川瀬和也『ヘーゲル(再)入門』 (集英社新書)を数回にわたって紹介します。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し手に取っていただければと思います。「    」は原則引用部分です。*の後は私の個人的な「感想」です(「意見」を述べるほど理解できていません…)。

今回扱うのは「第五章 本質・根拠・必然性」です。

一 本質とは何か

* ヘーゲルは「存在の真理は本質である」と説いていますが、この部分は『大論理学』の中でも指折りの難所らしいです。今まででも十分に難しすぎたのに、いったいどうなってしまうのでしょう?

前章までの「現存在論」においては、「現存在同士の関係だけが視野に収められて」いました。「これに対して本質論においては、(・・・・・)、事物とその本質の関係が問題になる」のです。
(「現存在」とは「何かがあること」でしたね。前回を参照してください。)

ヘーゲルは以下のように述べます。
「存在は現れである。現れが存在するということは、存在が廃棄されているということ、言い換えると、存在が無であるということにほかならない。この無であるということは、本質において存在を持っている。」

* いやあ、なんだかわけがわからない文ですが、川瀬先生に従って、解読していきましょう。
我々に現れているように思えるもの(「現れ」)は、本当の存在ではないということです。それは「存在が無」であるということです。本当に(という言い方が適切かわかりませんが)存在するものは「本質」なのです(後でまた話がひっくり返りますが)。

*しかし、「存在が無」といっておきながら、本質は「存在する」と言ってよいのでしょうか。「現存在」という名詞が「無」であり、「存在する」という動詞が「ある」のでしょうか。ヘーゲルの議論はよくわかりません。

もう1回ヘーゲルに戻りましょう。
「また、それが無であるということの外では、すなわち本質の外では、現れは存在しない。現れは否定的なものとして定立された否定的なものである。」

「定立」って何かと思いましたら、ドイツ語のsetzenであると川瀬先生の解説にあります。(この表現の細かいニュアンスは、直接本書でご確認ください。)

ですから、逆に言うと、「現れは存在しない」という否定的な仕方でのみ現れるのです。。。と分かったような、分からないような。。。

*ヘーゲルって「否定」が好きですよね、しかし。
*「現存在」と「本質」の議論を読むと、カントの「現象」と「物自体」の議論が思い出されます。ヘーゲルは当然カントを意識しながら、きっとカントと違うことを言っているのでしょう。

またまたヘーゲルに戻りますと、「現存在は定立された存在にすぎない」とあります。川瀬先生のパラフレーズに頼ると、「そのへんにただ転がっているように見える全てのものの奥に、そのものの本質が存在する」のです。

二 全ては「反省」する

* ここまでの議論はまだ許せました。しかしヘーゲルはそんな甘くはありません。

ヘーゲルは、「本質が現存在を定立する」を「本質が現存在へと反省する」とも表現します。ここでの「反省」とはドイツ語でReflexion(英語で言えばreflection)であり、「反射して他の場所へ向かう」と「反射して元の場所に戻ってくる」の両方のニュアンスを持っていることに注意しましょう。

「本質が現存在へと反省する」は、川瀬先生の表現を借りれば、「本質は現存在を照らし出す」というイメージになります。

* ここで何となく、ハイデガー『存在と時間』における存在論の話を連想してしまいます。ハイデガーも「存在」が「存在者」を照らし出すみたいな感じだったような気がするがなあ、違ったかなあ。40年前に読んだので忘れた…。

「反省」についてヘーゲルは以下のように述べます。「・・・・・、本質の反省する運動は、無から無への運動であり、かつそのことによって自己自身へと帰ってゆく。」

いやあ、何言っているかわからないです。諦めずに頑張って読み進めていきます。

「・・・反省は、(・・・・・)本質から現存在へ向かう運動であった。」
これをヘーゲルは「無から無への運動」と呼んでいるのですから、本質も現存在も無であることになります。

