今回は、児玉聡『功利主義入門』 (ちくま新書)の第5章をご紹介します。5、6、7章まとめてやって終わりにしようと思っていましたが、甘かったです(論点が多すぎました)。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。(ただし「功利主義」のように、引用でなくてもある用語に「 」を使用することがあります。)なお*の後は私の個人的な「感想」です。
【第5章 公共政策と功利主義的思考】
まず功利主義が、産業革命が進行する中で生まれた、という時代背景が説明されます。その上で、「最大多数の最大幸福」というスローガンが、マイノリティを抑圧することとは正反対の思想であることが強調されます。「功利主義はわれわれが見て見ぬ振りをしがちな社会的弱者の幸福にも配慮することをわれわれに要求するのだ。」
* 「要求」ですからね、厳しい思想なのです。「見て見ぬ振り」を告発したピーター・シンガーに、たいていの人は不快感を感じるのです(と、リチャード・ドーキンスが書いていました)。
「ベンタムにとっては、「倫理」は個人の道徳と、政治や立法の両方を意味していた。」
* 倫理を「個人」(private)と「公共」(public)を分けて考えることは重要だと思います。私は、今まで、ベンタムは(と言うより功利主義は)後者に重点があると思っていました。
「本書では、これまで主に個人がよく生きるための指針としての功利主義について考えてきた。」
* しかし、私は本書では「個人が社会の中でどのように生きるか」というように、個人とは言ってもpublicの面が強調されてきたように思います。逆に言うと、「友だちを裏切ってしまった」というような、「内面的な倫理」についてはあまりふれられていなかったように思います。
さて、本章では公共政策における功利主義的思考について議論されます。具体例として、災害時の「トリアージ」が取り上げられます。一方、公共政策に功利主義的発想を取り入れることについては、反論もあります。例として、ジョン・ロールズの「功利主義は人格の個別性を無視する」という批判が取り上げられます。
* 本書の出版は2012年ですから、児玉先生は、トリアージで、当然東日本大震災を念頭に置いておられたと思います。
* カール・ポパーと功利主義が結びつくとは、初めて知りました。
* ジョン・ロールズはサンデルにも出てきたのにまだ全然読んでいません。しかし、私も同じようなことを感じていました。そもそも「私」と他者一般は、本当に「公平に」扱われなければならないのでしょうか?、私は「それは違う!」と思います。なぜなら「私」とは、そこから世界が生まれる「絶対的始原」だからなのですが、これについては機会を改めて論じたいと思います。
ロールズの批判に対して、二つの応答が与えられます。
「一つは、特定の人や集団の犠牲の上に多数者が幸福になるような社会は、長い目で見れば全体の幸福の最大化にはつながらないと主張することだ。」
* たしかにもっともですが、長い目で見るのは誰でしょうか?今現在世界に生きている人が「長い目」を持つことには、限界があります。政策の立案時に将来を見通せない場合、功利主義はどう考えるのでしょうか?
「・・・もう一つの応答は、(中略)、政策を作るさいに指針となる二次的な規則を作ることだ。」二次的な規則とは、ベンタムにおいては「人々の生存と安全をまず等しく保証する」という原則、ミルにおいては、「他人に危害を与えないかぎりで個人の自由を最大限保障すべきだ」という原則です。このように「個々の政策を策定するさいの基本原則となる二次的規則を作るために功利原理を用いるべきという考え方は「規則功利主義」と呼ばれる。」
* 前回「規則功利主義」は「(・・・)義務の重要性は認めながらも、そうした義務を守ることが行き過ぎることがないように、功利主義の観点からチェックする必要がある、という立場を取っている」と説明されていましたが、ここでは視点を変えて説明されています。
このように、功利主義は、個々の政策においては自由主義を支持します。それでは、功利主義と自由主義の違いはどこにあるのでしょうか?ジョン・ロックとJ・S・ミルを比較してみましょう。ロックにおいては「われわれは生まれながらに自由権や所有権などのいくつかの権利(自然権)を持っている」のに対し、ミルはそう考えません。功利主義者は、「自由の価値は、社会全体の幸福の価値から派生する」と考えるのです。
逆に功利主義の観点から、「自然権」という考え方は、以下の2点で批判されます。
本書から引用します。「一つは、われわれに(中略)「自然の権利」が存在するという主張は立派だが、その根拠を示すのが難しいということ」です。「もう一つは、(中略)、自然権を認める対象の範囲が明確でなく、その適切な範囲について議論するのも難しいということ」です。
功利主義には「最大多数の最大幸福」の実現を目指すため、「人々の権利を無視してその生活に干渉する」権威主義的側面と、「当人が適切だと考える仕方で個々人の幸福追求を促進するような制度設計を構想」するような自由主義的側面があります。これに関して、公衆衛生を通じて考察してみましょう。
ベンタムの弟子チャドウィックは、ベンタムの公衆衛生に関する思想を実現しようとしました。彼は「科学的知識を持った専門家による統治、中央による地方政府の統制、環境が人の健康に影響を与えるという衛生思想の三つの原則が重要だと考え」た点で先進的でしたが、その考えは権威主義的であり自由に不当に介入するとして批判されました。一方、J・S・ミルはチャドウィックの活動を高く評価していましたが、その考えは対照的でした。ミルは「能率と矛盾しないかぎりで権力の最大限の分散、しかし可能な最大限の情報の集中化とそれの中央からの拡散」があるべき姿であると考え、また「個人の利益は当人自身が一番よく配慮することができる」と考えていました。
このように公衆衛生においても、権威主義的側面と自由主義的側面が存在します。ここで児玉先生は、感染症について検討し、集団防衛のために個人の自由が制限される必要性があることに言及されています。
* 本書の出版は2012年です。この時点で2020年のパンデミックを予言されているかのような記述はさすがです。
* ちなみに児玉先生はコロナに関しても著作を出しておられます。『COVID-19の倫理学―パンデミック以後の公衆衛生 (京都大学「立ち止まって、考える」連続講義シリーズ01) 』
次いで「生活習慣病」という用語のうちに、個人のライフスタイルに対する干渉を読み取ります。
(公衆衛生の倫理学は医療倫理とは異なることも確認されます。)
ミルの立場では、(自由すぎて)公衆衛生のほとんどが成り立たなくなってしまいます。そこでリバタリアン・パターナリズムという、本来相反する立場を融合した立場が紹介されます。具体的にはセーラーとサンスティーンのNudge理論です。
「リバタリアン・パターナリズムは、「人間はあまり合理的に行動しない」という仮定から出発している。」
その理由のひとつとして、「われわれはしばしば現在の快苦を過大評価する傾向にある」ことが挙げられています。これは「現在バイアス」と呼ばれます。また「広告会社や小売店がわれわれの理性ではなく情動に働きかける宣伝」を行っていることも、またその理由とされます。
* ナッジ理論は最近の英語の教科書にも掲載されており、高校生でも知っている生徒が多いです。
* ナッジって効果がどうかというのもありますが、知らないうちに人の行動を操作するという点が、昔から何となく嫌いなのですが。。。やはり公衆衛生のような政治の世界は、妥協の産物が必要なのでしょうか?
* ナッジは「間接功利主義」の一種と考えても良いのでしょうか。わかりません。
この後、英国の「公衆衛生的介入の階梯」七つのレベルが紹介され、喫煙規制のケースが検討されますが、詳細は省略します。
この章のまとめで述べられる著者の提案は、傾聴に値します。
「こうした公衆衛生活動自体を、人々の自発的な参加と協力に寄って運営することも功利主義の立場からは大切だ」