今回は、箱田徹『今を生きる思想 ミシェル・フーコー』 (講談社現代新書)の【第2章】をご紹介します。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「  」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「生政治」のように、ある用語に「  」を使用することがあります。)なお*の後は私の個人的な「感想」です。

【フーコーの思い出(その2)】

本書に入る前に、前回に引き続き、私とフーコーとの関わり合いについて語っておこうと思います。
私が大学に入学したのは1978年のことでした。当時からフーコーの名声は轟きわたっていたことは、前回ご紹介した通りです。

しかし当時は『監獄の誕生』の邦訳が出版されたばかりであり、本国フランスで『知への意志 性の歴史1』が出版されたという噂が聞こえてくるといった状況でした。専門家でも、フーコーの思想の射程がまだ掴みきれていなかったのです。

私を含めた仏文の学生は、『季刊パイディア』でフーコーとデリダの論争を読んだり、1978年二度目の来日の際に渡辺守章と交わした対談「哲学の舞台」などを読んでいたのでした。(本当は『言葉と物」に本気で取り組むべきでした。反省。)

【第2章 魂をどのように導くか】

前章のまとめを本書から引用します。

「フーコーは西洋近代に特徴的な権力の主要なはたらきを、人間になんらかの活動を促すことを通じて、その振る舞いを管理統制することにあると考えていた。」

* ここでは権力が「何かを禁ずる」のではなく、「活動を促す」としていることが重要だと思います。管理統制(生権力)に「規律」と「生政治」という2つの側面があることは、前回ふれた通りです。

さて、ヨーロッパ世界が次第に「世俗化」していく過程で、権力のありようも変化していくわけですが、この章では「主体概念はいかに形成されたか」に関して、フーコーがなぜキリスト教を参照したのかについて検討されます。

フーコーは「パノプティコン」に代表される〈従属的な主体の生産〉について、「その祖型が中世キリスト教の改革運動に遡る」と論じました。この規律装置は、キリスト教内部だけでなく、近代西洋社会全体を形作る「技法」としてとらえられるのです。

* 「技法(テクニック)」は重要な用語で、たびたび登場します。

ここでフーコーは個人の身体を規律化する「訓練(エグゼルシス)」が、修道院から学校や軍隊へ転用されていったと論じます。その上で、この「訓練」を実施する教団が「各人が禁欲的な修養に励むときには、指導役による「導き」を得ることと定めている」という点を指摘します。

「精神医学」もこうした「「絶えざる導き」という考えた方をキリスト教の語彙から取り込んでいる」のです(「訓練」の世俗化です)。いずれにしても「導き」とは、一方的な命令ではなく、たえず一人一人への「配慮」を怠らないというニュアンスがあります。

この中世の宗教共同体における管理と、近代の精神医学における病院の管理・統制を結びつけているのが、フーコーの言う「司牧権力」なのです。

* 「司牧権力」(pastoral power)とは、キリスト教の牧会(牧師が羊飼いのように信者を導く行為)に由来します。この権力は、「救済」や「幸福」を目的として個人の内面や魂を管理し、導くことを通じて支配を行う仕組みを指します。国家や法による強制的な支配とは異なり、自己規律や従順さを促す点に特徴があります。その権力行使の方法ですが、告白や懺悔を通じて個人の内面を可視化し、それを管理する技術(例:告白の制度)が用いられます。

フーコーは、司牧権力が近代社会において変形し、国家や機関(医療、教育、行政など)による「生権力」(biopower)の一部として機能していると論じます。これは、権力が単に抑圧するだけでなく、個人の主体性を形成し、自己管理を促す形で機能することを示しています。この概念は、近代社会における権力の微妙で遍在する働きを理解する鍵となります。

また本書から引用しましょう。

「「羊飼い」になぞらえられる聖職者は、みずからの救済の条件として、神から委ねられた弟子や信徒という「羊」に絶えず気を配り、その安全を確保するという困難な任務に取り組む。司牧者は群れ全体の安全を確保しつつ、個別の状態を把握して、もれなく全員を救いへと正しく導くことが求められるのである。他者の救済が自己の救済の条件だからだ。」

* 「個別の状態を把握して」と「自己の救済の条件だからだ」が重要です。前者は「告解聴取」を通じて行われますが、フーコーはこれを「技術」と呼ぶのです。後者は本章の後半で論じられる「自己の統治」の問題につながります。)

* フーコーは、西洋における政治権力の源流を、古代ギリシア・ローマではなく、キリスト教の司牧的な関係に見出しています。「人を誕生から死まで継続的に導く」あの「ゆりかごから墓場まで」の原型がここにあったとは驚きです。

