今回は、青山拓央『分析哲学講義』 (ちくま新書)の講義4をご紹介します。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「  」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「指示対象」のように、ある用語に「  」を使用することがあります。)なお*の後は、私の個人的な「感想」です。

【講義4 文脈原理と全体論】

「〇〇は男性である」という関数の変項(〇〇)にアインシュタインを代入すると、真という値が得られます。このような真や偽は「真理値(truth value)」と呼ばれています。また、真偽を問える文を「命題」と呼びます。

この講義では、まずフレーゲの「文脈原理(Context Principle)」に注目します。本書から引用します。
「文脈原理とは、命題に含まれる語の意味はその命題の意味への貢献によって決まるというもの」です。わかりやすく言い換えますと、語の意味は、それが使用される文全体の文脈の中でしか理解できない、ということです。

例えば、‘bank’という語を考えてみます。この語単体では、それが「金融機関」を指すのか「川の土手」を指すのか分かりません。しかし、文脈の中で’he deposited money in the bank’「彼は銀行にお金を預けた」とあれば金融機関を意味し、‘he sat in the bank’「彼は土手に座った」とあれば川の土手を意味します。文脈原理によれば、‘bank’の意味は文全体を通じて初めて明確になるとされます。

我々の普通の感覚では、意味を持った語が集まり文ができるのですが、事態は逆です。これを著者は次のように述べます。「意味の基本単位は語ではなく命題であり、真偽の観点から命題を分解することで、初めて語の意味が現れてくるのです。」

次に、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の1・1節「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。」が検討されます。青山先生の本から引用します。「ここで言う「事実」とは、真である命題によって表されるものであり、「もの」とは、命題に含まれる語(中略)によって表されるものです。」「語が集まって文ができるのではないように、ものが集まって事実ができるのではありません。」

ここで、「事実」と「もの」をもう少し詳しく定義しておきましょう。
「事実」(Tatsache)とは、「ある特定の仕方で物事が配置されている状態」を指します。ウィトゲンシュタインによれば、意味のある命題(文)は事実を「描く」ものであり、事実と命題の構造は対応しています。事実がなければ、命題は意味を持たないとされます。

一方、 「もの」(Ding)は事実を構成する基本的な要素であり、単純で不変の実体(Objekte)ですが、それ自体では独立して存在せず、他の「もの」との関係性の中で事態を形成します。例えば、「猫」や「マット」は「もの」であり、それらが特定の配置を取ることで事実が生じます。「もの」は変化しませんが、その組み合わせ方は多様です。

事実は「もの」が特定の形で結びついた結果です。つまり、世界は「もの」が関係性の中で織りなす「事実」の総体として成り立っています。

ここで『論考』の1「世界は成立していることがらの総体である。」を検討してみましょう。
「成立していることがら」は1・1を読めば、「事実」を指すことは明らかです。言い換えれば、「ある特定の状態が現実として存在していること」を指します。また、「総体」とは、それらの事実が全部集まったもの、つまり全体を意味します。

たとえば、あなたの部屋の中には「机がある」「本が置いてある」「窓が開いている」といった事実があります。ウィトゲンシュタインによれば、「部屋」というのは、これらの事実が全部集まったものにすぎません。それ以外の「かもしれないこと」は世界には含まれないのです。

このウィトゲンシュタインの考えの途方もなさを、著者はこう表現します。
「以上の話がもし真実なら、現実世界のあり方は言語のあり方とぴったり一致しており、・・・」
「世界が命題によって写像されうるものとしてのみ存在する」
「そもそも世界は(中略)命題と同じ形式のもとでしか存在できないのです。」
「ここでは、(中略)、世界がどんなものでなければならないかが(中略)述べられています。」
「命題の真・偽が、ことがらの成立・不成立(中略)という存在論的な区別に対応しているわけです。」

* ちょっと入門用の新書にしては難しすぎますが、「分析哲学は言語を扱う」という文の意味が、「道具としての言語を分析する」などという生易しいものでないことは、よくわかります。

著者は、ここまで来て、ウィトゲンシュタインが、フレーゲから遠く離れた地点に来てしまったことを指摘します。この後、ウィトゲンシュタインと論理実証主義者の関係が述べられます。

まず最初に次のことが確認されます。
「『論考』によれば、あらゆる命題は要素命題に分解されます。」
「論理実証主義者は、この要素命題を、直接的な経験によって検証されるものと考えました。」

論理実証主義者の主張とは、「直接的経験に対応する要素命題(中略)と、それらを論理的に繋ぎ合わせた命題だけが、有意味な言語表現であり、本物の科学的命題である。」というものでした。ですから、「神は存在する」といった形而上学的な命題は、経験的に検証できないため、論理実証主義者にとっては科学的命題とはみなされません。

