今回も引き続き、小川仁志『はじめての政治哲学』 (講談社現代新書)の【第2章】をご紹介します。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「  」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「リベラリズム」のように、ある用語に「  」を使用することがあります。)なお*の後は私の個人的な「感想」です。

【第2章 民主主義をめぐる論争】

冒頭で(国家の統治には)「権力」が不可欠であることが述べられます。では「権力に従う」と言った時、はたして私たちが何に従っているのかが分析されます。

* 「不可欠」と言うより「不可避」であるというべきだと思います。私たちの意思で「権力」を失くすことはできないのですから。

まず「権力」の定義として、ロバート・A・ダールによる「AがBに対して、さもなければBがしないような何かをさせる限りにおいて、AはBに対して権力を有する」という定義が紹介されます。(これには「威嚇型」「報償型」「説得型」の3つの類型があります。)これに対して、タルコット・パーソンズの「権力とは集団の目標を達成するための機能にほかならない」という考え方も存在します。

次に、私たちが権力に従わなければならない理由が問われます。デイヴィッド・ミラーは大きく分けて二つの理由を挙げています。

「一つは、そこに契約あるいは同意が存在するから」です。「いわゆる社会契約論の発想です。」この考え方の問題点は、本当に「契約」や「同意」が存在するか、です。
「次に挙げられる理由は、公正さに訴えるものです。」「つまり、利益を受けたいなら、義務を果たす必要があるというわけです。」この考え方の問題点は、国家の与える利益(便益)が全員にとって有益か、そこに公平性があるかです。

* ここらへんの議論はかつてPhilosophy for Everyoneの、「complyとobeyの比較」でやりました。

次に「権力」の所在について述べられます。スティーヴン・M・ルークスによれば、三つの権力観があります。

一つ目は「一次元的権力観」です。これは「権力の存在は、顕在化した争点に関する決定において、誰の意見が採用されるかという決定過程に着目することで確認できるというものです。」わかりやすく言うと、トランプ大統領が自分の権限において、ある職員をクビにすることができれば、そこに権力があるということです。

二つ目は「二次元的権力観」です。これは「むしろ争点が顕在化する前に決定を回避するという形で権力行使がなされることもある」ということです。どうもこの新書には例がなく、さすがに不親切な感じがしますが、政治的圧力で反対派の言論を封じようとすることなども、これに含まれるのでしょうか。

三つめは「三次元的権力観」です。これは「相手の意識を変えることで紛争や対立の認識そのものを消滅させるような場合や、紛争の原因自体をなくしてしまうような権力行使」を含みます。これも本書では例が挙げられていないのですが、マスコミを通じて言論をある方向へ誘導するようなことを指すのでしょうか。

三つの目の権力観では、もはや権力の存在自体も危ぶまれますが、このような「見えない権力」を探究したのが、ミシェル・フーコーです。フーコーについてはまた後日取り上げますので、ここではさらっとやりたいと思いますが、フーコーによれば、「主体」が権力を行使するのではなく、むしろ権力によって「主体」が作り出されるのです。フーコーは『監獄の誕生』において、ベンサムが考案したパノプティコンを分析することで、このような目に見えない「規律権力」があらゆるところに張り巡らされていることを指摘しました。

この後、本書ではフーコーの提唱した「生権力」(近代社会において国家や権力機関が、人々の生命や身体、さらには人口全体を管理・統制する権力の形態)やアントニオ・ネグリの「〈帝国〉(グローバル化された資本主義と新たな統治形態が織りなす、非中心的で遍在する権力システムを指す概念)」についても簡単に述べられますが、ここでは省略します。

さて「権力(power)」と「権威(authority)」はどのように異なるのでしょうか。本書では「権威」を心理的な要素とし、実際の政治においては「権力」だけでなく「権威」もないと、何かを正当化できないとされます。「権威」にはマックス・ウェーバーが類型化したように3種類ありますが、ここでは説明を省略します。

次に、(我々が)「なぜ政治に関わらなければならないのか」が問われます。わかりやすく言い換えますと、「民主主義」の意義が問われるのです。ここでジャン・ジャック・ルソーからトマス・ジェファーソンにいたるまで「直接民主主義か、代表民主主義か」が議論となります。著者によりますと「この問題の本質は、結局民衆の能力をどこまで評価するかという点」にあるのです。

経済学者のジョセフ・A・シュンペーターは、普通の人に合理的な政治的判断はできないと考えました。『大衆の反逆』で有名なオルテガ・イ・ガセットもこの点では同じように考えます。

これに対して、ロバート・ダールは、実際の政治は1つのエリート集団が牛耳っているわけではなく、さまざまな利益集団が権力を分かち合っているとし、これを『ポリアーキー』(Polyarchy: Participation and Opposition)と呼びました。

しかしこの考え方にも弱点があります。今の日本の政治もそうかもしれませんが、これだと民主主義はさまざまな利益集団の妥協の産物になり下がる可能性があるのです。

そこで近年は「参加型民主主義」の運動が高まりつつあります。本書では、キャロル・ペイトマン、ウィリアム・コノリー、ベンジャミン・R・バーバーといった人たちが紹介されますが、ここでは個々の紹介は省略します。

