今回は、小川仁志『はじめての政治哲学』 (講談社現代新書)の【第1章】をご紹介します。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「リベラリズム」のように、ある用語に「 」を使用することがあります。)
なお*の後は私の個人的な「感想」です。
【はじめに いまなぜ政治哲学なのか】
省略します。
【第1章 自由をめぐる論争】
最初に「功利主義は常に批判にさらされつつも、現代社会においていまなお命脈を保っている」と述べられます。このサイトではずいぶん功利主義については論じてきましたので、この部分は割愛します。本書ではJ・C・ハーサニーやR・E・グッディンという私の知らない人物にもふれられています。
次に、功利主義に対する批判としてカントの政治哲学が紹介されます。カントにとっては「普遍的な道徳原理の基準」が大切であり、「カントは、自律的に行動している時はじめて、人の行為は道徳的であるといいます。」とされます。カントの「定言命法」も有名すぎるので、ここでは省略します。
「功利主義」も「カントの義務論」も省略してしまいましたが、その次の「リベラリズム」は少し丁寧に追っていくことにしましょう。リベラリズムは「大まかに見ると「古典的自由主義」「新自由主義」「ネオ・リベラリズム」「現代のリベラリズム」という四段階に分類することができる」そうです。
「古典的自由主義」はロックに始まり、その精神はミルの『自由論』に引き継がれますが、これは以前このサイトで丁寧に扱いましたので、省略します。
19世紀後半、社会主義思想に対抗して生まれたのが、「新自由主義」です。これは「国家が個人の自由実現のために積極的に介入すべき」という主張でした。ところがこうした思想は「1970年代後半、先進資本主義国の財政危機と共に批判にさらされるようになります。」この批判の急先鋒となったのが、ハイエクを先駆とするネオ・リベラリズムでした。
本書からさらに引用します。
「ハイエクは国家の介入を批判し、市場の役割を最大限重視しました。ネオ・リベラリズムも新自由主義と呼ばれることがあります。その代表的な論者として、(中略)ロバート・ノージックを挙げることができるでしょう。(中略)そのノージックの論敵が、『正義論』で有名な現代リベラリズムの旗手ジョン・ロールズです。彼も国家自由主義、あるいは平等主義的な自由主義なのですが、従来のリベラリズムと大きく異なるのは、それを本格的な政治理論として洗練させた点です。」
ハイエク、ノージック、ロールズとスター級の名前が出てきましたが、ここではロールズについて検討していきたいと思います。「ロールズのモチーフは、一言でいうならば、公正な分配はいかにして可能かということになるでしょう。」
ロールズの考え方は「原初的立場(original position)」と「無知のヴェール(veil of ignorance)」という思考実験を通じて導き出されます。原初的立場では、個人が自分の社会的地位や個人的特性を知らない状態で合理的に合意する原則を選ぶと仮定されます。その結果として以下の二つの原理が提示されます:
第一原理:「平等な自由の原理」
これは、言論の自由、宗教の自由、投票権などの基本的自由がすべての人に平等に保障されるべきだというものです。この原則は他の原則に優先します。
第二原理
(a):「機会の公正な均等原理」
これは、社会的・経済的不平等は、すべての人が公正な平等の機会のもとで地位や職にアクセスできる場合にのみ認められる、という原理です。
(b):「格差原理」これは、不平等が認められるとしても、その場合には「最も恵まれない人が最大の便益を得る」場合に限る、という原理です。
ロールズの立場は修正されて行って、彼の『政治的リベラリズム』においては、「重なり合う合意」という考え方が表明されます。
重なり合う合意とは、異なる宗教的・哲学的・道徳的「包括的ドクトリン(comprehensive doctrines)」を持つ人々が、それでもなお政治的な正義の原則(たとえばロールズの二つの原則)について合意できる状態を指します。この合意は、各人が自分の包括的ドクトリンから独立した「政治的」な観点から支持するものです。重なり合う合意は、社会の安定性と正統性を確保するための仕組みです。すべての人が自分の信念を捨てることなく、共通の政治的基盤に立つことができるため、多元的社会での協力が可能になります。
ロールズ以外の現代リベラリズムの理論家、ロナルド・ドゥオーキン、ジョセフ・ラズ、スティーヴン・マセドも紹介されますが、ここでは省略します。
リベラリズムは道徳的議論を避けてきました。これを批判したのがコミュニタリアニズムです。具体的には、アラスデア・マッキンタイア、チャールズ・テイラー、マイケル・ウォルツァー、マイケル・サンデルといった人々でした。
コミュニタリアンによるリベラルの批判は以下の二点に集約されます。本書から引用します。
「まず、リベラリズムのいう「自己」の概念が、歴史や伝統、そして共同体といった文脈から切り離された原子論的なものであるという点です。」
「それから、「正の善に対する優先性」のもとに、道徳や善に関する議論を放棄している点です。
* 「正の善に対する優先性」って何のことか分かりにくいですよね。ロールズの理論では、社会の基本構造は個人がそれぞれ異なる「善」(人生の目的や価値観)を追求できるように設計されるべきであり、特定の善の定義を社会全体に押し付けることは避けるべきだとされます。つまり、正義のルールや制度(公平性や権利)がまず確立され、それに基づいて各人が自由に自分の善を追求できる枠組みが作られるのです。
