川瀬和也『ヘーゲル(再)入門』 (集英社新書)を数回にわたって紹介するシリーズの最終回です。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。*の後は私の個人的な「感想」です(「意見」を述べるほど理解できていません…)。
今回扱うのは「第六章 概念と弁証法」です。(第七章は簡単な紹介のみになります。)
一 概念と認識
本章では『大論理学』の「概念論」を扱います。「概念論」では「通常の論理学」、すなわちアリストテレス以来西欧で研究されてきた論理学が扱われます。著者の意見を先取りして書きますと、ヘーゲルはここで従来の論理学を「流動化」しようと考えているのです。
* またまた「流動化」ですか。しかしアリストテレス以来研究されてきた論理学を概観するには、何を読めば良いのでしょうね。ちなみに、二千数百年に渡って西洋思想を支配してきたアリストテレス論理学(名辞論理学、伝統的論理学、三段論法論理学、とも呼ばれる)は、ゴットロープ・フレーゲによる論理学革命によって、述語論理学に取って代わられて今日に到っているらしいです。
ヘーゲルは、「概念論」の中の「概念総論」で、普遍と個別を分けるという考えに挑戦します。普遍とは、抽象的な概念です。一方、個別は、具体的なものです。
* 「普遍」と「個別」の分類も、もともとはアリストテレスの「カテゴリー論」かららしいです。(ちょっとだけ本棚の『アリストテレス全集1(カテゴリー論)』を引っ張り出してきました。)
「普遍と個別はいずれも総体性である。(・・・・・)これら二つの総体性は端的に一つのものでしかなく、またそれと同時に、この統一は、それら自身がこうして二つであるという自由な現れへと分裂することでもある。」
著者の助けを借りて読み解いていきましょう。「総体性」とは「普遍」と「個別」はお互いに、含み含まれる関係であるということらしいです。ヘーゲルの文にもありますように、「普遍」と「個別」は結局は一つのものであり、また別々のものでもあるのです。
* こういう言い方、ヘーゲル好きですねえ。でもこういう言い方って、何についても言えてしまうような気もしますが。
普遍と個別が一つのことであることを説明する箇所で、カントの認識論が取り上げられます。「認識論」って何という話になりますが、ここでは「認識の起源・構造・妥当性・限界などを論じる学問」としておきましょう。カントの認識論では「直観」と「概念」が組み合わされることで、私たちは何かを知ることができるのでした。「直観とは、感覚を通じて私たちに与えられるデータ」のことです。ヘーゲルはこのカントの認識論のうち、「概念によって認識が成立する」という部分を高く評価しました。言い換えると、「これは認識する人が対象を「自分のもの」にすること」「対象に「普遍性」という形式を与えること」ことでもあるのです。
たとえば、私たちにとって感覚器官を通じて知覚されるものは、具体的な赤いリンゴであるとしましょう。ここに概念のはたらきが加わって、はじめて「目の前に赤いリンゴがある」と認識されるのです。カントの認識論をヘーゲル流に言うと、「普遍」と「個別」の統一が認識において成り立っているということです。
ここから、ヘーゲルのカント批判を検討していきましょう。ヘーゲルの批判のポイントの一つ目は、カントにおいては「直観が概念を離れて実在するという」点です。ヘーゲルの言葉遣いでは、カントの「直観」はヘーゲルの「個別的なもの」に対応します。カントによれば、この個別なものとは別に普遍的なものとしての概念があるのですが、一方「ヘーゲルにおいては、認識と切り離された独立の直観は存在しない」のです。
* カントは説明するうえで、本来同じものを、「あえて」分けて語っているということはないのでしょうか?
ヘーゲルのカント批判の第二のポイントは、「概念が部分的に主観的なものだと見なされているという点」です。すなわち、「直観が客観的なもの、概念が主観的なものとして別々に存在すると考えると、両者がなぜ関係するのか説明できなくなってしまう」のです。カントはこの両者が調和する方法を探究しましたが、ヘーゲルは、「そもそも出発点から、主観と客観、概念と直観、普遍と個別は1つのもの」と考え、「概念と直観の統一」を可能にしたのです。
(ここで用いた「統一」はドイツ語のEinheitであり、これは後から与えられるものではなく、はじめから「一つである」のです。)
* 日本語の「統一」は「後から統一」に決まっているので、「統一」って訳語が変な気がしますが、どうなのでしょう?しかし、カントにおける「概念」は本当に「主観的」ものなのでしょうか?これもよく分かりません。
まとめます。ヘーゲルは普遍と個別の区別を流動化し、認識論においても、直観と概念の区別を流動化したのです。
ここでの理解の鍵は、「ヘーゲル哲学は「分けない(分類しない)」哲学である」ということです。ヘーゲルにおける「同一性」は「常に「分けすぎ」を打ち消すことで、体系に流動性をもたらすもの」なのです。
* なんかヘーゲルの「異なっていながら同一」みたいな言い方が、禅仏教の「公案」みたいに思えてきましたが、その両者を比較した研究とかないのかな?意地悪なことを言いますと、「流動化する」という言い方が固定化してしまって、流動的でないような気もします。
二 生命の三つの流動性
