今回も引き続き、小川仁志『はじめての政治哲学』 (講談社現代新書)の【第5章】をご紹介します。議論の細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「リベラリズム」のように、ある用語に「 」を使用することがあります。)なお*の後は私の個人的な「感想」です。
【第5章 対立をめぐる論争】
この章ではまず「グローバリゼーション」が検討されます。デヴィッド・ヘルドの定義によれば、グローバリゼーションとは「社会的相互作用の超大陸的なフローとパターンの規模と範囲が広がっているだけでなく、そのインパクトも強まっていることを表すもの」ということになります。少しやさしく言い換えますと、グローバル化とは、「人々や情報、モノ、サービスなどが国境を越えて広く、速く、深くつながり合い、その影響がますます大きくなること」です。
* 具体的には、貿易の自由化、情報の瞬時共有、企業の多国籍化、文化的影響の拡散などが含まれます。
ヘルドはグローバリゼーションの問題点も指摘しています。詳細は省略しますが、これらの問題ゆえに、「グローバル化は潜在的に不安定な移行となり、激しい反動を生み出しかねない」とヘルドは考えます。
グローバリゼーションには大きく分けて3つの立場が存在します。
「一つ目は「グローバル論者」の立場です。基本的に彼らは、現在グローバル化が進んでいると見ています。」これを楽観的に見る立場と、悲観的に見る立場と、さらに2つに分かれます。
「二つ目は、「伝統論者」の立場です。彼らはそもそもグローバル化自体に懐疑的であり、グローバル論者に対して異議を申し立てます。」
「三つ目は、「変容論者」の立場です。」彼らは、「新しい経済的・政治的環境が生じる中で、国家権力は変容している」と考えます。
ヘルドは三番目の立場をとります。彼は現状にあった政治制度を整備するために、「コスモポリタン社会民主政」を主張します。この他本書では、移民を世界経済の構造変動からとらえるサスキア・サッセンが紹介されますが、ここでは割愛します。
* ヘルドの代表作『Global Transformations』(1999年)では、グローバリゼーションが政治、経済、文化に与える影響を体系的に考察し、伝統的な国家主権の枠組みが挑戦を受けていると主張しました。
* 別の代表作である『Democracy and the Global Order』(1995年)で、彼は以下の点を主張しました。
・国家レベルの民主主義だけでは、グローバルな問題(気候変動、経済的不平等、テロなど)に対応できない。
・国際機関や地域組織を通じて、民主的な意思決定プロセスをグローバルなレベルで構築すべき。
・コスモポリタン・デモクラシーは、個人やコミュニティがグローバルな政治に参加する権利を保障し、多元的で包摂的なガバナンスを目指す。
本書では次に、「貧困の問題について、グローバルな正義がどのように成立しうるのか」が検討されます。著者はここで「自由な個人が政治共同体である主権国家を構成し、その国家が人権の保障を行う」というジョン・ロールズの考え方には限界があるとします。
そこでベイツの「コスモポリタン・リベラリズム」が紹介されます。これは「救済を求める外国人に対して、無条件に自国民を優先することが倫理的に正しくないとする」立場です。(本書ではベイツの他に、「最低限の義務」という概念を提唱したポッゲも紹介されています。)
* ベイツのコスモポリタン・リベラリズムは、ジョン・ロールズの正義論を国際的な文脈に拡張し、個人をグローバルな正義の主体として重視する理論です。リベラリズムの原則(個人の自由、平等、権利)を国境を越えて適用し、国家間の経済的不平等や不正義を是正することを目指します。彼の思想は、国際関係における道徳的・倫理的責任を再定義し、グローバルな視点での正義を実現するための枠組みを提供します。
次に、「正しい戦争なんてあるのか?」が問われます。
まず正戦という言う概念がキケロやアウグスティヌスにまで遡り検討されます。現代において正戦論について最も旺盛な言論活動を展開しているウォルツァーの主張を検討してみましょう。
