今回は、児玉聡『功利主義入門』 (ちくま新書)の第三、四章をご紹介します。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。(ただし「功利主義」のように、引用でなくてもある用語に「 」を使用することがあります。)なお*の後は私の個人的な「感想」です。
本題に入る前に・・・
前回私は「本によっては(ベンタムの)3つ目(のサンクション)を「道徳的サンクション」としているものもあります。原文はthe physical, the political, the moral and the religiousですので、児玉先生の本がなぜ「民衆的」となっているのかわかりません。」と自分の疑問を書きました。このことにつきまして、恐れ多くもご著者の児玉聡先生から、X上で直接以下のコメントをいただきました。先生の了解が得られましたので、ここにご紹介いたします。
「原文ではmoral or popular sanctionで、世論(public opinion)が念頭に置かれています。道徳的サンクションと書かなかったのは、「道徳的に正しいサンクション」という風に誤解されて読まれることを避けたかったからです。」(ベンタムの原文のリンクまでお送りいただきました。)
私がきちんとベンタムの原書にあたらなかったのがいけませんでした。児玉先生ありがとうございます!なお、ベンタムの『道徳および立法の諸原理序説』(An Introduction to the Principles of Morals and Legislation)の出版は1789年ですが、フランス革命のバスチーユ占領も同じく1789年です。またカントの三批判書の出版は、『純粋理性批判第2版』(1787)、『実践理性批判』(1788)、『判断力批判』(1790)となっています。(なんだか毎年すごいですね。)ちなみに、この後登場するメアリ・ウォルストンクラフトの『女性の権利の擁護』が1792年です。
【第3章 功利主義者を批判する】
この章の冒頭で、功利主義に従った場合、私たちの常識に反する結論を導く例がいくつか紹介されます。(本文では分かりやすい例が複数提示されますが、ここでは割愛します。)
ここで功利主義の「公平性」という考え方を議論するために、ベンタムと同世代のウィリアム・ゴドウィンの見解が参照されます。彼は「ある人が「わたしの」家族や友人であるという理由だけで、特別扱いすることを強く批判」しました。
そのゴドウィンですが、前回『世界一やさしいフェミニズム入門』でもご紹介したメアリ・ウォルストンクラフトと懇意になります。ゴドウィンは結婚制度に否定的でしたが、彼はなんとウォルストンクラフトと結婚してしまうのです。この後のゴドウィンの思想の変遷は次章で検討されます。
* しかし、J・S・ミルとハリエット・テイラーといい、功利主義者とフェミニストはどうしてこうも結びつくのでしょうか?(誰か研究していないかな。。。)
【第4章 洗練された功利主義】
ゴドウィンの主張した公平は、英語でimpartiality、彼が批判する家族への偏愛がpartialityです。
* ところで、この「公平性」で思い出すのが、あの『効果的利他主義』です。ピーター・シンガーやマッカスキルの考えでは、「アメリカ人は、アメリカ人を救うお金で、何百倍もの人数のアフリカの人を救えるのだから、アフリカに寄付すべきである」のです。(本書でも第4章の最後でシンガーが登場します。)
ゴドウィンは、ウォルストンクラフトとの結婚・死別を経験することで、大きく自分の考えを修正することになります。すなわち、極端な身びいきは許容できないが、適度な「家族への愛情」は功利主義的にも有益であると考えるようになったのです。
* しかし「適度」って誰がどのように決めるのでしょうか。曖昧です。
ゴドウィンの例は、功利主義が「家族への愛情」という常識的な考えに修正されていく一例でしたが、次にカントの有名な「嘘論文」が引用されます。カントは次のように述べます。「われわれの友人を人殺しが追いかけてきて、友人が家の中に逃げ込まなかったかとわれわれに尋ねた場合、この人殺しに対して嘘をつくことは罪である。」
本書から引用します。
