今回は、青山拓央『分析哲学講義』 (ちくま新書)の講義6をご紹介します。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「  」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「原初的自然」のように、ある用語に「  」を使用することがあります。)なお*の後は、私の個人的な「感想」です。

最初にお断りしておきます。この【講義6】ですが、何度読み返しても難ししぎて、すっきり頭に入ってきません。そこでX(旧Twitter)に、以下のような投稿をしました。

「青山拓央『分析哲学講義』講義6、マジで難しいんだが、Amazonレビューなど見ると、みんなスイスイ読んでるのか、凄いな!僕は頭悪いのかな、、、」

すると、何と、著者の青山先生から以下のコメントをいただきました。

「講義6「二つの自然と、意味の貨幣」は特殊な章で、ほかの章よりも難解です! 専門家でもちゃんと読めている人は、じつは少数だと思います。講義6は飛ばして読んでも前後の繋がりに支障がないので、そうして頂いても構いません。」

そういうわけで、この章について私がさっぱり理解できていなくても、ご容赦ください。青山先生のコメント通り、講義6をまるまる飛ばしてしまうことも考えましたが、途中まででも「挫折」のプロセスをご覧いただくことも、多少は意味があるかもしれません(いや、意味ないかもしれませんが。)

とりあえず、前回の復習、と言うより前回飛ばしてしまった講義5の最後の部分を、少し長いですが引用します。

「言語ゲームが仮に「底」であるとしても、そのことを語る言語ゲームは「底」の下の原初的自然を照らします。「底」にあるもの ー日常の言語ゲームー をただ記録しただけでは、それが「底」であることは示されないのです。」
「自然としての人間を記録するうえで、気がかりな点が二つあります。第一に、そのような記録作業は言語学や心理学とどう違うのか、ということ。(中略)第二に、より本質的な問題として、そのような記録をするための言語を私たちは所有しているのかということ。」
「・・・人間にとって真に原初的な自然は、それを写すための言語をもちません。そのような言語がないということが、使用説が「答えなき答え」であることの意味であり、言語ゲームの根底性を示すものだからです。」

* 「言語使用説」の核心は、言葉の意味はその「使用方法」や「文脈」に依存するという主張でした。それにしても上記のように考えると、今度は「底の底」を考えなくてはいけないことになり、永遠にゴールへたどり着かないような気がしますが。。。

しかし「彼(ウィトゲンシュタイン)自身、死の直前まで、「底」の下にある自然を見ずにはおれませんでした。

* 「底」の「底」がなぜ「自然」と呼ばれるのでしょうか?どうもよく理解できていません(申し訳ありません。)
* 何かハイデガーの「存在論」を連想してしまうのですが、見当違いでしょうか?

さらにこの問題と、クワインの関係が論じられます。講義5のラストから引用します。

「クワインの議論が正しいとすれば、言語的真理と経験的真理の区別が捨てられることで、たとえ分析哲学者であっても、言語のみの分析に安住することはためらわれるでしょう。全体論的知識の中核に自然科学の知識があるなら、そのためらいは倍化されます。哲学的な思考にも、自然科学が不可欠となるからです。かくしてクワインは、哲学の自然科学化を予見します。」

【講義6 二つの自然と、意味の貨幣】

ここからやっと講義6の内容に入ります。前回までの議論をもとに、次の問いが提起されます。

「言語ゲームにおける原初的な自然と、哲学の自然科学化における自然が、ともに「自然」と呼ばれるのはなぜか。また、二つの自然への接近は、分析哲学にどのような変化をーあるいは終焉をーもたらすのか。」

* 何度読みましても、この問いの意味自体がかなり難しいです。これらの問題に対して、著者はまず暫定的な解答を試みます。

「二つの自然がともに「自然」と呼ばれるのは、いずれもが、実際に言語が流通する場としての自然世界に関連し、人間の人為的な営み-たとえば言葉の使用法の約束-に先立つ自然性をもっているからです。」

その上で、「実際に言語が流通する場」とは何かが、改めて問われます。
これに答える前に、もう一度2つの「自然」について整理しておきましょう。

まず、ウィトゲンシュタインの「原初的な自然」という観点は、言語ゲームが成り立つための基礎的な土台を指します。これは、抽象的な論理や普遍的な規則よりも、人間が共有する自然な反応や習慣に根ざしています。
彼は次のように述べています(『哲学探究』§25):
「命令すること、報告すること、質問すること……これらはすべて、我々の自然史の一部である。」

つまり、言語ゲームは人間の自然な振る舞いや社会的実践に埋め込まれており、哲学はそのような「原初的な自然」を無視して抽象的な体系を構築するべきではないと警告しているのです。

一方、クワインが提唱する「哲学の自然化」とは、哲学を自然科学と連続的なものとして捉え、伝統的な哲学的アプローチを科学的な方法論に置き換えるべきだとする立場です。クワインは、哲学が抽象的・先験的な思索に頼るのではなく、経験的データや科学の成果に基づいて進められるべきだと主張しました。

クワインにとって、哲学を自然化することは、哲学を「空虚な思弁」から解放し、現実世界の問題に取り組む実践的な学問に変えることを意味します。彼の視点では、哲学者は科学者と協力し、宇宙や人間の理解を深める共同作業者となるべきです。例えば、存在論に関する問いも、科学が明らかにする実在に基づいて考えられるべきだと彼は主張しました。

