今回は、箱田徹『今を生きる思想 ミシェル・フーコー』 (講談社現代新書)の【第3章】をご紹介します。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「生政治」のように、ある用語に「 」を使用することがあります。)なお*の後は私の個人的な「感想」です。
* 本題に入る前に、お知らせを
6月12日に『フーコー『言葉と物』を読む――言語の回帰と人間の消滅 』が出版されます。今は知りませんが、昔はフーコーと言えば『言葉と物』でした。しかしこの本は難解すぎて、どこから手をつけていいかわかりませんでしたので、待望の解説書です。楽しみ!
【第3章 人はみな企業である】
まずは、第2章の復習も兼ねて本書から引用します。
「他者の統治との関係において自己をどのように作り上げるのか?第二章の後半で取り上げた自己への配慮と自己の主体化は、社会を避けて自己に回帰するという営みではなく、こうした社会的な問いとして構想されている。」
「(中略)司牧権力の系譜についての議論を終えたフーコーは、宗教改革と三十年戦争を経てヨーロッパに成立する領域国家について、国力の増強を目的としてなされる権力行使の種別的なあり方を分析する。」
ここで著者は、ここでの議論を三点にまとめます。引用します。
「一、国家とは自己による自己の統治であるという考え方が統治性論のベースであること。」
「二、統治とは真理による主体化であるという論点を踏まえると、国家による自己の統治としての人の統治の真理は、「市場」であること。」
「三、新自由主義型統治性の特徴は、社会の構成単位を「企業」とし、競争という理念のもとに個人と社会を組織しようとすることである。」
* 少しわかりにくいので、順番に説明していきたいと思います。(多少、本書の議論を先取りすることになります。)
まず上記の引用の一ですが、これは国家や権力の行使が、単なる上からの支配や抑圧ではなく、個々人の自己統治や自己管理を通じて機能するメカニズムを指しています。
「国家とは自己による自己の統治である」という表現は、国家の権力が、個人に対して直接的な強制力を行使するだけでなく、個人自身が自らの行動や選択を通じて国家の目的や秩序に適合するように「自己を統治」するプロセスを強調しています。
フーコーにとって、統治性は自由と不可分です。個人がある程度の自由を持つからこそ、自己統治が可能となり、国家はその自由を利用して間接的に統治します。
次に二ですが、ミシェル・フーコーは、統治性の枠組みの中で、特に新自由主義的な統治の形態において、市場が権力と個人の自己統治を結びつける中心的な場として機能していることを指摘しています。フーコーの「国家による自己の統治としての人の統治の真理は、『市場』である」という発言は、市場が単にモノやサービスの交換の場ではなく、個人や社会の行動を形成し、評価する基準(「真理」)を提供する場であることを意味します。
フーコーの統治性論の核心は、個人が自己を統治する(自己規律や自己管理を行う)プロセスを通じて、国家の統治が実現される点にあります。市場はこの自己統治を促進する場です:
最後に三ですが、彼は新自由主義が従来の自由主義とは異なる統治の論理を展開していることを強調しています。フーコーの発言では、新自由主義が社会を「企業」のモデルに基づいて組織し、競争をその中心原理とする点を強調しています。
新自由主義において、社会の基本単位が「企業」として捉えられるという点は、以下の意味を持ちます:
(1) 新自由主義では、個人が単なる労働者や市民ではなく、「自己を管理する企業家」(ホモ・エコノミクス)として再定義されます。
(2) 社会のあらゆる領域が、企業の論理(効率性、成果主義、競争)に従って再編されます。たとえば学校は「人的資本」を育成する企業として機能し、学生は将来の労働市場での競争力を高めるための「投資対象」と見なされます。
また、新自由主義の統治性は、競争を社会組織の中心原理として位置づけます。
新自由主義では、競争が自然に存在するものではなく、国家や社会が積極的に作り出し、維持するものとされます。競争は、個人や組織が自己を管理し、効率性や生産性を高める動機となります。
フーコーの「新自由主義」の分析は、68年5月以降のフランス社会を反映したものでした。
フーコーの議論は「主権‐規律‐安全」という三分類に強調点が移ることになります。
* 「主権‐規律‐安全」という三分類について、もう少し考察してみましょう。
フーコーは、これら三つの権力形態が互いに排他的ではなく、歴史的に重なり合いながら発展したとします。
主権は、近代以前の中心的な権力形態でしたが、規律や安全の技術が登場しても完全には消滅しません。規律は、近代社会の工業化や制度化に伴い発展し、個人を詳細に管理する技術として機能しました。安全は、人口の増加や経済の複雑化に伴い、集団の管理を重視する形態として現れました。
さて、また本書から引用します。
「領域国家においては、ひとりの卓越した統治者が絶対的に権力を行使しているのではない。社会の上から下までが統治的な関係に貫かれ、自己が自己を導き、他者を導き、また他者から導かれるという相対的な権力関係の中に君主から臣民までが身を置いている。」
フーコーは、自己のあらゆるところに気を配ろうとするポリスに、世俗化された司牧権力の姿を見ていました。
* ポリスは、社会のあらゆる領域(経済、衛生、教育、道徳など)を詳細に管理し、統治の対象を最大化することを目指します。
* ポリスの目的は、国家の「力」と「繁栄」を強化することです。フーコーは、これを「国家理性」(raison d’État)に基づく統治の特徴として分析します。ポリスは、単なる抑圧ではなく、積極的に社会を「良くする」ことを目指します。
* ポリスは、統治者が社会や人口に関する詳細な知識(統計、調査など)を持つことを前提とし、それを基に規制や介入を行います。この点で、近代的な「統治性」(governmentality)の起源とも言えます。
著者は次のような問いかけをします。
「近代国家の統治において指標として参照される「真理」とはなんだろうか?」
そして次のように述べます。
「フーコーはこの問いに「市場」と答えた。」
「(中略)フーコーは「重農主義によって市場に「真理陳述の場」としての役割が与えられた契機を読み取る。国家の自己統治は、「市場」に価格として現れる「真理」を指標とすることだ。」
フーコーは市場の中に、「ポリスに備わる人為性にまさしく対立させられる自然性」を見て取ります。
本書から引用します。
「統治性論の観点からすると、新自由主義とは、古典的自由主義が直面した統治性の危機への反動的な反応だ。」
「フーコーは市場と国家の関係、そこから導かれる真理と統治の関係のあり方に、古典的自由主義との質的違いを見る。」
フーコーは次のように述べます。
「新自由主義型統治は(略)社会に介入し、競争メカニズムが、いかなるときも社会の深いところのどの地点でも、調整役を果たすようにしなければならないのです。」
著者はこの事態を「競争は自然的な事実ではなく、固有の構造を備え、追及されるべき理念となる。」と述べます。さらに「新自由主義は、経済人を企業という主体、競争と生産を担う主体として捉える」のです。
* 復習します。フーコーにとって、競争は、自然に発生するものではなく、統治の技術や政策を通じて意図的に作り出され、維持される社会的構築物です。ですから、フーコーは、新自由主義が競争を促進するために、国家や社会が積極的に介入する必要があることを強調します。フーコーは、これを「市場の真実(vérité)」を生産する統治の技術と捉えます。
* 新自由主義は、個人を「企業家的な自己」(homo economicus)として再構成し、競争を通じて自己を管理し、最適化することを求めます。競争は、個人がリスクを取り、自己投資を行い、市場の中で「競争力」を高めるよう促す規範として機能します。
* フーコーは新自由主義の統治が「自由」や「自然」を装いつつ、実際には新たな権力の形態を確立していることを批判的に示しています。