著者によれば、「コミュニタリアニズムとは、自己と共同体との構成的な関係性をもとに、道徳や善に関する議論を行う思想だということができます。」
ここで、日本でも『白熱教室』で有名なサンデルの議論を検討してみます。サンデルは『リベラリズムと正義の限界』において、「負荷なき自己」(Unencumbered Self)という概念を展開しています。彼は、現実の人間は家族、地域社会、伝統、宗教などの具体的な「負荷」の中で生きており、それらから完全に切り離された「負荷なき自己」は実在しないと主張します。たとえば、私たちは生まれながらにして特定の文化や歴史的背景に根ざしており、それらが私たちのアイデンティティや価値観を形成します。サンデルは、これらの「負荷」がなければ、正義や道徳についての判断が現実味を失い、単なる抽象的で非現実的な理論に留まると批判します。
要するに、サンデルの「負荷なき自己」は、リベラリズムが描く理想化された個人像に対する批判であり、人間が実際には共同体の文脈や関係性の中で生きる存在であることを強調する概念です。彼の議論は、個人の自由と共同体の役割のバランスをどのように考えるべきかという、より深い哲学的問いを投げかけています。
本書では、サンデルの「市民的共和主義」についてもふれられていますが、ここでは割愛します。他のコミュニタリアンの考え方も見ておきましょう。
アラスデア・マッキンタイアは『美徳なき時代』において、以下のような点でリベラリズムを批判しています。すなわち、リベラリズムは、道徳的・歴史的文脈を無視し、個人主義を過剰に推し進めることで、人間が共同体の物語や美徳を通じて善い人生を追求する能力を奪っているという点です。彼の代替案は、小規模な共同体の中で伝統的な実践や美徳を再構築することであり、リベラリズムの抽象的で普遍的な枠組みを超えた、具体性と歴史性を持った倫理を模索しています。
この他に、チャールズ・テイラーやマイケル・ウォルツァーについても言及されますが、ここでは省略します。
コミュニタリアニズムの議論はどんどん多様化していきますが、それらに共通するのは、「何らかの意味で共同体の価値を前提にしているという点」です。
さらに本書を引用していきます。
「1990年代に入ると、コミュニタリアニズムはこうした理論の多様化にとどまらず、実践的な社会運動という側面にも広がっていきます。代表的なのは社会学者アミタイ・エツィオーニの主導する「応答するコミュニタリアン運動」でしょう。
「応答するコミュニタリアン運動」(Responsive Communitarian Movement)について少し深掘りしてみましょう。
主な特徴と目的は以下の3点です。
1.個人の自由と共同体の調和:
エツィオーニは、個人の権利が社会的な責任や共通の価値観と調和する必要があると主張しました。この運動は、過度な個人主義が社会の結束や道徳的基盤を弱めるとの見解に基づいています。
2.「応答する」という視点:
この運動は硬直したイデオロギーや一方的な解決策を押し付けるものではなく、社会の具体的な課題に対して柔軟に応答し、実践的な解決策を模索することを重視します。
3.実践的な社会改革:
エツィオーニは、理論だけでなく実際の社会問題に取り組むことを目指しました。たとえば、家族の強化、教育の改善、犯罪防止など、具体的な政策提言を通じて共同体意識を育むことを提案しました。
コミュニタリアニズムが対抗しなければならないのは、リベラリズムだけではなく、リバタリアニズムもまた強力なライバルなのです。
「リバタリアニズムとは、一般的には個人の自由や選好を最大限尊重する個人主義的立場を指します。(中略)多様化した現代のリバタリアニズムを分類する指標は、二種類挙げることができます。一つ目は国家の規模をめぐるものです。(中略)もう一つの指標は、個人の自由をいかにして正当化するかという根拠をめぐるものです。」
細かい議論は本書を読んでいただくとして、リバタリアニズムとは、国家を廃止ないしは縮小して、個人の自由の根拠を自然権や帰結主義、理性に求める立場と言えるでしょう。
ここで整理しておきますと、ロールズに代表されるリベラリズムが国家の介入を容認するのに対し、リバタリアニズムは国家の介入を否定するのです。
ここでさらに細かく、右派リバタリアニズムと左派リバタリアニズムの違いを見ていきましょう。
「右派リバタリアニズムとは、ノージックの最小国家論に代表されるような従来からの立場で、自己所有権原理を基礎に置く点に特徴があります。(中略)このように、最小国家論においては、国家に対する不信に反比例して、市場原理に対する期待と信頼は厚いものになります。」
一方、左派リバタリアニズムですが、「彼らも自己所有権原理を前提として、市場経済原理を重視する点は変わりありません。しかし、他方で、平等主義的な富の再配分も両立可能であるとする点に大きな違いがあります。(中略)左派リバタリアニズムが唱える最も重要な批判は、身体と能力を駆使して得られた「外的資源」の配分をめぐる対応にあるといえます。」
簡単に言えば、右派リバタリアニズムは「経済的自由と市場」を軸に個人の自由を追求し、左派リバタリアニズムは「社会的平等と反権威」を軸に個人の自由を追求します。どちらも自由を最優先しますが、その自由を脅かすものとして「政府の介入」(右派)か「資本主義や抑圧的構造」(左派)かを重視する点で異なります。この違いは、彼らの目指す理想社会の姿に明確に表れています。