今回は、青山拓央『分析哲学講義』 (ちくま新書)の講義5をご紹介します。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「指示対象」のように、ある用語に「 」を使用することがあります。)なお*の後は、私の個人的な「感想」です。
【講義5 意味はどこに行ったか】
最初に著者から問題提起がなされます。
「『哲学探究』でウィトゲンシュタインは意味の使用説をとった、と言われることがあります。」
「意味の使用説」の核心は、次の2点です。
(1) 文脈依存性: 「意味」とは、言葉が使われる具体的な状況や目的に基づいて理解される。
(2) 使用が意味を形作る: 言葉の意味は辞書的な定義ではなく、人々がその言葉をどう使うかによって決まる。
ここで著者は次の点を強調します。
「ここで重要なのは、言葉と行動の間に位置する媒介物としての「意味」がもはや存在しないことです。」
コミュニケーションを、〈ことばの意味を正しく抽出し、その意味をもとに行動を返す〉と捉えるならば、言葉と行動との媒介物が必要になりますが、心理的イメージ、指示対象、検索条件、「どれを媒介物にした場合も個別の問題が生じる」のです。(詳しい説明は省略します。)
さらに引用します。意味の使用説においては、「もはや、同一性が保証されるべき、媒介物としての意味は存在しません。」では意味はどうなったかと言いますと、「使用説によれば、ある言葉の意味を理解することは、その言葉を用いた言語ゲームに参加すること」なのです。
ここで言う「言語ゲーム(language game)」の特徴を2点挙げます。
(1) ルールに基づく活動: ゲームにはルールがあるように、言語もその使われ方に暗黙のルールや慣習があります。ただし、これらのルールは厳密に定義されたものではなく、状況や文化の中で自然に形成されます。
(2) 文脈依存性: 言語ゲームは、それが行われる具体的な状況や参加者の意図によって意味が決まります。同じ言葉でも、異なるゲームの中で使われると意味が変わるのです。
ウィトゲンシュタインが「ゲーム」という言葉を選んだのは、言語の使用が柔軟で創造的であり、必ずしも固定された規則に縛られていないことを強調するためです。
「言語ゲーム」の概念は、言語の意味を抽象的な「本質」や「定義」に求める従来の哲学を批判します。ウィトゲンシュタインは、意味を理解するには、言葉が現実の生活の中でどう機能しているかを見るべきだと主張しました。これにより、哲学的問題の多くが、言葉の誤った使用や言語ゲームの混同から生じると考えました。
著者は、円滑に「言語ゲーム」を進めるために何が問題になるか、を指摘します。
「こうして解釈の問題は、あるイメージから、あるいはある何らかの媒介物から、一定の規則を得ることはできるか、という次元へ移行していきます。」(この後、ネルソン・グッドマンの造語「グルー」「ブリーン」も参照されますが、ここでは割愛いたします。)
ここで『探求』185節における、「繰り返し2を足していくという課題」が紹介されます。この課題は、例えば、誰かに「2から始めて、2ずつ足していきなさい」と指示したとします。すると、その人は(2, 4, 6, 8, 10, … )のように続けるでしょう。この数列を見ると、我々は「規則を正しく理解している」と感じます。しかし、この人が「2を足す」という規則を本当に理解しているかどうかは、どこまでいっても確実に証明できないのです。
ここで、ある人がこの課題を「1000までは2ずつ足し、それ以降は4ずつ足す」と解釈したケースを想像します。つまり2, 4, 6, …, 998, 1000, 1004, 1008, … と進むわけです。この人は、自分が規則を「正しく」従っていると主張するかもしれません。
この思考実験のポイントは、「規則の意味はどこにあるのか?」という問いです。「2を足す」という規則は、言葉や指示そのものに内在しているのでしょうか、それともそれを解釈する人の行為や習慣に依存しているのでしょうか?また、ある人が規則を「理解した」と我々が判断するのは、どこまでその人の行動を見れば十分なのでしょうか?無限に続く可能性のある数列をすべて確認することはできません。
ヴィトゲンシュタインは、規則に従うことは単なる個人的な解釈や心的状態ではなく、共同体の慣習や実践の中で意味を持つと示唆し、規則が客観的で独立したものではなく、人間の行為や社会的な文脈に根ざしていることを強調します。
このような事態を著者の青山先生は以下のように表現します。
「そして規則というものは、このような一致が成立しているという事実を後追いするかたちで初めて、その存在が示されるものなのです。」「規則や意味の同一性が実践の一致をもたらすのではなく、無根拠な実践の一致が規則や意味の同一性をもたらすのです。」
ここから「像」と「規則解釈」の話になっていきますが、その前に、後期ウィトゲンシュタインにおいて「規則解釈(Rule-Following)」とは何であったのか、再確認しておきましょう。