あれっ、現存在は現れなので無でいいとして、なぜ本質まで無になってしまうのでしょうか?この謎を解明するために、著者は「自己自身へと帰ってゆく」という表現に注目します。
「本質が現存在へ反省するとは、実は本質が自分自身へと帰ること、自分自身と一つになること」なのだそうです。

なんと、「本質と現存在は本当は同じもの」で、「現存在と本質に分けること自体が幻想だった」のだそうです。だからreflectionは「反射して元の場所に戻ってくる」ことなのです。何のこっちゃ。。。。

* 単純な理解を阻むように、またヘーゲルは難解な表現を続けます。いやあ、こんな文を、しかもドイツ語で解読している研究者とはいったい何者なのでしょうか。まあ個々の表現も絶対的に難解なのですが、ヘーゲルの何が困るって、(単に私が勉強不足だからなのですが)、全体として何が言いたいのかが、まだ見えてこないのです。登山で直立した壁が厳しい上に、まだ頂上がどこにあるかわからないようなイメージですね。そのうち雪崩に巻き込まれて、命を落としてしまうのでしょうか。

我慢して(?)、ヘーゲルの文に戻りましょう。

「反省は運動であるが、反省とは還帰なのだから、その運動は還帰の中ではじめて動き始めるもの、言い換えると帰っていくものなのである。」
「反省という関係がなければ、いかなるものも存在しない」
「反省という運動が先にあって、存在も本質も全て影のようなものだ」

現存在と本質が同じものならば、最初から分けて考えなければよかった、とはならないのです。
まず「反省という運動が先にあって、存在も本質も全て影のようなもの」なのです。つまり、反省とは「関係」であり「運動」であるのです。ここで著者の主張する「流動的」につながる、というわけですね。

著者による、本章のまとめです。
「本質も現存在も実は無である。グラグラそのものとしての反省だけが存在する。」

ヘーゲルはひねくれ者なので?「反省」という運動が、本質と現存在の両者を支えているという図式そのものも、流動化させようとします。

「反省は、現存在や本質を、反省以前からあったものとして定立する」のです。

このように、真逆のことを述べることで、著者の言葉を借りれば、最終的にヘーゲルは「流動化そのものをも流動化させようとした」らしいのですが、ここでの論理展開に私が完全に納得したかというと、していない、というより、きちんと理解できていません。

三 根拠があるとはどういうことか

「根拠」と訳されるドイツ語はGrundです。「ヘーゲルは、AであることがBであることの十分な根拠であるならば、AであることとBであることは同一のことであるはずだ」と述べます。

言い換えれば、「根拠と根拠づけられたものは同一である」ということです。
しかしこれは常に成り立つわけではありません。(ヘーゲルは前に述べたことを常に否定して、前に進みます。いや戻るのかな。。。)

ヘーゲルは、両者が同一である場合の根拠を「形式的根拠」、異なる場合の根拠を「実在的根拠」と呼び、区別しています。

ヘーゲル「根拠がその本質的な前提として関係する直接的なものは、制約である。」

「制約」とは何のことか、例によってわからないですが、著者によれば、制約とは「現実世界のあり方のこと」だそうです。
「現実世界のあり方が、根拠の前提になり、それを制約している」のだそうです。わかるような気もしますが、どのように制約するのか具体例を語ってくれよ、ヘーゲルさん。

現存在と本質の議論のときと同じように、「制約と根拠は、一つのもの、一つの本質的統一」なのだそうです。「それらは互いを前提とし合う」というところに、また「流動性」を読み取ることができます。

* ああ、ここも未消化だなあ。でも著者が未消化でもいいって言っているので、自分を許してあげよう。

四 現実の偶然性と必然性

この項は、ヘ-ゲルの様相論「現実のこの世界を様相の観点でどう見るか」についてです。言い換えれば、「現実世界は「必然性」を持つか、それとも「偶然的」なものか」という問いです。
この二つの見方は、世界史についての二つの見方とも連動しています。