彼によると、「「戦争への正義」については、正しい大義が必要であるとされます。」要するに、戦争を始めることができるのは、自衛戦争に限定されるということです。また彼は「戦争における正義」として「非戦闘員保護」も主張し、この二つの正義を区別します。
* ウォルツァーのアプローチは、現実の政治や歴史的文脈を重視し、理想主義的なコスモポリタニズム(例:ベイツ)や純粋なパシフィズムを批判的に検討します。
* 本書ではふれられていませんが、ウォルツァーは、戦争後の和平プロセスや再建にも正義の原則を適用すべきだと考えます。
ジョン・ロールズもまた『万民の法』において正戦論を擁護しています。そこで彼は「戦争の遂行が認められるのは、「秩序ある諸国民衆の社会」の安全と平和を守ることを目的とする場合に限られます」とします。マイケル・イグナティエフの「人道的介入論」も紹介されますが、ここでは省略します。
* ロールズの戦争論は、ウォルツァーの正戦論に強く影響を受けつつ、以下の点で異なります。
ウォルツァーは、戦争そのものの道徳的規範(jus ad bellum と jus in bello)に焦点を当て、国家や共同体の自衛権を重視します。一方、ロールズは、国際社会全体の正義の枠組み(万民の法)の中で戦争を扱い、「人民」を主体とします。彼の関心は、戦争だけでなく、長期的な国際秩序の安定にも及びます。
* ウォルツァーは、「最高緊急(supreme emergency)」において、道徳規範(例:民間人攻撃の禁止)を一時的に緩和することを認めます(例:第二次世界大戦中の連合国の都市爆撃)。
* ロールズの『万民の法』は、ベイツのコスモポリタン・リベラリズムと明確に対立します。
ベイツは、個人をグローバルな正義の主体とし、グローバルな分配的正義(例:経済的資源の再分配)を求めます。彼は、ロールズの『正義論』を国際的に拡張し、個人間の「差異原理」を適用すべきだと主張します。一方、ロールズは、人民を主体とし、個人間のグローバルな正義や経済的再分配を拒否します。彼は、人民間の対等な関係と自衛権を優先し、国際的な経済平等よりも人権の最低限の保護を重視します。
* ロールズの『万民の法』とヘルドのコスモポリタン・デモクラシーは、国際秩序の規範を扱う点で関連しますが、以下の違いがあります。
* ヘルドは、グローバルな民主的ガバナンスを重視し、国際機関の改革や市民社会の参加を通じて、戦争以外のグローバルな課題(気候変動、経済的不平等)に対応する枠組みを提案します。一方、ロールズは、民主主義をリベラルな人民に限定し、非リベラルな品格ある人民との共存を認め、グローバルな民主的ガバナンスよりも人民間の対等な関係を優先します。
本章の最後で「テロに同情していいのか?」が問われます。
著者は、テロという行為も、抑圧された側から見れば「自由の闘士」として見えるという点を指摘します。その上で「だからといって、テロに同情していいかというと、それは別の問題だと思います。」と述べます。
テロがなぜ起こるのかについて、ジョナサン・バーカーは、「近代化の失敗」、「文明の衝突」、「欧米の植民地支配に対する反応」という三つの考え方を提示しています。
ウォルツァーは「戦争の手段としてのテロを許容不可能な悪であるとして、非難しています。」そして、「テロリズムとは、万人に恐怖を拡散させ、もって政治指導者に影響力を行使するために、無辜の人々を無差別に指す害する意図的な行為である」と定義します。
* ウォルツァーのテロに関する考え方は、影響力を持つ一方、以下のような批判を受けています。
1.テロの定義の曖昧で、適用が困難になる 2.彼の「最高緊急」の概念は濫用されるリスクがある 3.背景要因への過度な配慮はテロリストの行為を間接的に正当化する 4.彼の理論は伝統的な戦争を前提にしており、現代のテロ形態に十分対応できない
「イスラムとテロ」、「9・11をめぐる言説」についても言及されます。特に後者について、理性的な立場を取り続けた知識人としてノーム・チョムスキーやエドワード・サイードが挙げられています。チョムスキーは「対テロ戦争は、新しい戦争でもなんでもなく、アメリカがこれまで行ってきた国際テロリズムにほかならない」とし、サイードも「対テロ戦争は単なる片意地にすぎないといいます。」
著者はサイードの「忍耐と啓蒙」という言葉で、この章を終えます。