今回は、箱田徹『今を生きる思想 ミシェル・フーコー』 (講談社現代新書)の【はじめに】と【第1章】をご紹介します。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「  」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「生政治」のように、ある用語に「  」を使用することがあります。)なお*の後は私の個人的な「感想」です。

* 最近、講談社現代新書のレヴューが続いていますが、特に意図はありません。

【フーコーの思い出(その1)】

本書に入る前に、私とフーコーとの関わり合い(たいして関わっていないですが)について語っておこうと思います。フーコーの名前を最初に耳にしたのは高校時代でした。自分の通っていた高校に、宇波彰先生というフランス思想の研究家がいらしたのです。しかし、残念ながら未熟な私は宇波先生と一言も話すことなく、大学へ入学しました。専攻したのは「フランス現代思想」です。(フランス現代思想は流行していたのです。『構造と力』が『現代思想』に連載されていたのはその頃です。)当時フーコーは、その独特の容貌も相まって、世界的に大人気でした。カルチェラタンでは『言葉と物』が飛ぶように売れたという話もありますが、日本でも思想とは関係ない一般の雑誌(『朝日ジャーナル』など)で取り上げられたり、来日したり、なかなかの有名人でした。(当時はまだ『性の歴史』は出版されていませんでした。)

【はじめに】

最初に「何かを積極的にしないこと」、「自明性を疑うこと」の意義が語られます。それが「不可能だと思われていたもの」をリアルにしていくのです。そのプロセスにおける〈自らの変容を吟味する手がかり〉としてミシェル・フーコーが取り上げられます。

フーコーの方法は、囚人や同性愛者などについて、知の権威から語るのではなく、「当事者自身に語らせること」でした。フーコーの議論とは、そうして浮かび上がってきた社会に対して、「主体がいかに関わるのかという問いを改めて提起する」ものだったのです。

「(思うようにはならない)自己を、自己と他者がどのように統治するのか」がフーコーのテーマとなります。この統治の関係を生きることが「主体化」と呼ばれます。著者によれば「私たちは主体になるという終わりのないプロセスを生きる」のです。

【第1章 権力は誘惑する】

フーコーは「権力」をどのように捉えていたのでしょうか。フーコーは『知への意思』において次のように述べます。
「権力とは、制度でも、構造でも、ある人びとに備わる力のことでもない。ある社会における、複雑に入りくんだ戦略的状況のことなのだ。」

著者(箱田氏)によれば、フーコーは権力を「実体ではなく関係として」捉えており、「議論をマクロな視点からミクロな視点に移すこと」を提案します。

* フーコーの分析は、個人の主体性よりもシステムや構造の影響を重視する点で、構造主義的に見えます。しかし、フーコー自身は構造主義のラベルを明確に拒否していました。彼は、構造主義が普遍的・静的な構造を前提としがちなのに対し、歴史的な変化や断絶、権力の動態に焦点を当てました。

フーコーには、当然時代背景も作用しています。1960年代後半以降、共産党神話が崩壊し、「ニューレフト」が台頭してきます。彼らは「人種、エスニシティ、先住民、障害、ジェンダー、セクシュアリティ、エコロジーといったミクロで「マイナー」な課題」を取り上げていきます。

* 現在でも「ニューレフト」はフーコーを持ち上げることが多いようですが、彼らはフーコーを単純化して、矮小化しているように思います。フーコーはもちろん単純な左翼ではありません。それについてはまた後日書こうと思います。

フランスの「五月革命」のスローガンは「禁止することを禁止する」でした。

* このスローガンには大きく分けて3つの意味があります。すなわち、
1.反権威主義
2.自由と創造性の肯定
3.パラドキシカルな表現
(スローガン自体が「禁止」という言葉を逆説的に用いることで、権威の論理を皮肉っています。)

フーコーはこのスローガンをを斥けます。なぜでしょうか。本書から引用します。

「なぜなら、権力は何かをするなと命じるのではなく、むしろ何かを行うように仕向けているからだ。(中略)したがって、権力から自由になることなどありえない。これが(中略)フーコーの権力論の重要なポイントである。」

フーコーは『狂気の歴史』における「封印令状」の分析を通じて上記のような着想を得ました。
この制度は「主権的な権力の典型例」と見なされていましたが、フーコーはその考え方を斥けます。

