前回に続き、山田昌弘『パラサイト難婚社会』 (朝日新書) をベースに話を進めます。「  」は原則同書からの引用部分です。*の後は私の感想です。
ちょっと長いですが、今回は第2章から最終章まで突っ走りたいと思います。

【第2章「結婚生活」には何が要りますか?】

本書では、まず2023年に実施された「夫婦の親密度調査」を用いて、あくまでも実証的に結婚生活のリアルが探られます。その結果は「夫婦とは親密なパートナーシップとは言い切れない現実の様相を示唆」していると言われます。言い換えますと「かなり多様な結婚生活が日本に存在する」ということになります。この多様化のおかげで「夫婦(カップル・パートナー)が選べる「選択肢」が増えているのが今の時代」なのです。

選択肢が増えるのは良いことのように思えますが、著者は負の側面も指摘します。それは「あらゆることが「個人の意思」に委ねられた結果、人々は「自分で選ばなくてはならない状態」に恒常的に晒されるようになった」という点です。著者はこれを「個人化ネイティブ世代」と呼び、ネット社会がこの傾向を加速させるとしています。

*「完全に自由な選択」は理想形にように見えて、そうではないのかもしれません。何しろ人は「常に正しい選択をできる」わけではないのですから。時代のせいであるとか、環境のせいであるとか、エクスキューズできない時代はきついと思います。多様性と言ったって、当の本人に多様な価値観がなければ、ステレオタイプな選択しかできないですしね。

ここで著者は興味深い指摘をします。それは「「多様な結婚生活」の多くが極めて日本的である」という点です。その一例として「愛情がなくても結婚を続けている夫婦」が挙げられます。
(会話がなくても、セックスレスでも結婚生活は継続するという例が挙げられています。)
「愛情」がなくても結婚生活が営めるとしたら、「結婚」とはいったい何なのでしょうか?

*いやいやちょっと待ってください。愛情は「会話」や「セックス」に限定されるとは限りません。ですから日本人の結婚を「愛情がなくても」と話を進めてしまうのは、早急な感じがします。会話はともかく、性愛に関してはまさに多様なあり方があるのであり、多様さに応じて愛情との関係も複雑に絡み合っているものと思われます。

著者は「日本人(特に女性)は、「結婚」に「愛情」と「経済的安定性」の二つを求めざるを得ない」とします。(一方、欧米諸国では結婚に後者は求められていません。)著者は現代の日本を「「愛情」+「経済的安定性」という本来真逆なベクトルを同時に達成しなくてはならない社会」であるとし、「その結果、「成婚」率そのものが低下して生じたのが今の日本の少子化社会」であると断じます。

*まあ是非は別として、結婚において「経済的安定が最も重要な項目である」というのは、若い人たちと話していてもよく感じます。しかしこれは、お金の問題だけではないような気がします。配偶者が「社会の中でしっかりアイデンティティを持って生きている」「仕事にプライドを持ち、理想を追及している」ことを重視するという側面もあるのではないでしょうか。

【第3章「未婚」は恥ですか?】

最初に「「生涯未婚率」の急上昇」の話題が取り上げられます。もはや誰もが知っていることですが、「日本人は、男性は3人に1人、女性も5人に1人は結婚しない社会に生きていく」という事実が確認されます。その上で、「日本社会特有の親子密着型同居スタイル」が「未婚社会」を下支えしていると著者は指摘します。

*「親子密着」ですが、日本では、新婚で親がまだ若いうちは、夫婦よりも親子関係の方が強いのではないかと思える時が多々あります。特に「母=娘」の結びつきの強固さには、驚かされることがしばしばです。もちろん配偶者との結びつきと質が異なるので、単純には比較できないですが。

「未婚」「離婚」が一般的になった時期ですが、「「離婚」が決してレアなケースではなくなってきたのは80年代以降、そして「未婚」は2000年以降から」というのが著者の見立てです。「「未婚」も、人生の一つの在り方であり選択肢であることが、日本社会で認知されていきました。」

