今回は、青山拓央『分析哲学講義』 (ちくま新書)の、冒頭から講義2までをご紹介します。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「  」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「指示対象」のように、ある用語に「  」を使用することがあります。)なお*の後は、私の個人的な「感想」です。

* まず初めにお断りしてきますが、私は「分析哲学」について何も知りません。本も1冊も完読したことがありません。ですから、入門書にうまく入門できるかどうかも分かりません。途中で放り投げてしまうかもしれませんが、何とか頑張って理解する努力をしてみたいと思います。また(おそらく議論が複雑で)すべての論点を取り上げることはできないと思いますので、その点もご了承ください。

【はじめに】
気になった部分を引用します。
「分析哲学という何か閉ざされた哲学の分野があるわけではありません。」
「・・・分析哲学とは、言語の働きの解明を通じてさまざまな問題に答えるものであり・・・」
「重要なのは、ここで言う「言語」に、人間が思考するための論理もまた含まれている点です。」

* 少しだけ分かったような気がしますが、具体的な分析を見てみないと、まだはっきりイメージが掴めません。とりあえず、分析哲学とは、言語の論理構造に目を向けたものであるということが分かりました。

【講義1 分析哲学とは何か】
分析哲学においては、「何を対象とするのか」「どんな手法をとるのか」「歴史的影響関係」そのいずれもが決定的ではないものの、それぞれに一応の解答が与えられます。

* 「決定的ではない」とは、「対象」だけでも、「手法」だけでも、「影響関係」だけでも、それだけで100%分析哲学を規定することはできない、ということだと思います。

それぞれの解答ですが、
「何を対象とするのか」→「言語を対象とする」
「どんな手法をとるのか」→「言語の機構の解明によって他の機構を説明していく」
(ここで「言語論的転回」(linguistic turn)という用語が出てきます。著者によれば、「まず言語があってそこから世界が開かれるという直観が、分析的手法を支えています。」)
「歴史的影響関係」(と言ってのかわかりませんが)→言語論的転回で(哲学から)追い出されたものは、「一人称的で構成主義的な観念論の考え」であることが述べられます。その理由を著者は、観念論においては、「あくまでも世界を開くのは「私」であり、言語はその「私」の道具として使用されるにすぎません。」と説明します。

* 初心者すぎて、疑問のピントがずれているかもしれませんが、たとえば英語と日本語は全然別の言語なので、英語話者と日本語話者には別の世界が開かれているということにはならないでしょうか?
* そうでなくて、英語と日本語の「共通の論理構造」だけに目を向けると言った場合、はたして世界とは「論理構造」だけで「開かれる」ものなのでしょうか?私には、わかりません。
* 自分以外の人がどう感じているのかわかりませんが、「観念論」の考え方、すなわち「私」から世界が開かれ、それを言語が記述するという考えの方が、普通の感覚に近いのではないでしょうか?「普通」とは何だという話になりますが。

次に分析哲学と言語学の違いが述べられます。とりあえずの違いとして、分析哲学は、「言語だけでなく言語と世界の関わりについても、応答を迫ってきます。」と述べられます。これを説明するために、分析哲学が言語を研究対象とする二つの理由が挙げられます。

一つ目の理由は、「言語機構の解明を通じて他の機構を解明するため」です。ここで、「言語は生き方と関係がない」、あるいは「言語では客観性が担保できない」という考えがいかにナイーブであるか、ということが指摘されます。
二つ目の理由は、分析哲学は倫理や文法を言語から抽出し、一般的なかたちで体系化し、それを探究するからです。

* 一つ目の理由は「言語学以外」、二つ目の理由は「言語学に関するもの」と理解するのは、少し単純化しすぎているのでしょうか。

さて、話は歴史的分類に戻ります。仮にフレーゲとラッセルを分析哲学の祖とした場合、そこに二つの流れが生まれます。一つ目の流れは、「人工言語学派」です。この学派の試みは、論理実証主義(カルナップ、シュリック、エイヤーなど)へと展開していきます。この分野は、後の科学哲学にも大きく寄与しました。もう一つの流れは「日常言語学派」(ライル、オースティン、ストローソンなど)です。「心の哲学」もこの考えを基礎とし形成されました。

もう一箇所、私が重要だと思う箇所を引用しておきましょう。
「分析哲学とは概念分析である、という考えは、多くの分析哲学者にとって受けいれがたいものになっています。」それでも著者は、概念分析の有用性を強調します。

* 概念分析ですべてが解決するわけでないとしても、すぐれた概念分析の実践は、分析哲学の大きな魅力であると思われます。

講義1の最後で、有名な二人が登場します。クワインとウィトゲンシュタインです。2人とも後ほどの講義で詳しく語られるそうですので、ここでは省略します。

* クワインは哲学に近づく前から少しだけ知っていました。第二言語習得理論(SLA)の本に、「指示の不可測性」テーゼが出てくるからです。この問題は、「知らない言語の土地において、ウサギを指差し「ガヴァガイ」と現地の方が発言したとする。このとき「ガヴァガイ」が何を指すのか特定することは可能であろうか。」というものです。これを読んだときに、SLAじゃなくて哲学やりたいなあと、つくづく思いました、笑。

