今回は、児玉聡『功利主義入門』 (ちくま新書)の第一、二章をご紹介します。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。(ただし「功利主義」のように、引用でなくてもある用語に「 」を使用することがあります。)なお*の後は私の個人的な「感想」です。
『ミル『自由論』の歩き方』に引き続き、児玉聡先生の著作です。実はこの本の方がずっと古く、2012年に出版されています。ですからお読みになった方も多いと思いますし、私も(全部かどうか忘れましたが)昔に読んでいます(読んだ内容も忘れました。)。なお本稿を書く際に、フィリップ・スコフィールド『ベンサム功利主義入門』も随時参照しました。
功利主義というと「最大多数の最大幸福」という言葉だけはよく知られています。しかし、一口に功利主義と言っても、ジェレミー・ベンタム(ベンサムと表記されることもあります)、J・S・ミル、ヘンリー・シジウイック、R・M・ヘア、ピーター・シンガーその他みんな言っていることは異なります。ですからある倫理的問題を「功利主義だったらこう考える」みたいな単純な図式で考えることはできませんので、注意が必要です。(個人的にはシジウィックとヘアに興味がありますが、はたして本書に登場するでしょうか?)
またこの本は入門書ではありますが、Amazonのカスタマーズ・レビューにもありますように、専門家でもひっかかるところがあるようですので、私なりに疑問に思うところ、興味深いところを取り上げていきたいと思います。そういう意味ではバランスを欠いた紹介になるかもしれません。
【はじめに】
この本が「批判的思考(critical thinking)」について、「功利主義」に的を絞って論じられる、と書かれています。
【第1章 倫理と倫理学についての素朴な疑問】
この章では功利主義の話に入る前に、倫理一般の話題が取り上げられます。
最初は、「倫理感って、結局個人によって違うんじゃないの」という「倫理的相対主義」に関する3つの回答です。本書から引用します。
「一つに、一見して相対的に見えるルールであっても、よく考えればより深い共通のルールがその基礎にあると理解できることがある。
* たしかにそうではありますが、元の相対的に見えるルールは依然相対的なままですし、共通のルールもさらに相対化される可能性もあります。これは最後には1つの絶対ルールにたどりつくのでしょうか?(たぶん、たどりつきません。)
「もう一つは、文化あるいは時代によって相対的に見えるルールがある一方で、殺人の禁止、近親相姦の禁止など、ほぼ普遍的に通用するルールもあるということだ。」
* こういったルールは「普遍的」なのであって、「絶対的」ではありません。「相対的」の反対語はけっして「普遍的」ではないことに、気を付けてください。「文化的タブー」と「倫理」はぴったり重なりあうものではないと思います。
最後の反論です。「仮に相対主義が正しいとすれば、「他人の倫理観について批判すべきではない」というルールを他人に主張することもできなくなるはずだ。」
* これが最強の反論かもしれません。おそらく〈メタ論理学〉に関わる問題ですので、別の書籍で論じます。
次は「宗教なしの倫理はありえるか」が議論されます。
仮に神がいないとしても、「われわれはある程度までは倫理的ルールに従って行動する動機を持っている。」このことが、スポーツのルールの比喩で説明されます。
* 倫理的というより、周囲の視線を気にして倫理的な「ふり」をしている、という風には考えられないでしょうか。(後で出てくる「帰結主義」的考え方では、「ふり」も倫理的なのでしょうが。)それに、大多数の人がルールに従えば、一部の人は従わなくてよいのでしょうか。倫理というのは「誰にでも」あてはまる普遍性が必要なはずですが。
さらに「「人間は利己的」だから倫理は無駄か」というトピックが取り上げられます。
ここで自分の利益のために利他的な行動をとることの倫理性が問われます。著者は二つの答え方をします。
「一つは、倫理において動機というのはそれほど大切な事柄ではないという立場からの答え」です。
* これも次章から論じられる「功利主義」の帰結主義的な考え方ですね。利己的な動機であっても、結果的に利他的な行動であれば、それは倫理的だと考える立場です。
「もう一つの答えは、人間はつねに利己的に行為をするというのは、誤った考えだというものだ」という考えです。
* ホッブズによれば、人間の行為は利他的に見えるものも、結局利己的です。たとえば苦しんでいる人を助ける行為は利他的に見えますが、苦しんでいる人を見ると自分が不快になるから助けるのであるとすれば、その行為は利己的になります。そうするともはや「利己的」の意味が、当初とは変容していることになります。
次の問いは「「自然に従う」だけではいけないのか」という問いです。