また、2000年代以降、非正規雇用により収入格差が拡大したことが、未婚を後押ししていること、さらに日本における未婚の状況が様々(「おひとりさま」「パラサイト・シングル」「引きこもり」)な形態をとることが指摘されます。未婚に限らず、「日本人はまさに今、富める者と貧しい者との二極分化・固定化社会を生きており、その縮図が婚活現場において表れている」のだとされます。

ここまで日本人が結婚に求める2つの要素のうち「経済的安定」を検討してきましたが、「愛情」の方はどうでしょうか。ここで著者は「結婚の純化」を阻む三つのハードルを検討します。(「結婚の純化」とは、経済的安定性を捨てて、愛情に主眼を置く結婚観です。)

1.個人単位のセーフティネット(社会保障制度)がないこと。
2.「個人化」(個人における選択肢が増えること)の問題。
3.日本特有の「世間体」が存在すること。

1は結局、経済的問題に帰着してしまいます。
2は「幸せすらも、そのすべてが自分自身の選択の結果」であるというストレスを指します。また「自分が選択されなければならない」こともまたストレスとなります。
3は「世間体」という親のエゴなどが、結婚にマイナスに作用することを指します。

【第4章「離婚」は罪ですか?】

まず、「結婚数と離婚数の割合はだいたい3対1」で推移していることが指摘され、「「離婚」はもはや恥ずべきものでも、忌むべきものでも、隠すものでもない」ことが確認されます。

「離婚」は結婚から5年以内が最多です。これは「熱烈な恋愛期間はおよそ4年で冷めるという説」を裏づけるようにも思えますが、では人々はどのようにして「離婚」にいたるのでしょうか。主な理由として以下の2つが挙げられています。
「愛が冷めた」状態に陥った。(「性格の不一致」「異性関係」「DV]など)
「経済的安定性」が損なわれた。(「生活費を渡さない」、「浪費」など)

*「離婚」が増加して、今やごく普通のものであることは、若い人たちと話していても、実感します。とはいえ、親の世代の離婚の話が多く、結婚していても結婚歴の浅い30歳前後の若いカップルの話は(少なくとも自分の周りでは)あまり聞きません。ただ親の世代の離婚の話を聞くと、小さい頃から両親は不仲だったという話が多く、そういう意味では「5年」という数字もあながち間違いではないように思われます。

「熱愛」は(生物学的に?)5年以内に冷めるとして、2人の関係がその後「穏やかな愛情」「家族としての絆」「共に生きるパートナーとしての情」へと変化していき、結婚生活は続いていきます。そうならなかった場合は、経済的要因が「離婚」の引き金になることが多いとされます。

ここで最初の話題に戻りますが、日本で「離婚」が増えてきたということは、「離婚が「人生を左右する非常事態」から、「人生の一イベント」に変化」したことを意味します。ここで、日本で「離婚」が増えた原因を著者は3つの点に整理します。

1.「皆婚」社会が常態化しなくなったこと。
2.「多様な幸せの形」を人々が意識するようになった。
3.従来の「男女分業型結婚」が崩れたこと。

2は「結婚がすべてではない」という価値観を持つ人が増えてきたということです。
3は家事が妻としての愛情の証ではもはやなくなったということです。

今度は逆に「愛情」がなくなったにもかかわらず、なせ「離婚」しない人がいるのかについて考察されます。著者はその原因を日本特有の「愛情の分散投資」に求めます。要するに「愛情」が100%夫婦間に注がれることなく、「ママ友」であったり、「推し活」であったり、「ペット」であったり(我が家かな?)、愛情が多方面に分散されることで、日本人の幸福感は保たれているのです。

*これはまあ、当たっている指摘であるとは思いますが、諸外国はそんなに「配偶者only」なのですかね?もしそうだとすれば、日本流のやり方の方がむしろ賢明な気もします。何回「離婚」「再婚」を繰り返しても、性愛を基調とする「熱愛」は数年で冷めてしまうのですから。

