今回は、青山拓央『分析哲学講義』 (ちくま新書)の講義3をご紹介します。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「指示対象」のように、ある用語に「 」を使用することがあります。)なお*の後は、私の個人的な「感想」です。
【講義3 名前と述語】
いやあ、今回は(も)初学者にとっては難しかったです。
まず用語の説明ですが、前回取り上げられた「東京タワー」のような語は、単一の事物を指し示す名前であり、通常「固有名(proper name)」と呼ばれます。これに対して、一般的な種や性質を指す語は「一般名」と呼ばれます。また「確定記述句(definite description)」とは、単一の事物を指す句で、固有名と代名詞以外のことです。英語で言うなら定冠詞 ‘the’が付く句と言えます(たとえばthe present King of England)。しかし、本書では「ラッセルは固有名もまた確定記述の一種だと考えました。」とあり、ややこしくなるなります・・・(が、ここでは本書の著者の分類に従います)。
ここで前回登場した「指示対象説」が、確定記述に関して当てはまるかどうか検証します。
「現在の日本の大統領」という確定記述句について検討します。そのような人はいないのに、なぜこの表現は意味を持つのでしょうか。ここで指示対象説は、肝心の指示対象を持たないことになります。(現実に今、日本に大統領などいないからです。)
* 「意味を持たない」とする学者もいますが、ここではあくまでも著者の青山先生の文に従います。
「現在の日本の大統領は女性である」のような(句ではない)文で考えてみましょう。
この文に対応する事実は存在しません。
ラッセルならばこの文を、三つの文の連言(「かつ」で繋いだもの)として理解します。
(*この分析は、ラッセルの分析とは少し異なっていますが、そのまま引用します。)
「現在の日本の大統領であるような人物がいる」(少なくとも1人いる)
「現在の日本の大統領であるような人物は、多くても一人である」
「現在の日本の大統領であるような人物は、だれでも女性である」
ここで何が生じているかと言いますと、元々の文「現在の日本の大統領は女性である」は、英語ならばtheを付けて書かれるべき、特定の人物について述べられた文です。ところがラッセルのように分解して三つの文の連言として考えると、誰か特定の人物に関しては語っていないことがわかります。これがラッセルの「記述理論」です。
* ・・・とは書いたものの、まだ完全には理解できていません。述語論理学の説明は難しいです。ここはやはり原典B. Russell, “On Denoting”, Mind 14, 1905(清水義夫訳「指示について」,坂本百大編『現代哲学基本論文集I』勁草書房,1986)を読むべきだとは思いますが、(実際少しだけ読んでみたのですが、けっこうごちゃごちゃしています)、ここでは混乱を避けるため、あえて原典には言及しません。機会がありましたら、この論文をこのサイトでも取り上げてみたいと思います。
* 述語論理(predicate logic)とは、数理論理学における記号的形式体系群を指す用語で、これらの形式体系の特徴は、論理式に含まれる変数を量化できる点です。
* 命題論理では「AならばB」のように文全体を一つの単位として扱いますが、内部構造は考慮しません。それに対し、述語論理では、文の内部構造(主語、述語、関係など)を分解し、より詳細に論理を展開できます。
この新書ではわかりやすく多少書き換えてありますが、ラッセルの原著は、日常言語を述語論理学の言語に翻訳したものです。なぜ翻訳の必要があるかと言うことに関して、筑波大学の橋本康二先生のサイトが分かりやすく説明してくださっていますので、引用します。
「ラッセルは問題が生じた原因はわれわれが日常言語の文法に惑わされている点にあると考えた。(中略)そこでラッセルは、両者の意味が有する構造はまったく別なのではないかと考えた。この意味構造の違いは、それを表現する日常言語の文法構造の同一性によって覆い隠されているのである。したがって、意味の構造を正確に反映した文法構造を持つ言語を人工的に作り出し、日常言語の文を人工言語の文へと翻訳することができれば、指示句を含んだ文の意味も人工言語の文法構造に則して説明できることになる。」
述語論理学の特徴は、「文を関数のように扱う」ことです。さらに、「関数的分析に加え、述語論理学の骨子となるのは、存在するものの量の規定、すなわち量化と言われるものです。」
「文を関数のように扱う」とは、本書の例で言えば、「〇〇〇は男性である」という文において、〇〇〇の部分が関数における変数Xの役割を果たします。ここにたとえば「アインシュタイン」を代入し、「アインシュタインは男性である」という文が出来上がります。
次に「量化」ですが、量化とは、論理学において命題や述語に「どれだけのものに当てはまるか」を指定する操作です。具体的には、全称量化子(∀、すべての~に対して)と存在量化子(∃、ある~が存在する)の2つが中心的な概念です。(と言っても、この記号まだ理解していないのですが。)
次に「すべての人は、だれかと同郷である」のような文においては、関数的な文の形成の順序がきわめて本質的であると本書では述べられています。なぜかと言うと、「すべての人」という変数(厳密に言うと「数」ではないですが)と、「だれか」という変数のどちらを先に埋めるかで、その文の意味が変わってしまうからです。
この後、「すべての人間は死ぬ」という文は、「すべてのもののうち、そのどれについても、それが人間であるならば死ぬ」というように、人間という「一般名」は関数としての述語になるという話が出てきますが、ここでは細かい議論は割愛します。
ラッセルは、固有名についも、確定記述句と同じ問題が発生すると考えました。その解決について本文で述べられますが、これに関しましても、ここでは省略します。
一方、W.V.O.クワインも、『論理的観点から』において、この問題を、別の角度から説明しています。
* この議論は、同書の「Ⅰなにがあるのかについて」に載っています。この論文もいつの日かここで取り上げられたらと思います。
「ペガサス」は指示対象を持たない固有名ですが、「ペガサスは存在しない」と言明したときに、ペガサスは主語として、概念的に存在してしまいます。
ここでクワインは、ペガサスを主語として扱うのでなく、「ペガサスる」という述語を導入することで、解決をはかろうとしました。要するにペガサスを述語化してしまえば、主語としてのペガサスは不要になりますから、ペガサスであるかどうかを判定することが可能になるのです。一方、主語はX、Y、Zといった変項によって置き換えられることになります。
本書から引用します。「こうして、名前というものは固有名か一般名かを問わず、量化表現における述語に変換されます。」
そして、クワインの有名なフレーズが紹介されます。「存在するとは、変項の値になることだ。」
この後、本書では、丹治信春『クワイン ホーリズムの哲学』における「量化表現は「存在するものの全体」すなわち「宇宙」を検索するような働きをもつ」という説明が引用されます。
その上で著者は、「その検索に引っ掛かってくるものだけが存在です。」と、その説明を根本的に逆転し、以下のように言い換えます。「量化表現があってその後に存在があるのです。」