川瀬和也『ヘーゲル(再)入門』 (集英社新書)を数回にわたって紹介します。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。
今回扱うのは「第四章 運動する論理」です。
一 ヘーゲル第二の主著『大論理学』
ヘーゲルの「論理学」の内容を、著者は以下のように先取りして語っています。
「論理学は、「(純粋な)思考」と「ことがらそのもの」の両方を含む。言い換えると論理学は、「客観的に思考すること」をその内容とする。」なんだかよく分かりませんが、同じことが、次のように言い換えられます。「私たちが対象を捉える枠組みがまさにことがらそのものと同一であるような、また同じことであるが、対象のあり方がまさに私たちの思考と同一であるような、そういった地点がある。」「・・・その現場をつかまえることが論理学の役割である。」
まだまだ漠然としてイメージをつかみにくいですが、「二」以降で理解を深めていきたいです。
この項では次に『大論理学』の成り立ちが述べられますが、これは割愛します。
二 論理学の始め方
第四章では『大論理学』の「存在論」を扱います。まず冒頭の「存在」と「無」をめぐる議論が扱われます。キーワードはやはり「流動性」と「直接性への批判」です。
ヘーゲルはここで「存在と無は実は同じものだと述べ、両者の間には生成という関係のみがあるのだ」と述べます。
ここで取り上げられている「存在」とは、何の規定も持たない「純粋存在」です。後に出てくる「現存在」と区別してください。しかし、いったい「ただ純粋に存在する」とはどういうことでしょうか。
ヘーゲルは「存在は、純粋な無規定性であり、かつ空虚である。」と述べ、さらにこれを「「空虚」とはすなわち「無」である」と言い換えています。存在と無は「何の規定も持たない」という点で同じものだとされるのです。いや、本当に同じと言えるのか、この議論はいろいろ論議を呼ぶものですが、ここでは評価は差し控えます。(ヘーゲルはこういう決めつけ多いですが、私の力では合っているのか、間違っているのか判断できません。)
著者によれば、ヘーゲルが本当に論じたかったことは、存在と無がまったく同じものであるということではなく、「存在と無が一つであること」としての「生成」のあり方だったのです。「ある」でも「ない」でもなく、「なる」こそが真理だとヘーゲルは言います。「それゆえ存在と無の真理は、この、一方が他方のうちで消えてしまっているという運動である。それは生成である。」
以上をまとめると、ヘーゲルが『大論理学』を「存在と無」の議論から始めているのは、「規定を持たないことと、生成として理解されることの二つの点の両方を満たす地点から」始めたかったからなのです。
これが「学の始まり」の話につながっていきます。「学は何から始められなければならないか?」という文を検討してみましょう。ヘーゲルは、学は「何も前提としてはならない」と述べます。何も前提にしない始まりとは、「直接的なもの」であるはずです。「始まりはそれゆえ、純粋な存在である。」とヘーゲルは述べます。
え、ヘーゲルって「直接性」を批判していたのではなかったでしたっけ?そうです。そこで、ヘーゲルはそもそも哲学の始まりが本当に直接的なものであるかどうか、問うのです。
ここでヘーゲルは発想を逆転させます(ここいらへんの「ひねくれ方」がヘーゲルの難しさなのですが)。ヘーゲルは、「哲学においては前進はむしろ背進でありかつ根拠づけである。」つまり、「学」の始まりは「根拠」という直接的なものから出発してはならない、と述べています。根拠(正当化)はあとからやってくるのです。ここで批判されているのは、スピノザやヴォルフの方法です。彼らの哲学は、根拠が最初に置かれるので、ヘーゲル哲学の対極にあるのです。以上のヘーゲルの態度を、著者は「流動的・全体論的な哲学」として捉え直します。
ダメ押しになりますが、ヘーゲルの言葉を引用しておきましょう。「始まりについての分析から、存在と無の統一という概念が得られるだろう。(・・・)あるいは、同一性と非同一性の同一性という概念である。」同じでもあるが異なってもいるということは、「常に互いは互いへと生成しつつある」ということです。
著者によるまとめです。
「ヘーゲルは、この揺らぎつつ生成するものとしての存在と無が、直接的でありかつ媒介されてもいるようなものとして学の始まりにふさわしいと考えた。」
三 「ある」とはどういうことか
前項で検討した「純粋存在」とは「ただある」ことであるのに対し、本項で検討する「現存在」は「何かがある」ということです。これをヘーゲルは「現存在は規定された存在である」と述べます。(ハイデガーの「現存在」とは意味が異なっているので、注意してください。)
ヘーゲルによれば、現存在についても「存在と無の統一」が見いだされます。それは「何かである」ことと、「何かでない」こととの統一です。もう少し具体的に言い換えますと、現存在は、自己関係(「机は机である」)と他者への関係(「机は机でないものではない」)の両者によって成り立っているということです。これを著者は、「この世界のあらゆるものが、他の事物との緊張関係のうちに存在している」とし、そこに〈流動性〉を読み取ります。
四 「真の無限」を求めて
『大論理学』「存在論」において、ヘーゲルは、無限を「変化し続けるプロセス」として捉えるべき、と指摘しています。なんで「無限」の話が急に?、と思いましたが、今までの流れからしますと、これが「生成」や「流動性」へと結びつくのではないかと予感しつつ、読み進めてまいりたいと思います。
ヘーゲルは「悪無限」と「真無限」を区別します。どちらの無限を考えるに際しても「無限と有限の関係に着目すること」が鍵であると著者は指摘します。「悪無限」とは、「有限なものとの対立によって理解される。」すなわち「悪無限」は「有限」との間に境界線が引けるのであり、それゆえ限りがある=有限であることになってしまいます。なんだか抽象的でわかりにくいですが、著者によるとヘーゲルはここで「キリスト教的な神」をイメージして論を進めているらしいです。
さて、「真無限」についてヘーゲルは次のように語っています。「有限と無限の、相互に対立する規定性は消えてしまっている。こうして真の無限性が現れる。」
「真の無限とは、有限なものが不断に自己超出しつつ自分自身であり続ける、という流動的なプロセスにほかならないのである。」
と、ここまで読んで、第四章四の冒頭の予測はだいたい当たったかな、という感じです。
以上で第四章のまとめを終えますが、相変わらず「わかったような、わからないような感覚」はつきまといます。これは川瀬先生の叙述のせいではなく、おそらくヘーゲル自身の「論理」のせいだと思われますが、「なんかごつごつした否定の感覚」みたいのに早く慣れたいです。ヘーゲルがおぼろげながら分かってくると、昔読んだフランス現代思想も違って見えるのでしょうね。(大学時代、読書会でジャック・デリダ「竪坑とピラミッド̶̶ヘーゲル記号論への序論」を読んだことを思い出しました。)