ヘーゲルの論理学には生命を論じた箇所がありますが、彼の生命論が流動性となぜ関係するかには、以下の3つの論点があります。
1.「生命を持った有機体は流動性を持つ」
2.「生物と外界との関わりにおいて、両者の境界が流動的になる」
3.「生物が繁殖して種を形成することに、生物個体の流動性を見ることができる」
それぞれ詳しく検討してきましょう。
1.は「命を持った生物においては、普遍的な心と個別的な身体が一体になっている」ということです。
これは(デカルト以来の)心身二元論における心身問題(心と身体の間の例外的な因果関係)に対するヘーゲルの回答でした。ヘーゲルはこのような心と身体の関係を、諸器官が相互依存的に結びついた有機体の中に見出します。
「生物の身体は、諸器官が有機的に結びついた「有機体」である。こうした生命の在り方は流動的である。」
2.を著者は以下のようにまとめています。「生物と外界の関わりとして、最も典型的なのは食物の摂取だ。(・・・・・)このとき、生物と外界との境界は流動的になる。」「このことは、世界の側から見ればその廃棄すなわち食べられて消滅することして生じ、生命の側から見れば自らを客観的なものにすること、すなわち身体を作り維持することとして生じる。」
3.「ヘーゲルの議論においては、生物の個体が「個別」であり、それらが集まってできる生物種が「普遍」にあたる。」のであり、「ヘーゲルによれば、「両者の生殖」によって、「類は現実性を獲得する」。」(「類」とは再生産によって形成される生物のグループを指します。)のです。川瀬先生は、「このように生殖と生物種について考えるとき、個別と普遍の境界や概念と実在の境界が揺らいでくる。ここにも流動性が容易に見出せる。」とまとめています。
* 現代の生物の専門家でヘーゲルに言及している人など、はたしているのでしょうか?カント以降、哲学者がサイエンスに言及することはよくありますが、その逆はあまり見ないような気がします。(「気がします」ばかりですみません。何しろ自信がないもので。)あと、2におけるヘーゲルの「客観的」が独特の用法ですねえ。普遍性を獲得するくらいの意味でしょうか。
三 概念の流動性と弁証法
いよいよ『大論理学』の案内も最終章に近づいてきました。三で取り上げられるのは、いよいよ?「弁証法」です。ただ、ヘーゲルは「弁証法」が自分の発明だとは考えていません。「ヘーゲルが弁証法ということで念頭に置いているのは、対象と認識の間に矛盾が生じるような事態」です。
詳しい説明は省略しますが、ヘーゲルは弁証法の取り扱い方のうち、古代ギリシャのエレア派、懐疑論の考え方いずれをも退け、「概念の中に弁証法を運動として取り込む」道を取ります。
* 「懐疑論」はこのサイトでも、Philosophy for Everyoneでやりましたね。話が繋がって、分かりやすくなるのか、ごちゃごちゃになるのか、果たして。。。
「弁証法は概念の中に取り込まれる。このため、対象や認識のいずれか一方を拒絶するということがない。」言い換えると「弁証法的な矛盾は、対象と認識の両方にまたがる形で共有される」のです。
弁証法を「運動」として捉えるということは、「対象と認識の矛盾という弁証法的な事態にぶつかっても、単純に否定的な結論を出さない」ということでもあります。
このようにヘーゲルの議論は、「異なるものが同時に同一でもある」という仕方で対立を抱え込んでいます。
「ここでは対立は、流動的な本性を指し示すものとして捉えられることで無害化されるのである」とされます。
*「無害化」って何なんだ、という話ですが、「単純な否定」が「有害」なのですかね?いや、全然理解できていないのかな?いずれにしても、ヘーゲルのこの考え方は、第六章以前に検討してきた様々な対立(「存在と無」、「偶然と必然性」etc.)に通底する考え方です。
本書の注釈では、この先の議論(「無害化など本当にできるのであろうか?」)という視点も提示されています。大変面白い指摘ですが、ここでは割愛します。
第七章 ヘーゲル的流動性と現代哲学
第七章では、現代哲学の中におけるヘーゲルが検討されます。詳しい内容は省略します。取り上げられる哲学者は二人です。
1人目はカトリーヌ・マラブーです。名前しか知らなかったのですが、私と同世代で、指導教官がデリダだったらしいです。彼女の主著『ヘーゲルの未来』はハイデガーやデリダがらみで、あまりにも面白そうなので、7,000円弱はたいて今日購入してしまいました。
もう1人の哲学者はロバート・ブランダムです。こちらも名前しか知らなかったです。主著の邦訳が品切れで高騰しているので、英語で読むか!(もう一つの主著のMaking It ExplicitがAmazonで7,800円!)とも思ったのですが、とりあえず、ブランダムの同僚のジョン・マクダウェルの『心と世界』を買ってしまいました(どういう心境なのか、いやマクダウェルは倫理学でも超重要人物なので)。これが4,510円でした、笑。
川瀬先生の本も実はあと2冊(『全体論と一元論』、『ヘーゲル哲学に学ぶ 考え抜く力』)持っていまして、まだ読んでおりません。
ヘーゲル予想通り、(入門書でさえ)手強すぎる相手でしたが、あの強引とも言える独特の論理、捨てがたいものがあります。だんだん闘志が湧いてきました。関連書などやさしいものから読んで、またいつか登頂(5合目くらいまで笑)に挑戦したいと思います。