日本でも住民投票を行ったり、行政の政策について審議会を開催したり、パブリック・コメントを求めることで、部分的には「参加型民主主義」が実現されつつあります。

直接民主主義に反対する人は、大衆が政治的判断を下す能力がないと考えますが、逆に大衆に政治的判断を下す機会が与えられないと、大衆は愚者であり続けます。

次に「熟議民主主義」について考察します。「熟議」とはdeliberationの訳で、「熟議民主主義」においては、「市民が公共的な事柄について理性的な対話を行います。」

この立場の代表的論者はユルゲン・ハーバーマスです。彼は「熟議の基礎となる「コミュニケーション的理性」の必要性を主張しました。」ここでハーバーマスの議論を検討することは控えますが、著者は「ハーバーマスの想定する熟議民主主義とは、相互了解に共通の関心を抱く市民らが、対等な立場のもとに討議を行い、その過程において自らの判断や見解を変容させていくものとしてとらえることができます。」とまとめています。
本書ではハーバーマスの後を継ぐJ・S・ドライゼックも紹介されます。大変魅力的な議論ですが、ここでは割愛します。

*ハーバーマスは、私が大学時代(今から50年近く前)から有名でしたが、どういうわけか素通りしてしまって、全く読んだことがありません。今調べましたら驚いたことにまだご存命なのですね。

次に「ラディカル・デモクラシー」が紹介されます。たとえばシャンタル・ムフは「根源的で多元的な民主主義」を提唱します。ムフはジャック・デリダの「脱構築」と「差延」を中心とする概念に注目し、これらを通じて政治的意味や主体性が流動的で状況依存的であることを強調しました。デリダの哲学がテクストや言語に焦点を当てたのに対し、ムフはそれを社会・政治的ディスコースの領域に拡張し、ヘゲモニーや敵対性の理論に結びつけたのです。この影響は、彼女の後期の著作(例えば『アゴニスティックな政治』The Agonistic Politics)にも引き継がれ、デモクラシーの対立的かつ創造的な性格を深化させる枠組みとなっています。

*デリダに関しては、フーコーと同じように、別に機会を設けて検討してみたいと思いますが、何でもかんでも「脱構築」と言われすぎていると思います。「脱構築」は「解体」ではありません。デリダが相手にしているのは、2,000年以上にわたる西洋形而上学なのであり、それを単に「解体」することの不可能性をデリダは痛いほどわかっているのです。

この後本書は「国境を越えた熟議民主主義」に簡単にふれた後、「シティズンシップ」が検討されます。「シティズンシップ論」とは、「市民がいかなる権利を有し、いかなる義務を果たすべきなのか」を論じます。そのためには「市民」の概念が明確になっていなければなりません。

「シティズンシップ」には一般に三つの意味があるとされます。一つは「国籍」です。二つ目は、選挙権などの「諸権利」です。三つ目が、「共同体と自己のアイデンティティの関係性」(例:関西人としての自己)です。

「シティズンシップ論」はデレック・ヒーターによると、大きく二つに分かれます。一つは「シヴィック・リパブリカン(市民的共和主義)」、もう一つは「リベラル」と呼ばれる立場です。

前者は、「共同体における政治参加や公共的討論といった活動の内在的な価値を強調」します。「内在的」とは、そのもの自体が最初から持っている性質や特徴を指します。この考え方の問題点は、多くの人は、共同体的なものよりも、個人の利益や幸福を求めるという点です。

後者は、「十八世紀以降、個人の権利を重視する自由主義の思想の中で生じてきたものです。」T・H・マーシャルはシティズンシップの権利を三つのカテゴリーに分類しました。すなわち「市民的権利」「政治的権利」「社会的権利」です。「マーシャルはこ三つの権利を満たす制度として、自由民主主義的な福祉国家を提案します。」この考え方の問題点は、義務の概念を欠いているという点です。

次に、「シティズンシップが国境を越えるか」という問題が検討されます。これはEUの例を見ても分かるように、簡単ではありません。キムリッカは「世界市民的シティズンシップの成否は、それぞれの国のシティズンシップの成熟度にかかっている」という意味のことを述べています。

この章の最後に、税金と福祉が検討されます。この二つは通常トレードオフの関係にあると考えられています。これは古典的には「社会民主主義」と「新自由主義(ネオ・リベラリズム)」の対立と言えますが、ここでアンソニー・ギデンズは、効率と公正を両立させる「第三の道」を唱えるのです。

ギデンズの著書『第三の道: 効率と公正の新たな同盟』における議論は多岐にわたりますが、著者によるまとめを引用します。
「・・・主要なポイントを二点にまとめるなら、従来の社会民主主義に比して市場原理を重視する点と、担い手としての市民社会の活力に期待を寄せているという点であるといっていいでしょう。」

この後本書では、日本が置かれている特殊な事情にふれられますが、ここでは省略します。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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