著者(青山)は、「この二つの自然が渾然一体である」すなわち「科学的自然も原初的も本来は存在せず、それらが分離される以前の。一つの自然だけが存在することになるでしょう。」と述べます。

* これは驚くべき主張のように思えますが、はたして本当に正しいのか、残念ながら私は判断する力を持ちません。何か「生まれる前の自分について語ることが不可能である」のと同じような感覚です。

分析哲学の歴史が、「言語が私秘的な心から追い出され、公共的で自律的な機構とみなされていく過程」であることが確認された後、言語の私秘的言語観が改めて問われます。

その際、最初に検討されるのが、著者の言うところの「意味の両替場」すなわち「実際に言語が流通する場とは何か?」です。「意味の両替」とは、著者の挙げた例で示すなら、たとえば「他人の発する「リンゴ」という音声」と「物理的な対象としてのリンゴ」が、同じ〈リンゴ〉として意味が交換されるということを指します。

私秘的言語における「意味の両替」が検討された後、「私秘的言語観を拒絶するとき、意味の両替場は心の外に置かれます。」と述べられます。
「言語ゲームの比喩を借りるなら、そのゲームを実践するための場所、声や身体といった駒を動かす場所が必要なのであり、それこそが意味の両替場となるのです。」

*この「場」とはもちろん空間を持った場所ではありません。
*この「場」と「原初的自然」は同じものと考えても良いのでしょうか?

言語の公共性を考えるために「痛い」という語が例に出されます。痛みは一般に私秘的と思われていますが、完全に公共的なものでもあるのです。

「行動主義によれば、心の状態の言語表現は、公共的に観察可能な身体行動をもとに規定されます。「痛い」という語もまた、泣いたり傷口を押さえたりといった特定の身体行動と結びつけられるわけです。」と仮の説明がされた後で、次のような疑問が発せられます。

「だれにとっても同じ〈痛み〉として両替される行動などあるでしょうか。」
「意味の両替場を公共的空間にもってきても、両替のための正当な規則が公共化されるわけではありません。」

ここで「全体論的な知識の場において、(中略)、ーたとえば科学の方が(哲学より)より中心部に近い」理由の一つとして、「有用性」が考察されます。

「知識体系における科学の特権性をその有用性をもとに説明することは、どこかで壁に突き当たるでしょう。というのも、「役に立つ/役に立たない」の判定は、人間の未来選択にまつわる、それ自体は明快な科学的根拠をもたない諸概念ーたとえば自由意志や責任や価値ーと結び付いており、にもかかわらず、その諸概念のネットワークは全体論的な知識体系に深く食い込んでいるからです。」
「全知識体系が本当に自然化されたなら、「役に立つ/役に立たない」という観点自体が世界から消えてしまうだろう」

* いやー、何の知識もない読者がこれを理解するのは相当困難だと思います(あるいは私の理解力がよほどないのか、のどちらかです)。この部分は、もう少し哲学を勉強して理解力がつきましたら、もう一度考えて、この場でリベンジを果たしたいと思います。

話を戻します。問題になっているのは、次の問題です。
「重要なのは、意味の貨幣をどこで両替するか、そして何が公共的な貨幣になりうるか、です。」

「〈痛み〉の両替の根底には、〈痛み〉の言語ゲームの実践における私たちの無根拠な一致があり、その一致の理由を他の何らかの同一性判断をもとに説明することはできないのです。」

* 無根拠という重要な言葉が出てきました。何の理由もなく一致してしまうということでしょうか?

「ここにはまさに言語の限界に関わる問題があります。もし、いま述べたことが実情のすべてなら、無根拠な実践の一致がなぜあるのかだけでなく、そのような実践の一致があること自体、言語化不可能になるでしょう。」

* まさに言語化できないものに対しては、沈黙するしかないのでしょうか?

「さまざまな〈痛み〉の貨幣がどれも同じ〈痛み〉の貨幣であるのは、何らかの類似性によるのではなく、それらが同じ〈痛み〉の貨幣として両替されている実践があるからです。」
「しかしこれでは、言語ゲームの実践の記述、つまり原初的自然の観察記録は、そのための語彙を失うでしょう。

* このきわどい部分を私があまり理解できていないことは事実ですが、それでもこの部分が、哲学の核心に関わる大変重要な箇所であることはわかります。

この後、本書ではヒュームの「因果関係と自然主義」が、上記の問題と重なり合うことが指摘されるのですが、ここでは省略します。

講義6の締めくくりです。
「結局のところ、原初的自然に訴える議論は、非原初的な記述のもとでしか、理解可能な説得力をもちません。」

* 直接的な記述は不可能ということでしょうか?

この後、「諸科学における同一性の規定は(中略)物理学におけるそれに依存する、と考えられているのです」とされます。
「つまり、自然とは科学的自然のことであると人々が考えるにいたった過程自体が、非原初的にしか表現することのできない原初的な自然誌(自然史)の一部なのです。」
「つまり科学的自然の外部から、科学的自然こそが自然と見なされるにいたった過程を、原初的自然誌として書くことはできないのです。」

ここで目指しているのは「原初的自然と科学的自然がただ一つの自然として探究されること」なのですが、それは記述不可能な領域なのです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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