本書から引用します。
[(この制度によって)権力は人々を上から無理矢理押さえつけるのではなく、人びとによって下から呼びよせられることで、人びとに直接作用する。近代権力の合理的な特徴がこのようなものである以上、禁止や抑圧を軸として権力を法のモデルで考えることは的外れであり、そうした見方に基づく理論も実践も根底から見直されなければならない。」

続けて本書から引用します。
「フーコーにとって主体とは「なるもの」である。(中略)どんなときも変わらない普遍的な存在として、行動や思考の単位とされる同一性を備えた主体ではなく、つねに主体になっていくプロセスの途上にある主体、フーコーの統治論が考察するのはこのような主体である。」

* フーコーにとっての「権力」とは、「分散的で遍在するもの」です。またフーコーは、権力が特定の知識(例:医学、精神医学、犯罪学)を生み出し、その知識が逆に権力を強化すると指摘します。

* フーコーにとって、「主体」は生まれながらに存在するものではなく、権力と知識の作用を通じて歴史的に構築されます。

* フーコーの思想では、「権力」と「主体」は相互に依存し、切り離せない関係にあります。権力は主体を形成し、主体は権力を行使・抵抗する場となります。

ここでフーコーの「臣従化」について考察してみましょう。「「臣従化」とは、権力関係のなかで人が従属的な主体として生み出され続けていくプロセスのこと」です。

フーコーが、「人が従属的な主体として生み出され続けていく」例として、『監獄の誕生』でベンサムの「パノプティコン」を取り上げたことは有名です。「パノプティコン」においては、「監視される側は、処罰を恐れて、自分からは見えることのない監視する側の視線を内面化し、規則をつねに遵守するようにみずからを訓練する」のです。

ここから著者は、わたしたちが何らかの施設で過ごしている生活様式が「歴史的」なものであることを指摘します。

また本書から引用します。
「(17世紀以降ヨーロッパでは)人々がどう生きるかに強い関心が示されるようになり、さまざまな介入が始まる。フーコーは、人間の「生」を個人かつ集団として管理統制するために用いられる知と技術の複合体を「生権力」と名づけた。この生権力は二つの権力技術のもとで展開する。ひとつは「規律」であり、もうひとつは「生政治」である。」

「規律」と「生政治」について、著者の説明を引用してみます。
「一般的に言えば、個人の身体を機械とみなしたうえで、その力を最大化させ、最大限の効果を得ようとするのが規律である。」
「生政治の目的は、集団の健全性を上昇させることにある。」
「規律は、個人の身体を「ふつう」に振る舞う、スタンダードで「健全な」身体へ作り変えようとする。他方で生政治は、統計的に得られた標準値に従って集団全体の偶然性(リスク)を管理し、相対的に「健全な」集団づくりを目指す。」

* 規律と生政治は、近代社会の権力の二つの柱として機能します。たとえば、学校で規律化された個人(規律)は、健康で生産的な労働力として人口に組み込まれ(生政治)、国家の繁栄に貢献します。

* フーコーは、規律が「身体の解剖学政治」(anatomy-politics)を、生政治が「人口の生物政治」(bio-politics)を構成すると述べ、両者が近代の「生権力」を形成すると考えます。

* フーコーの規律と生政治は、現代の監視社会(例:SNSのデータ収集、スマートシティ)、パンデミック対策(例:ロックダウン、ワクチン政策)、AIによる行動予測などに応用可能です。これらは、個人の身体と集団の生命を同時に管理する、規律と生政治の融合を示しています。

本章のまとめです。

フーコーの「規律」は、個人の身体を管理し、従順で生産的な主体を形成する近代の権力技術であり、パノプティコンや学校・監獄などの制度に体現されます。一方、「生政治」は、人口の生命を管理し、健康や生産性を最適化する権力形態で、公衆衛生や人口政策に現れます。両者は、個々の身体(規律)と集団の生命(生政治)を対象とする補完的な権力として、近代の「生権力」を構成します。五月革命のような抵抗運動は、規律や生政治への挑戦として、フーコーの分析と共鳴します。これらの概念は、現代社会の監視や管理の仕組みを理解する上でも重要な視座を提供します。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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