれば、それはもはや夜ではありません。「今」は昼でも夜でもない「否定的なもの」であると表現されます。

「感覚的確信の「今」が、実際には媒介されたもの、したがって直接的ではないものであった」とヘーゲルは論じるのです。直接的であったと思われたものが、実は直接的ではないということです。その結果ヘーゲルは、「直接的なものに真理があると考える態度を放棄して、媒介されたものの方へ進むべきだ」と主張します。「媒介」の具体例がなかなか登場してこないので、イメージが湧きにくいですが。

話は「感覚的確信」にとどまりません。「ヘーゲルの議論の根底には、「直接的なもの」「確実なもの」を目指そうという基礎づけ主義的な発想への根本的な批判がある」と著者は述べます。ヘーゲル的な発想とは「(認識が)可謬性や不確実性を含んだものとして真理を捉えようとすること」なのです。(「認識が」は、引用者の補足。)

「基礎づけ」って哲学では当たり前のことかと思っていましたが、ヘーゲルはこれを否定するのですか。基礎づけない哲学とは何でしょうか?しかも認識が「可謬性や不確実性を含んだもの」ですか。これは相当ラディカルなことを述べているように思いますが、まだまだ全体のイメージをつかむのは難しいですね。いったいどうなっているのでしょうか。

二 超感覚的世界と科学的説明

この項では「悟性」という語が出てきますが、日常語ではないので「理解力」と置き換えてお読みください。

まず「感覚的世界」と「超感覚的世界」の区別がなされます。「感覚的世界」は私たちが直接触れることのできるものであり、移ろいやすいものであるのに対し、「超感覚的世界」は、それを支えるものです。ヘーゲルの言葉で言えば、「超感覚的世界にこそ、感覚的世界の真理がある」のです。

「超感覚的なもの」の代表例としてヘーゲルは科学的な法則を挙げます。ヘーゲルは、「超感覚的世界は、諸法則の静止した王国である」と表現しています。「静止した」とは、「超感覚的世界」が移ろいやすくはないことを示しています。では「超感覚的世界」は「感覚的世界」の根底にあるのでしょうか。ヘーゲルはこれを否定します。

「法則という超感覚的なものによっては、現象という感覚的なものが持つ多様な側面のうちの限られた一部しかとらえられない」要するに「物理学の法則は現象を近似したものにすぎない」のです。

また「諸法則」とありますが、「「法則が多数あること」は「悟性の原理」に反する」のです。なぜならば、「悟性は、多数の法則を統一できるただ一つの法則を探そうとする」からです。

(多数の法則を統一できるただ一つの法則として連想されるのが、たとえばニュートンの「万有引力の法則」です。)

しかし悟性がそのような統一された一般法則を目指すときに「そこで暴露されるものとは、「感覚的世界ではなく超感覚的世界こそが真理だ」という悟性自身の世界観にほかならない」のです。ここで、筆者はヘーゲルが「科学的反実在論」を取っていると述べます。つまり、たとえば「万有引力の法則」は、厳密な意味では存在せず、便宜的に考案されたものにすぎないと言うのです。「悟性がまさにそうしたものを求めている。」要するに法則を考案するように求めているのは、悟性なのです。

ここからがまた難しいです。

法則は同語反復であると言われます。たとえば落下運動を数式で説明することは、同語反復であり、運動を数式に記述し直しても、悟性が要求する「超感覚的世界」とは言えません。なぜならヘーゲルによれば「悟性はその対象が静止した統一であることにこだわっている」からなのです。

「運動」と「静止」は対になる概念ですが、「運動は悟性それ自身のうちにしかなく、対象としての法則は静止している」

いったい、どういうことでしょうか。

落下運動を法則として記述しても、「運動の仕方が変わるわけではない」(同語反復)のです。

しかし、「悟性の側」、それを見る人間の意識の側にこそ「運動」があるとヘーゲルは主張するのです。この運動は「現実と法則を区別し、そのうちに再び両者の同一性を見出すという運動」です。これをヘーゲルは「第二の法則」と呼びます。著者はここにもヘーゲルの「流動性」を読み取ります。

このあたりは正直言ってかなり難解で、私も完全に理解できた感じがしません。

三 有機体と流動性

この項ではまず、「ヘーゲルにおける流動性のイメージを語ろうとするとき、欠かせないモチーフが有機体である。有機体とは、動物や植物などの生物の身体のことだ。」とされます。その上で筆者は「有機体が流動性という特徴を持つ」ことに焦点を当て、「有機体的なもののさまざまな特徴は、どれか一つが本質というものではない」と述べます。そして章の最後で、「この有機体のあり方は、ヘーゲルが考える概念のイメージとぴったり重なっている」ことが指摘されます。

以上で、(新書の)第二章紹介を終わりますが、正直大変難解でした。入門用の新書がこれほど難解であるなら、やはりヘーゲルは一生読めないのではないか、という気がしなくもないですが、まあそんなに簡単に放り出さずに、第三章以降も頑張りたいと思います。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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