ヘーゲルで頭を破壊されたので(笑)、たまには身近な問題を取り上げてみましょう。今回は、『パラサイト難婚社会』 (朝日新書) をベースに話を進めます。著者の山田昌弘先生は「パラサイト・シングル」という言葉を発明したことで有名です。全然本題に関係ないですが、最近メールの履歴を見ていましたら、過去に山田先生と仕事上でメールのやり取りをしていたことが分かりました(自慢にも何にもなりませんが、笑)。
本の紹介に入る前に、私のスタンスを書いておきます。コメントには自分の経験も含まれますが、なるべく一般的になるように心がけました。それでも、細かい部分に(特にマイノリティに対して)配慮が足りていない面もあるかと思います。ご容赦いただくか、ご指摘ください。また「夫婦別姓問題」のような議論を呼ぶトピックに関しては、なるべく自分の意見は控えめにして、賛否両論の主張に耳を傾ける姿勢を取っています。
【はじめに】
この項の冒頭で、いきなり「夫婦とは「他人か」」と問われます。夫婦が他人であることは間違いないのですが、長年生きていると、必ずしも血縁者の方が他人より結びつきが強いわけではないので、私にはこの問いは大した意味を持ちません。著者の山田氏は、夫婦が他人であることを確認した上で、それをタブー視するような日本人の結婚観・家族観が、現在の「少子化問題」の要因であると述べます。この投稿は少子化がテーマではないので軽く触れますが、はたして少子化は解決されるべき「社会的問題」であるのでしょうか。職業柄、卒業生など若い人たちと話すことも多いですが、どうも「社会のせいで産みたくない」のではなく、単に「産みたくない、あるいは育てたくない」人の方が多いような気がします。
この本でも強調されていますが、ここで「結婚」「未婚」「離婚」というあくまでもミクロな個人的問題と、「少子化問題」などに代表されるマクロな社会的視点は別である、ということだけは押さえておきたいと思います。しかし、この2つは別であると同時にリンクしており、しばしばお互いの利益が相反する矛盾した構造になっています。著者の山田氏は、個人的な問題を重視しつつ、社会的な視点も無視できないという「おりこうさん」な立場を取っていますが、私は、個人がやりたいようにやるしかないかな、それで社会が縮小したらそれに合わせた人生観で生きていけばいいのかな、200年後に日本が消滅しても仕方ないかなあ、という立場を取ります。
【第1章「結婚」とは何ですか?】
最初に「結婚はゴールでなくスタート」と書いてありますが、まさにそうです。それなのになぜ皆「ゴールイン」って言うのでしょうね。「ゴールイン」とはサッカーなどで得点することですが、得点しても逆転負けすることは、多々ありますよね笑。
次に「正解のない結婚のリアル」とありますが、結婚に限らず、人生に正解などないのです。極論すると、誰と結婚しても、どういう結婚生活を送っても(あるいは送らなくても)「正解」なのです。経験者として特に強調したいのは、時間が経てば、自分も相手も変化するということです。10年後に相手のことを愛している(あるいは相手から愛されている)保証はないし、10年後も愛し続けるために努力をするというのも、無理して努力しているなら、もはや愛していないと同じです。50年間変わらぬ愛を保ち続けたカップルも、当人たちがそう思っているだけで、愛の質は変化しているのです。「変わらぬ愛」などない、「関係性は常に変化する」が真実です。ですから結婚式で「永遠の愛を誓いますか?」ときかれたら、「いいえ、関係性は常に変化します」と答えてください、笑。
以上のように、特に若い人は、結婚に「ゴールイン」という、幻のようなイメージを抱くわけです。これを著者は、「多様性の時代であるのに、驚くほど保守的な結婚観」であると述べます。でも私に言わせると、若い人もそんなイメージが嘘っぱちであることくらい、うすうす分かっているのです。(自分の親を見てください、笑。)これは著者の言うように、若者が昭和のオールド・タイプの価値観を維持しているというよりは、「なるべくみんなと同じような人生を送りたい」という、日本人特有の感性に基づいているように思われます。逆に言うと、それ以外のイメージがわかない、積極的にこうしたいという意欲がない、とも言えます。
そもそも「恋愛して、結婚して、夫婦2人に子供が2~3人」という、みんなが「普通」と思う家族像は、著者も指摘するように、もはや非現実的な虚像であるのです。若者がどう感じるかということを離れても、統計でそのことは示されています(今や単身世帯が一番多い)。その上、この「伝統的」な保守的な価値観も、実はそれほど伝統的ではなく、西欧諸国からの「輸入品」であると著者は指摘します。
ここで問題になるのが「ロマンチック・ラブ・イデオロギー」です。これは「恋愛」と「セックス」と「結婚」が三位一体をなすというイデオロギーですが、中世ヨーロッパに端を発し、日本では明治時代にはじめて紹介され、高度成長期に浸透したにすぎません。
それでも、明治時代から第二次世界大戦までは、結婚は「イエ」のもの、恋愛は「個人」のものでした。ある意味「ロマンチック・ラブ・イデオロギー」は不完全な形態だったわけです。それが戦後、「結婚」を決めてきた主導権が、「イエ」から「個人」へと移行します。個人の選択と自由による「自由恋愛」が理想的なものだとされたのです。
戦後の高度成長時代とは、「誰でも」明日の生活はもっとよくなると感じられた時代です。これが「自由恋愛」とリンクします。自分で人生を切り拓いていけば、より良い未来が築ける、と感じられたのです。しかし「自由」といえども、高度成長時代は社会が「組織化」されていました。現在より大家族であり、職場(組合)や地域のつながり(町内会)がより濃厚な時代であったのです。要するに「面倒くさい人づきあい」も多かったのです。ところが今は「個人化の時代」です。人間関係はより希薄になりました。より「自由」になることで、「自由恋愛」をすることのチャンスが減ったという逆説が生じました。
著者の山田氏はさらに、「非正規雇用社会」が人々を結婚から遠ざけたと指摘します。現在では「「結婚」に対するメリットを感じることができなくなった」と言うのです(これを著者は「結婚不要社会」と呼んでいます)。いかにも社会学者らしい分析ですが、私の意見は違います。現代の若者は「実利的な(経済的な)メリットを求めて」結婚するのではないと思います。むしろ最初に指摘した「ゴールイン」という感覚、なんとなく安心感を得たい、そのような動機からのような気がします。いまだに「ロマンチック・ラブ・イデオロギー」が残存しているというのが私の意見です。