著者は、J・S・ミルの言葉「自然は不完全であり、人間にとって大きな脅威でもあり、人間が無批判に真似すべきものではない」を引用し、倫理とは盲目的に自然に従うことではないと主張します。
*たしかにそうですが、「自然に」にはミルの述べるような大自然というような意味もあれば、「自然な流れで」というような意味もあり、「自然に従う」が複数の意味を持つ可能性があります。
本章の最後の問いは、「倫理学は「非倫理的」か」です。これはいったいどういうことでしょうか。
ここでは倫理的問題を考える際に「非倫理的な」(たとえば人を殺すというような)思考実験が行われることの必要性が説明されています。そして、それが単なる思考実験ではなく、戦争のような極限状態では実際に起こりうることが指摘されます。それに・・・ですよ。倫理学が「倫理とは何か」を考える学問だとすれば、その問われている学問が結論を出す前に「非倫理的」という権利はないように思われます。(またしてもメタっぽい。)
【第2章 功利主義とは何か】
この章から、やっと功利主義の話題に移ります。功利主義は、ジェレミー・ベンタムが最初に定式化した思想です。その原理は有名な「「最大多数の最大幸福」を指針として行為せよ」です。功利性の原理をさらに具体的に説明しますと、「人がなすべきこと、正しい行為とは、社会全体の幸福を増やす行為のこと」なのであり、「幸福とは快楽に他ならず、不幸とは快楽がない状態か、苦痛のことである」のです。
ベンタムは快楽を幸福と考えていますので、当然古代ストア派のような「禁欲主義の原理」を批判します。社会全体の公平さを重視しますので、自分の気に入らないものを禁止する「共感・反感の原理」にも同意しません。
次に「快楽の計り方」という話が出てきます。ベンタムは快楽や苦痛を正確に「計量」するために、快楽や苦痛を十種類以上に分類しました。
* しかし、私が不勉強なだけかもしれませんが、どうしてある種の快楽がAさんとBさんにとって同じと言えるのでしょうか。ここには快楽、苦痛という質的差異を量的差異に還元してしまう問題、また個人間の差異が等閑視されている問題などが存在しているように思われます。
* ベンタムの幸福計算は、現代経済理論の費用便益分析の発想の源になっています。(『ベンサム功利主義入門』p.22)
次に「なぜ功利主義に従うのか」という項目で、サンクションという概念が登場します。本書によれば、「サンクションとは、報酬や制裁のように、特定の行動を取るよう、あるいは取らないよう、われわれを動機づけるもの」です。
* 英和辞典などではsanctionとは「(政治的な意図を持った)制裁(措置)」という意味で使用されることが多いようですが、ベンタムにおいてこの語はより広義に用いられています。本書では「動機づける」となっていますが、「強制力」としている本もあります。また本書ではサンクションを自然的サンクション、政治的サンクション、民衆的サンクション、宗教的サンクションの4つに分類していますが、本によっては3つ目を「道徳的サンクション」としているものもあります。原文はthe physical, the political, the moral and the religiousですので、児玉先生の本がなぜ「民衆的」となっているのかわかりません。
*「ベンサムはサンクションという用語を、立法者によって課される報酬と処罰について述べるためだけではなく、快楽と苦痛の「源泉」について言及するためにも用いている。」(『ベンサム功利主義入門』p.68。)
この章の最後に、功利主義の特徴をまとめておきましょう。
(1)帰結主義。「功利主義はいわゆる「結果論」ではない」のです。なぜなら結果論は事後的な評価ですが、帰結主義は「事前の予測に基づいて、行為の正しさを評価する」からです。
* カントに代表される「義務論」と真逆ですね。なお、他の帰結主義と異なり、功利主義はすべての感覚的存在の利益を平等に考慮します。ところでですよ、「事前の予測に基づく」のでしたら、まったくの帰結主義ではなくて、そこにすでに「動機」が含まれるということになりませんか??
(2)幸福主義。「幸福主義によれば、この世界で内在的価値を持つのは幸福だけであり、それ以外のものは幸福になるための手段として道具的価値を持つにすぎない」のです。
* アリストテレス『ニコマコス倫理学』においても、幸福の内在的価値が論じられていました。本書でも第6章で改めて取り上げられるようですので、次回以降詳述します。
(3)総和最大化。「功利主義は自分の利益を最大化するという利己主義ではない」のです。人々の幸福の「総和」を最大にする、ある意味非常に「公平な」立場なのです。
* しかし、何回も書きますが、快楽や苦痛という質的なものを、どうやって「足す」のでしょうか?功利主義を語ってきた人たちはこんな疑問は無視なのでしょうか?私には根本的な疑問に思えますが(不勉強なのかな。。。)