「現代の功利主義は、二つの点で洗練されている。一つは、功利主義的に行為するために、ひたすら最大多数の最大幸福のことばかり考えて行為する「功利主義マシーン」になる必要はないとする点だ。」(「間接功利主義」)
「もう一つは、約束を守るとか嘘をつかないという義務の重要性は認めながらも、そうした義務を守ることが行き過ぎることがないように、功利主義の観点からチェックする必要がある、という立場を取っている点だ。」(「規則功利主義」)
* 私の読み間違えでなければ、「間接功利主義」は、上記のゴドウィンの例で示されたような、ゴリゴリの功利主義の修正、「規則功利主義」はカントの例によって示された義務論の修正です。いずれにしても、世間一般の「常識」に合わせて修正をほどこすことによって、功利主義や義務論が本来持っていた「ラディカルさ」が消失してしまうように思います。「倫理学」とは、世間の人が普通そうだと思っている「常識」にくさびを打ち込むものであるならば、洗練されなくてよいのではないかと思います。
* たとえば義務論に関して、中島義道は『ウソつきの構造 法と道徳のあいだ 』 (角川新書)の中でこう述べています。
中島義道pp.163「すなわち、共同体のすべての成員が不幸に陥っても、真実は「無制限に善と見なされ」ているゆえにウソをつくべきではないのだ。(中略)現代社会においてもなお「哲学(愛知)」に何らかの存在意味があるとすれば、まさにここをおいて他にないのではなかろうか?」
また、哲学者の永井均は、X上で、(今年刊行される)「『カントの誤診2』では、カント道徳哲学を唯一無二の真の道徳哲学として(アリストテレスやヘーゲルやバーナード・ウィリアムズや……に抗して)最大限に評価することになる」と書いているので、その評価も楽しみです。
本書ではこの後、J・S・ミルが『自由論』で定式化した「他者危害原則」の話が出てきますが、これについては以前ここで児玉先生の新書を取り上げ、詳しく検討しましたので、ここでは割愛します。
功利主義を世間の常識に沿って修正していきますと、次のような疑問が生じます。
「それでは功利主義ではない人の考え方と同じではないのか。そのいったいどこが功利主義的なのか。」
さて、それに答える前に、功利主義における「公平性」を検討するには、逆に「公平ではないこと=違い」が何であるかを、はっきり定義しておかなければいけません、
「何が「道徳的に重要な違い」であるのかという問いは、公平性を重んじる功利主義にとって、常に重要な問いであり続けてきた。」
ここで、さきほどの疑問「どこが功利主義的なのか」に答えるため、功利主義の「公平」の側面を強調したピーター・シンガーについて書かれている部分を引用します。
「われわれが「ここまでは道徳的な考慮に入れて、これ以外はそうしなくていいだろう」と何となく線引きしている事柄について、その線引きは本当に道徳的に重要な違いに基づいているのか、その線引きによって一部の人(や動物)の克服や不幸を無視することにならないのか、とシンガーは問うのだ。」
* ここでは主に、シンガーが告発する「種差別」(人間が動物etc.などを差別していること)が問題となっています。シンガーは「苦痛を感じる存在」として、人間と動物の間に「線引き」を認めません。
* 「線引き」をするとは、すなわちそこに「違いを認める」ということです。それでははたして、万人が納得する「線引き」は存在するのでしょうか。あらゆるものに「質的な差異」がある以上、「線引き」をする際には超越的視線を持たなければなりません。
* 「間接功利主義」的観点に立つと、いったい「どの線で手を打つべきか」は個人の判断に委ねられてしまいますし、「規則功利主義」に関しても、事情は同じです。「義務の重要性は求めながらも」といいながら、ある程度を過ぎたらその重要性を認めないとすれば、線引きの程度・基準は個人の判断に委ねられます。
* 貧しい人を救いたい人の数よりも、貧しい人に寄付しないで自分が楽したいと言う人の数が多かったら、「最大多数の最大幸福」はどうなるでしょうか。シンガーならこう言うでしょう。「楽したい」と「命」では幸福の「程度」が違いすぎると。もちろんこの点ではシンガーに異論はないのですが、公平性の原則にも評価者の価値判断が必ず入るということです。「命」は絶対的な基準のように思えますが、そう考えない人間も存在します(トランプにとって、ウクライナの人の人命よりレアアースの方が貴重なように)。