川瀬和也『ヘーゲル(再)入門』 (集英社新書)を数回にわたって紹介します。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し手に取っていただければと思います。「    」は原則引用部分です。

今回扱うのは「第三章 行為の不確実性」です。ここは『精神現象学』の中でも実践哲学的な議論が展開されている章です。

一 流動性から見た「主人と奴隷」

『精神現象学』「自己意識」の章に含まれる、有名な「主人と奴隷」のテクストを分析します。ヘーゲルは主人と奴隷のうち、意外にも奴隷が自立的であると考えます。なぜならば、「世界内の事物と直接に相対し、それを加工する」からです。さらに奴隷が常に死の恐怖と隣り合わせであることを指摘し、「その恐怖が自立性へと反転する」と述べます。この反転において役割を果たすのが「流動性」です。

著者の説明をたどってみましょう。奴隷は、死の恐怖で脳内がぐちゃぐちゃになってしまいます。それが「純粋で普遍的な運動」として捉え直されます。そしてこれこそが「自己意識の単純な本質」とされ、「これによって最終的には「純粋にそれだけである存在」すなわち自立的なあり方が奴隷のもとにある」と言われます。

なかなか難しいですね。「死の恐怖」ということでしたら、「瀕死の病人」も自立的でありうるのでしょうか。ぐちゃぐちゃになることで「流動的」になることは分かるのですが、なぜそこで「普遍性」を獲得できるのか、「純粋にそれだけである存在」になるのか、今一つわからないです。というか、強引なこじつけのようにも思えてしまうのですが。

著者はこうも言い換えています。「奴隷が感じる死の恐怖は、固定観念を流動化させ、それによって奴隷は思考における自由を獲得する。」ただし、ここで言われているのは、あくまでも「潜在的な自立性」です。ヘーゲルが奴隷労働を肯定しているわけではありません。また著者がここで強調したいことは、「ヘーゲルにおいて流動性が自由と結びついていることそれ自体」だということです。

著者の、すべてを「流動性」に還元する説明にも、強引さを感じてしまいます。固定観念を流動化させることは、直接「自由」と結びつくのでしょうか。いやヘーゲルにおいて「直接」は禁句かな?
それにしても、「流動性」を獲得することによって、ヘーゲルは最終的に何を目指しているのでしょうか。

二 環境と主体の相互浸透

ここではまず「行為とは何か」が説明されます。哲学においては「実践的推論」というモデルがスタンダードであることが紹介され、ヘーゲルの行為論はそのようなスタンダードなモデルと異なることが指摘されます。「ヘーゲルの「行為がなされたあとのことも考慮する」という態度が、従来のモデルと異なるのだそうです。

また「スタンダードな行為論では、主観的な思考と客観的な身体運動の間には、主観から客観へ、という一方向的な関係があるのに対し、「ヘーゲルは、主観と客観によって構成される「円環」として行為を説明しようとする」とします。ではいったい「円環」とは何でしょうか。

「行為の前に、自分が何を目指していたのかを明確に知ることはできない。」「実際の行為の前に、何かを目的として思い描いていなければ、そもそも行動を起こすことすらできない。」この循環構造を、ヘーゲルは「円環」と呼んでいるのです。円環のイメージによって、著者は行為を「流動化」という視点から見ています。第一章の「花と蕾」を連想させますね。

三 美しい魂の流動化

この項では道徳的行為を取り上げます。

「ヘーゲルがこの箇所で検討しているのは、(・・・)、「美しい魂」というあり方を理想と見なす道徳論」です。ヘーゲルは「美しい魂は身動きが取れなくなってしまう」と論じます。

ヘーゲルによれば、「美しい魂を持った道徳的天才は、何が道徳的に正しい行為、神が命じるはずの行為であるのかということを、直接的に知っている」のです。何回も出てきましたが「直接的に」とは「媒介なしに」という意味です。

しかし「美しい魂は、存在することに耐えられない」のです。ヘーゲルの言葉を借りれば「この意識(美しい魂)に欠けているのは、外へと委ねる力である。」実際に行動に移せば、批判されることもあるということを「身動きが取れない」と表現しているのですね。「美しい魂」は自分をコントロールできない状況を好まない、すなわち「存在することに耐えられない」と言うのです。

ん-、美しい魂が全く行為をしないというのは、定義上そうなのでしょうか。この決めつけがよくわかりません。

これに対するのが「告白を伴った勇気ある行動」です。「告白」とはここでは「批判されることを覚悟して行動する」ことを意味します。この「告白を伴った行動」には批判が向けられることがあるかもしれません。しかしヘーゲルによれば、批判者にも「告白を伴った行動」が要求されるのです。
「こうして双方が誤りの可能性を認めるときに初めて「信頼」が成立する」
この議論を「良心の相互承認」と言うそうです。

これは「意見の対立があるとき、自分の意見こそが絶対に正しい、という態度を取っていては、信頼が生まれない。信頼がなければ、仮に正しい意見でも、その正しさに見合った有効性を獲得することはできない。」ということです。

ヘーゲルは難しくてよくわからない私ですが、なぜかこの結論は(このサイトでも)日々私が主張していることです。ヘーゲル、意外に僕と意見が合うかもしれないなあ。

この章の著者のまとめです。
「ヘーゲルは、思考によって作り上げられた一見して整合的な体系が容易に動揺させられうるものであり、流動的な本性を持つものであることを常に自覚している。」

第3章まで、『精神現象学』の内容を著者の見解に沿って紹介してきました。
第4章からの3章は『大論理学』を扱います。どうせ輪をかけて難解でしょうから、しばらくお時間をいただき、よく読み込んで投稿したいと思います。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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