* ウィトゲンシュタインは,、オンラインで槇野沙央理先生の『「ウィトゲンシュタイン『哲学探究』を(あなたの自叙伝として)読む」』を受講したことはあるのですが、ほとんど知らない状態です。それでも、将来自分にとって極めて大切な哲学者である予感がしましたので、着々と本を買い集めています。死ぬ前に読まないとなあ。

【講義2 意味はどこにあるのか】
この章から、具体的に分析哲学の手法を見ていくことにします。

まず「意味を伝えるとはどういうことか」が問われます。具体例として、「アセロラの実は赤い」という文が考察されます。ここで問題になるのが、「意見の客観性でも、事実の客観性でもなく、意味の客観性であること」です。言い換えれば、すべての人の意見が「アセロラの実は赤い」で一致しているか、「アセロラの実は赤い」という客観的な事実が問題なのではなく、「アセロラの実は赤い」という文の意味が客観的かどうかが問題なのです。

* たしかに、ある文の意味の客観性が担保されない限り、あらゆる哲学的議論は無意味であると言えます。哲学の2,000年以上の歴史で、分析哲学以前に、このような問いはなかったのでしょうか。

フレーゲは、「数学的・論理的な文の意味は、すべての人にとって同一のものでなければならない」と考えました。

「すべての文は」と言っていないことに要注意です。しかし、フレーゲはこの考えを、数学・論理学以外の真偽を問える文にも拡大し、「心の中や頭の中に、意味は存在しない」としました。これは「心理主義批判」と呼ばれています。

* 「アセロラの実は赤い」という文は、Acerola berries are red.ともAcerola nuts red.とも訳すことができます。「アセロラの実は赤い」という「文の意味が客観的である」と言うとき、翻訳の問題はどうなるのでしょうか。「いやいや、それはどちらの話者も、同じイメージを対象として指示しているのだ」と言えるのでしょうか。「アセロラ」のような単純な文でもこうですので、フレーゲによる「対象の拡大」は失敗に終わるような気がします。

ここで「意味とは心理的イメージである」と考える「イメージ説」を検討してみましょう。本書では、画用紙に色を塗って、自分のイメージと他人のイメージを比較する例が挙げられています。このようにしても、比較しているのは「私にとっての赤色のイメージ」と「私にとってのその画用紙の色」なのです。結局のところ「自分と他人との間でイメージの比較ができない」ということになります(詳しい証明は本書でお読みください)。

さらに重大な問題が提起されます。それは、「イメージが概念以上に細部を捉えてしまう」という問題です。わかりやすく言いますと、ある概念をイメージ化した場合に、その具体的なイメージは必ず余計なものを含んでしまうということです。また逆に、千角形と千一角形の違いのように、概念の方がイメージよりも詳細な場合もあります。重要なのは「概念とイメージは異なる」という事実です。

ここで最初の問い「意味の伝達」について、以下のように確認されます。「いま私たちが論じている「意味」は、概念の伝達に関係しています。」

ウィトゲンシュタインも、イメージ説を批判しています。ここですべては紹介できませんが、有名な指摘としては、〈イメージは唯一の規則を与えない〉というものがあります。言い換えれば、「イメージというものは、ただそれだけが与えられても、そこからどんな規則を取り出せばよいのか分からない」ということです。「どんなに単純なイメージであっても、無数の解釈を許す」のです。しかし、ウィトゲンシュタインはさらに「そもそも意味とは何らかのものであるという考え全般を揺るがす、恐るべき指摘」をするのです。(これについては「講義5」で解説されるそうです。楽しみ。)

さて、意味が客観性を持つとは、意味が公共的空間へやって来るということです。公共空間にやって来るということは、すなわち、意味が「だれからも接近可能であり、だれにとっても同一性を保ったもの」であることです。

ここで、言葉の意味は指示対象であると考える「指示対象説」について考えてみましょう。たとえば「東京タワー」を例にとってみれば、その意味は「だれからも接近可能であり、だれにとっても同一性を保ったもの」のように思えます。

* はたして「東京タワー」と言う語は、すべての人に同じ概念(イメージと言ってはいけないのですよね?)を喚起するのでしょうか。東京にとってのシンボルであるとか、(今は使われていないかもしれないですが)電波塔であるとか、人によって意味が異なるのは「イメージ」であって「意味」ではないのでしょうか?よく分かりません。私が思うに、まったくのイメージなしの「東京タワーの概念」というものは、はたして存在可能なのか、ということです。

その上、指示対象説は、抽象的概念について表現する場合に、難点があります。本書では「東京タワーは赤い」という例文における「赤い」が問われます。この「赤さ」は抽象的存在であり、物理的世界にも、心理的世界の中にも存在しません。これはプラトンがイデアと述べたような存在なのです。

本文から引用します。
「フレーゲもラッセルも、(・・・)、指示対象説を視野に入れた一種のプラトニズムをとりました。」

著者は「重要なのは、私秘的な場所から意味を追い出すことです。」と述べます。要するに、上記のプラトニズムを批判するのであれば、抽象的な意味の置き場所が他に与えられなければなりません。またプラトニズムを採用するにしても、真ではない(偽の)文が指示している対象は何であるか、という問題が残ります。「偽の文も有意味である以上、指示対象説が正しいなら、その指示対象が求められ」るからです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です