本書から引用します。

「ここでは、統治と導きという問題そのものが、ここでいう西洋近代国家の統治性、すなわちある領域内の人びとを統治する技術の展開をめぐる問題よりも古いことに注目しておこう。」

* 次に「権力−知」の定式が論じられます。ここでミシェル・フーコーの「権力−知」の定式を簡単に確認しておきましょう。

この定式は、権力が知識を形成し、知識が権力を強化・正当化するという動的なプロセスを表しています。前者を詳しく述べると、権力は、特定の知識(例えば、科学、医学、法律、規範など)を生み出し、どのような知識が「正当」であるかを定義します。例えば、近代社会では、監獄や精神病院などの制度が「犯罪者」や「狂気」を定義する知識を生産し、それによって人々を管理・統制します。

一方後者では、知識は権力の行使を可能にし、正当化します。例えば、医学的知識は「健康」や「異常」を定義することで、医療機関や国家が個人の身体や行動を管理する権力を強化します。

「権力−知」は静的な関係ではなく、歴史的・社会的な文脈の中で絶えず変化し、相互に影響し合うプロセスです。「権力−知」の定式は、知識が中立的・客観的であるという従来の考えを批判し、知識が常に特定の権力関係の中で形成されることを明らかにします。これにより、社会制度や規範がどのようにして個人の行動や思考を形成するかを理解する枠組みを提供します。

さて、前に言及しました「自己の統治」の話が出てきます。本書から引用します。

「・・・フーコーは、他者の統治についての議論から自己の統治という政治的かつ倫理的な問題を引き出すのである。」
「この自己の統治にかかわるかたちで提示されるのが「自己の技術(テクノロジー)」という概念である。フーコーは、これをキリスト教の制度的確立以後とは違ったかたちで、自己と他者との関係、自己の自己への関係についての問いかけと実践を支える倫理や教説の、最も一般的な呼び名として提示する。」

* フーコーは、自己の統治を自己省察、日記、瞑想、対話などの具体的な実践を通じて、自己を理解し、欲望や行動を管理する技術としてとらえました。彼が愛読していたマルクス・アウレリウスの『自省録』は、自己の統治の一例とされます。(岩波文庫はベストセラーですね。)

* 自己の統治は、自由の実践と密接に関連しています。フーコーにとって、自由とは単なる外部の束縛からの解放ではなく、自己を倫理的に構築する能力です。自己を統治することで、個人は社会や権力の影響を受けつつも、主体的に生きる方法を見出します。

また本書から引用します。

「自己の統治は「自己認識」と「自己への配慮」という、真理と主体についての二つの関係のあり方から成り立っている。」
「自己への配慮と自己に配慮する者としての主体がはじめて現れたときから、自己の統治と他者の統治は二つにひとつのものとして「統治」という問い、他者を導くべき自己をいかにして導くべきかという問いを構成しているのである。」

本書は、「自己への配慮」がプラトンからヘレニズムにいたると大きく変貌し、自己への配慮が自己の陶冶という倫理的問いに変貌したことを指摘し、陶冶のキーワードが「真理」であると言います。

* フーコーは具体的な資料に基づきながら「自己への配慮」と「自己認識」の関係がその後も変質していったことを精密に分析します。(ですから、フーコーを読む楽しみとは、こうしたレジュメを読むことではなく、細部に目を通すことなのです。)

* ここで「自己への配慮」と「自己認識」の関係を簡単に復習しておきましょう。

  1. 自己への配慮(épimeleia heautou)
    定義:自己への配慮は、個人が自分自身の心身や魂を積極的にケアし、倫理的な主体として自己を形成する実践を指します。
  2. 自己認識(gnōthi seauton)
    定義:自己認識は、「汝自身を知れ」というデルフォイの神託に由来し、自己の限界や本質、欲望や動機を理解することを意味します。ソクラテスやプラトンの哲学で強調され、知識や真理の探求と結びついていました。
    3.近代の分離:近代では、自己認識が科学的・心理学的分析(例:精神分析)に還元され、自己への配慮が個人主義や生産性向上のための自己管理に変形しました。フーコーは、この分離が自己の倫理的形成を弱体化させ、権力や規範への従属を強めたと批判します。

* 今回かなりいろいろな概念が登場して、まとめるのも一苦労ではありましたが、今までぼんやりしていた、主に『性の歴史』全4巻で展開されるフーコーの思想の全貌がはじめて理解できました。また紹介は半分ですが、普通の新書の半分のサイズでありながら、きわめて素晴らしい入門書であると断言できます。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です