「規則解釈」とは、規則に従う行為がどのように可能かという問いです。『探究』の時期のウィトゲンシュタインは、言語の意味を動的で実践的なものとして再定義し、規則の適用が文脈や社会的な合意に依存すると考えました。ウィトゲンシュタインの思想は、「像」から「規則解釈」へと移行することで、哲学的探究の焦点を言語の形式的な構造からその実際の使用へと転換させたのです。
以上のことを念頭に置いて、また本書から引用していきます。
「・・・ウィトゲンシュタインによるイメージ説批判では、イメージが二重の側面をもっています。」
「イメージの私秘的側面」は以前取り上げましたので、ここではもう一つの側面「イメージの像的側面」を考察します。
引き続き本書を引用していきます。
「規則解釈の議論において、イメージの像的側面が強調されるのは自然なことでしょう。というのも、像は特定のものの像として解釈されることを規範的に求めるので、そこには必ず、規則の解釈が絡んでくるからです。」
著者はこれを具体的な例で説明します。
「リンゴの画は見ようによってはさまざまなものの像に見えますが、それはリンゴの像として見られなければなりません。しかしリンゴの画そのものに、そのような解釈を強制する力はありません。」
わかりやすく言いますと、リンゴ以外にも見える画も、文脈や社会的な合意によって、それが特定のもの(ここではリンゴ)として見られることを「規範的に」要求するのです。
ここで著者は、さらなる問題として、「像」には2種類あることを指摘します。
「以上の議論で私たちは、像あるいはイメージという概念を、実在物の像(たとえば、実際に見たリンゴの像)と、実在物の像の像(そのリンゴを画に描いたもの)の両方に適用しています。」
「私秘的な経験のすべては、実在物の像としての側面において、規則解釈の問題に巻き込まれる。」
「像の像の規則解釈の問題は、多重性をもつ」
ここらへんの議論は、ソール・クリプキなども巻き込みながら複雑になってしまいますので、ここでは割愛させていただきますが、重要な点であることは間違いありません。本書の議論はさらに発展していきます。
「私秘的な像が公共的な像に置き換えられるだけでなく、像以外の公共的事物についても、規則解釈の問題が述べられるのです。」
「イメージであろうが事実であろうが、規則の供給源になりそうな何ものも、一定の規則解釈のみを強制することはできないのではないか? 規則解釈の問題は、このように一般化されるのです。」
「規則解釈の不確定性の議論は、イメージ説のみではなく、指示対象説や検証理論を含めた、意味とは何らかのもの〈媒介物〉であるという図式自体を否定するものです。」
だいぶ引用が続いてしまいましたが、わかりやすくパラフレーズしましょう。
「規則解釈の不確定性の議論」とは、言葉の意味が「これだ!」とはっきり決まるものではないという話です。例えば、意味とは「頭の中のイメージである」とか「言葉が指すものである」とか「検証できる条件である」という考え方のように、意味を何か特定のものに結びつけるやり方自体が、誤りかもしれないということです。
この講義の最後に、「ルイス・キャロルのパラドックス」(Lewis Carroll’s Paradox)が登場します。これは、ルイス・キャロルが1895年に発表した論理学の論文 “What the Tortoise Said to Achilles”で提示した思考実験です。
ちょっとややこしいですが、本書から引用します。「前提として「PであるならばQである」と「Pである」が真であるとき、そこから「Qである」と推論するのはごく自然なことでしょう。(中略)ところがこの推論に対し、こう言われたらどうでしょうか。— 「PであるならばQである」と「Pである」がともに真でも、そこから「Qである」とは言えない。そう言うためには、「(PであるならばQである)かつ(Pである)ならば、Qである」という、追加の規則が必要である— 。」「こうした新たな規則の追加は永久に終わることがありません。」
これでは無限後退(infinite regress)に陥り、推論が成立しないように見えます。このパラドックスは、「論理的規則を適用するには、その規則を受け入れる前提が必要であり、その前提もまた別の前提で正当化されなければならない」という問題を浮き彫りにします。
後期のウィトゲンシュタインは、「規則解釈=規則に従うこと」(rule-following)の問題において、キャロルと同様に、「規則の適用は無限に正当化を求めるものではなく、ある時点で実践や習慣に依存している」と考えました。
ウィトゲンシュタインは、この無限後退を解決するために、「規則に従うこと」は論理的・抽象的な証明の連鎖ではなく、共同体の「生活形式」(form of life)や言語ゲームの中で成立すると主張します。つまり、規則は、それを使う人々の実際の行為や合意によって意味を持つのであり、無限に正当化を求める必要はないのです。