論理実証主義者は、命題が「意味を持つ」ためには、それが検証可能な経験的観察に対応しているか、あるいは論理的・数学的なトートロジー(例: 「AはAである」)である必要があると考えました。検証できない命題は「無意味」とされ、哲学や科学の対象外とされました。

ところが、著者は次のように指摘します。「彼ら( 論理実証主義者)の判断基準に従うと、科学の現場にさえ科学的命題つまり有意味な命題は存在しなくなってしまいます。」たとえば、「全称命題が無意味な命題とされてしまう」など、様々な困難が生じるのですが、詳細な議論は、本書でご確認ください。

論理実証主義は失敗した運動だとされますが、それでも「失敗する価値」?はありました。たとえば、「クワインは、論理実証主義の欠陥をさらに明確化していくことで、新たな哲学的見解を得ました。」

ここで、デュエム/クワイン・テーゼ(Duhem-Quine Thesis)が紹介されます。この説は、科学的な仮説や理論が単独で経験的に検証または反証されることは不可能である、と主張します。もう少し詳細に説明しますと、この説の核心は、科学的な仮説や理論は孤立して存在するのではなく、相互に依存し合う信念や補助仮説のネットワークの一部として成り立っているという点にあります。したがって、ある観察結果が得られたとき、それがどの仮説や理論の誤りを示しているのかを明確に特定することはできないのです。

クワインは、この説を、科学だけでなくあらゆる知識の体系に適用しました。彼は、知識全体が一つの「蜘蛛の巣」のような構造を持ち、観察は体系の「周縁」に影響を与えるだけだと考えました。

たとえば、天文学で「惑星の軌道が楕円である」という仮説をテストする場合を考えます。この仮説を検証するには、望遠鏡の精度、地球の大気による光の歪み、重力理論など、多くの補助仮説が正しいと仮定する必要があります。もし観測結果が予測と一致しなかった場合、以下のどれが誤っているのかを明確に決めることはできません。このように、仮説の検証や反証は常に「全体としての体系」に依存するのです。

クワインはこのテーゼを、彼の「経験主義のホーリズム(全体論)」と結びつけました。彼によれば、知識体系は全体として経験と向き合っており、どの部分を修正するかは論理的な必然性ではなく、実践的・プラグマティックな判断に依存します。

クワインのホーリズムは、伝統的な還元主義(知識を個々の観察や基本命題に還元する考え方)への批判として重要です。彼の視点では、科学や知識は孤立した断片の集合ではなく、相互に関連し合う全体として理解されるべきものです。

「経験主義の二つのドグマ」((”Two Dogmas of Empiricism”, 1951)『論理的観点から』のⅡ収録)において、クワインは以下のように述べています。「いかなる知識や信念の体系も「周縁に沿ってのみ経験と接する人工の構築物」である。」これはいったい、どのような意味でしょうか。

前にも述べたように、クワインは、私たちが持つ知識や信念は、単なるバラバラな情報の集まりではなく、相互に関連し合った一つの「体系」として存在すると考えました。クワインによれば、私たちの知識体系は、すべてが直接的に現実の経験によって検証されるわけではなく、むしろ体系の外縁にある特定の観察結果や事実だけが、経験と結びついているのです。

クワインが「人工の構築物」と呼ぶのは、知識や信念の体系が自然に与えられたものではなく、人間が作り上げたものだという点を強調するためです。私たちは経験からデータを収集し、それを論理や推論を使って体系化しますが、その構築の仕方は一つに決まっているわけではありません。

クワインのこの言葉は、私たちの知識が単純に経験から直接導かれるものではなく、経験と部分的にしか接しない複雑な構造物であり、かつ人間が作り上げたものであることを示しています。彼の考えは、科学や哲学における絶対的な確実性を否定し、知識をより柔軟で全体的な視点から捉えるよう促すものです。

クワインの指摘した二つのドグマを復習しておきます。
一つ目は「還元主義のドグマ」です。これは、すべての有意味な命題が個々の経験命題に還元可能であるという考えです。
二つ目は「分析的・総合的判断の区別のドグマ」です。すなわち、 文が分析的(定義や論理だけで真とされる)か総合的(経験に依存する)かに明確な境界があるという考えです。

著者によれば、「クワインのこうした議論は、論理実証主義の方法論を根底から批判するもの」なのです。一方、クワインの「二つのドグマ」に対する反論も多数存在します。たとえば、

・ 分析的・総合的の区別は実践的・概念的に有用であり、完全否定は行き過ぎ。
・ 還元主義の否定は科学の実践と合わず、部分的検証は可能。
・ ホーリズムは現実の知識修正プロセスを過剰に一般化している。
・ プラグマティズムへの依存が客観性を損なう恐れがある。 
などです。

これらの反論の詳細はここでは省略しますが、著者は、これらの批判にもかかわらず「二つのドグマ」の主張の核心は損なわれない、と主張します。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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