ところでさきほど「個人化の時代」に個人が選択しなければならないストレスについて言及しましたが、そのため結婚後もたとえば、「娘の家庭の在り方に、親の価値観や意見が反映される」ことが増えてきました。要するに「夫婦の意思決定に、妻・夫・それぞれの両親という複数人の意思と選択肢が錯綜し、「正解」を悩み続けるのが「個人化の時代」の特徴」であると著者は述べます。

*複数人の意思が結婚に介入してくるという事態は、今から50年前にも存在したと思いますが、昔はむしろ「当のカップルの選択権」が少なかったから迷いがなかったということでしょうか。相手の親の意思までが介入しているということは、結婚が現代でも依然「個人」のものではなく「イエ同士」のものであることを示しています。

【第5章「結婚」が人生に与えるもの】

本章の冒頭で、家族社会学に必要な2つの視点が確認されます(ここでは話を「結婚」に限定します。)。1つ目は「社会の側からの視点」で、この視点から現状分析することで「状況さえ違えば結婚したかった」という人たちを救済する可能性が見えてきます。2つ目は「個人の側からの視点」です。これは前述したように、個人の選択はどんどん自由になり、多様性へ向かうと考えられます。

次に現代の日本においては「「結婚したら幸せ」という単純な図式は、もはや通用しなくなっている」と述べられます。著者は「結婚生活の不幸」も多様化しているとし、意地悪く「社会全体が「他人の不幸」を待ち受けている」と表現します。それがメディアやSNSで拡散されるのです。これは「自分が不幸なのに、他人が幸福であるのは許せない」という人間に特有の心情の表れです。そしてこの感情がもっとも強く向けられるのが「(元)配偶者」です。「相手には自分より不幸になってもらいたい」という感情です。最終章で著者は「日本の結婚生活は、「不幸の共同体」に陥りかけているのではないでしょうか。」という救いのない結論を述べています。

*山田先生が「結婚」に関する専門家であり、新聞などで様々な人生相談をされているので、こういう見方になるのでしょうが、なかなか怖いです(笑)。別に結婚に限らず、人生においても「思ったようにならないこと」は小さいことから大きいことまで満ち溢れています。それを「不幸」とタグ付けてしまうと、「様々な不幸がある」と帰結してしまいます。ここで「幸福」の定義がきちんとなされていないことが問題なのです。(そしてその答えを出すことは、大変に難しいです。)というわけで、夢のある若い皆さんはあまり「結婚」に失望しないで、「希望」を持っていただきたいです笑。

それはそうと、著者が日本を「不幸の共同体」とみなすのは、「「人間は差別したい生き物である」
ことに加え、「差別することでようやく安心できる」「下流を見下すことで自分は正しい、自分は下流に落ちないと思える」という心理的な脆弱性が社会の根底にあるから」です。山田氏のこの考えには肯けるものがありますが、これは差別を肯定するという意味ではないですので、どうか誤読なさらないようお願いします。これは「嫉妬」とも関係する深いテーマですので、また別の機会に考察してみたいと思います。

この、一歩間違うと「下流」に落ちてしまう時代において、格差は拡大し続けています。著者の言葉で言えば、世の中は「一億総中流社会」から「格差固定社会」へ」と「「アリストクラシー(aristocracy:身分社会)」の時代に逆戻りしています。

*「アリストクラシー」とは言えないとは思いますが、たとえば東大生の大多数は親が高収入で、それゆえ幼少期から質の高い教育環境に身を置いており、その結果(多少)成績が優秀にすぎないのに、大企業に就職し、それがまた子供の教育に循環していくということに関しては、確かに階級社会的ではあります。(私はそういう現状を打破しようとして、公立の教員を目指したのでした、どうでもいい話ですが。)