これは(久しぶりに?)興味のある論点ですね。この世界は必然的なものなのでしょうか、それとも偶然的なものなのでしょうか。まあ予想できるとは思いますが、ヘーゲルの答えは「この世界は必然的でもありかつ偶然的でもある」のです。

ヘーゲルは、様相を「形式的」なものと、「実在的なもの」に分類します。前者は、フィクションの世界でのみ可能であるような「形式的可能性」であり、後者は実際に本当に起こりうる「実在的可能性」です。これらと「偶然」「必然」の関係を見ていきましょう。

まずは「形式的可能性」から。この観点から見られた現実は「形式的現実性」であり。偶然性です。
なぜなら現実が、「単に思考可能なものとしてのみ見られている」からです。

では「実在的可能性」についてはどうか。これは必然性にほかなりません。「現実世界はなるべくしてこうなっている」ということです。

まあ、ヘーゲルさんのことですから、こういう単純な図式はひっくりされるだろうと思っていると、ヘーゲルは「実在的必然性はそれ自体でまた偶然性でもある」と述べます。

難しいですが、著者によれば、「ヘーゲルは、私たちの現実性がそこに含まれる必然性とは別の必然性がありうると考えている」のだそうです。

*デイヴィド・ケロッグ・ルイスの「様相実在論」の議論と重なるのでしょうか。ルイス読んでいないですが、将来そんなことも考えられたらいいなあ、ということで次に進みます。

ヘーゲル「実在的必然性は、それ自体として偶然性を含んでいるが、それだけではなくて、偶然性はその必然性に即して生じてもいる。」

この引用の前半は、「必然性そのものが偶然的かもしてない」ということです。後半は「実在的必然性が偶然的なものであるということ、そのこと自身が必然的だ」ということです。言い換えますと、「偶然性と必然性が同時に生成する」ということです。こうしてすべての様相は一つに「溶け合いつつ存在」していますが、これをヘーゲルは「絶対的必然性」と呼びます。すべてが溶け合うことで、「流動的」になるのです。

以上、『大論理学』の「本質論」を扱ってきたわけですが、正直分かりませんでした。哲学科を出た方にぜひとも教えてもらいたいです。

* 今回全然分からなかった私ですが、だいぶヘーゲルの「思考の癖」には慣れてきました。しつこくて、嫌な奴だなあ、笑。きっと根気よく読み込んでいくことで、おぼろげながら何かが見えてくるのでしょう。

でも、ふと思ったのですが、明確さを旨とする英訳だったら『大論理学』は何と訳されているのでしょう?Amazonを見ましたら、

The Science of Logic でした。もちろん、ここでのscienceは「科学」ではありません。「学」です。

ついでに英文の紹介を見てみましょう。

Hegel’s The Science of Logic (1812–1816) is a cornerstone of his philosophical system and a critical work in the history of philosophy. This monumental text explores the structures and processes of thought itself, aiming to uncover the fundamental principles of logic as the foundation of reality. Unlike traditional logic, which focuses on static principles like identity, non-contradiction, and excluded middle, Hegel’s logic is dynamic and dialectical. It traces the self-developing movement of concepts as they progress through contradictions and resolutions, culminating in a comprehensive understanding of the Absolute—the unity of thought and being.

ヘーゲルの『論理学の学』(1812-1816)は、彼の哲学体系の礎石であり、哲学史における重要な著作である。この記念碑的なテキストは、思考の構造とプロセスそのものを探求し、現実の基礎としての論理学の基本原理を明らかにすることを目的としている。同一性、無矛盾性、排除された中間(?)といった静的な原理を重視する伝統的な論理学とは異なり、ヘーゲルの論理学は動的で弁証法的であり、矛盾と解決を経て、絶対的なもの(思考と存在の一体性)を包括的に理解するまでに至る、概念の自己発展的な動きを追跡する。

Hegel’s logic is dynamic …と「流動性」について触れられているので、びっくりでした。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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