こうした閉塞した社会を突破する方法として、著者は1つの提言をします。「そろそろ「結婚」そして「家族」を、経済的生産性で測ることは放棄すべきではないでしょうか。」ここでの問題提起は、「結婚」「夫婦」「家族」の特別性とはいったい何か、という問いにつながっていきます。言い換えれば、「「血」でもなく「経済性」でもない、「結婚」「夫婦」「家族」を結びつけるものは何なのか。」という根源的な問いです。

これに対しては、もちろん「愛情」という答えもありますが、「この人でないとだめ」という特別性はどこにあるのでしょうか。著者は次のように述べます。「「その他大勢」の存在と「配偶者」の最大の違いは、そこに双方に「継続的契約」が存在するかどうかです。」

*恋愛に真っ最中の人は、「結婚って「契約」なのかあ、何か嫌だなあ」と感じるかもしれません。しかし結婚における「契約」は決定的な意味を持っています。確かに紙切れ1枚の契約なのですが。それは何ででしょうか。私にもわかりません。ただ(かっこいいことを言うと)婚姻届って役所に届出ますが、役所と契約するわけではないのです。自分たちに誓うのです。ただ以前も書きましたように「変わらぬ愛」というのは嘘で、「愛の形は変化しても継続します」と言うべきなのです。

ここでエリザベス・ブレイクの『最小の結婚』が紹介されます。原題Minimizing Marriage: Marriage, Morality, and the Law (Studies in Feminist Philosophy) から分かるように、この本は結婚に付随する様々な要素を結婚から切り離し、結婚の目的や役割を最小限にしようという本です。具体的には、
・「結婚」は必ずしも異性関係をベースにしなくてもよい。
・「結婚」と「出産・育児」は別の要素として分離すべきである。
などです。

ここで山田氏は、欧米では「結婚=性愛関係」であることを指摘し、ブレイクの本がそのような見方へのアンチ・テーゼであるとし、「「性愛関係が終わった(あるいは性愛抜きの)結婚」にも価値があるというテーゼは、大きな示唆を与えてくれる」と述べます。そこでブレイクが提案するのが「ケア」の概念です。ここで言う「ケア」とは、「介護」のような身体的世話に限定されない広義の概念で、「互いが相手を熟知する関係者同士が、利害関係を超えて思いやる「親密性」を土台とした」ものであると定義されます。

*本題から逸れますが、「ケア」という語は口当たりがよく、安易に使われすぎていると思います。(SDGSも使われすぎです)。私は「ケア」と出てきたら警戒して読むようにしています。

「結婚」における「ケア」は、「推し」などと異なり、対価を交換しての関係性ではありません。
それならペットだってそう言えるのではないかと言う気もしますが、著者は「ケア」にもっと積極的な意味も込めます。すなわち「ケア」は「コミットメント」ととらえる見方です。(確かに犬(猫)は飼い主の人生にコミットメントはしないかもしれません。)著者はカントの『実践理性批判』で人間関係を扱った部分「相手を手段としてだけでなく目的として扱うべき」を引用しながら説明しています。

*しかし、相手を「目的として扱う」とはどのような事態でしょうか。相手自身が「目的」になるなどということがあるのでしょうか?ここらへんの議論は機会を改めて、カントの同書を詳細に検討しながらやってみたい・・・とは言うものの、『実践理性批判』難しいので10年くらい後になるかもなあ。

ところで「コミットメント」は「拘束」とは異なります。相手を拘束して過度にコントロールしようとすることで、女性からフラれる男性は多いです、笑。

著者は「相手の人生と自分の人生を重ね合わせて継続的時間を歩む「コミットメント」の覚悟こそが、「結婚」なのかもしれません。」と結論づけます。ただし、「コミットメント」は、自立した者同士の関係であることが前提となります。そうでないと「共依存」と変わりがありません。「相互の自立性を認める「コミットメント」の意識」が重要なのです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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