今回は、箱田徹『今を生きる思想 ミシェル・フーコー』 (講談社現代新書)の最終章【第4章】をご紹介します。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「  」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「生権力」のように、ある用語に「  」を使用することがあります。)なお*の後は私の個人的な「感想」です。

【第4章 本当の生を生きる】

この章の問いについて、本書から引用します。

「(中略)、フーコーによれば、権力とは関係的なものであり、つねに反転可能性を含んでいる。だとすれば、権力論を統治=導きの問題として拡張した自己と他者の統治の問題系には、そうした反転の政治的契機はどのようなかたちで組み込まれているのだろうか?」

他者の統治は支配とは異なります。また自己の統治は、個人の選択に属します。

これを著者は次のように言い換えています。
「権力とは自由があるなかでしか作動しない関係的なものであり、その点で主体に行為の自由がない支配とは区別されると考えられている」
「権力関係にある主体にはいつでもいまとは別の振る舞いをする力が備わっている。」

そして新たな概念が紹介されます。

「このような権力論と統治論の交点にあって、導かれる側がみずからを別のかたちで導くことを、フーコーは(中略)「対抗導き」と名づけた。」

* ここで著者が「対抗導き」という聞きなれない日本語に訳している概念について、検討してみましょう。

「対抗導き」(contre-conduite)は、フーコーが「統治性(gouvernementalité)」の議論の中で用いた概念で、権力による「導き(conduite)」や統治のメカニズムに対して抵抗し、対抗する実践や行動を指します。

フーコーは、「導き」を「人々を導く行為」と定義し、統治の中心的なメカニズムとして捉えます。これは、個人の行動や集団の振る舞いを特定の方向に導く権力の行使を意味します。例えば、国家、教会、または他の制度が、規範や規則を通じて人々の生活や行動を形成・管理することです。

「対抗導き」は、この「導き」に対する抵抗や対抗的な実践を指します。フーコーは、これを単なる反乱や革命ではなく、統治の枠組み内で主体が自らの行動や生き方を再定義し、別の形で自己を導く試みを意味すると考えました。

具体的には、統治のルールや規範に従わず、異なる行動様式や価値観を通じて権力に異議を唱える実践です。これは、完全な権力の拒絶ではなく、統治の枠組み内での「別の導き方」を模索する戦略的な抵抗です。

「対抗導き」は、権力と主体の関係を動的に捉えるフーコーの視点を象徴しています。権力は一方的に押し付けられるものではなく、抵抗や対抗を通じて常に再構成され、交渉されるものだと考えます。
この概念は、統治される主体が完全に従属するのではなく、創造的かつ戦略的に自己を再構成する可能性を示唆します。

再び本書から引用します。

「政治とは他者からの導きとしての統治への抵抗、蜂起、対決とともに生まれるのであり、それらによって貫かれている。」

フーコーは、キリスト教における「導かれる側の反乱」にふれながら、重要な指摘をします。

「しかし、(中略)こうした司牧をめぐる巨大な反乱すら、司牧関係そのものを廃棄してはいない。」
「むしろ、キリスト教に限って言えば、対抗導きに属する動きを繰り返し取り込んで自己刷新を図ることで、統治性の危機を乗り越えて、みずからの命脈を保ってきたのである。」

一方「世俗の歴史にはどのような対抗導きの主体が見られるのか?フーコーは、国家への従属を拒否し、国家が提示する真理とは異なった真理によってみずからを集団として導く市民社会、住民、民族=国民(nation)であるとフーコーは述べていた。」

そしてフーコーは「このようには統治されない技術」をカントの「啓蒙」という概念に結びつけます。

著者の言葉を借りれば、「啓蒙とは、自己が他人の導きに身を委ねてみずからの力で考えようとしない未成年状態から決別すること、自分の悟性を使って自由に考えるという責任を、勇気をもって引き受けると決断すること」だからです。

* カントは『啓蒙とは何か』で、啓蒙を「人間が自己の未成年状態から抜け出すこと」と定義し、自己の理性(Vernunft)を公共的に使用することで自由を獲得することを強調しました。カントにとって、啓蒙は個人が外部の権威(宗教、国家、伝統など)に盲従せず、自身の理性に基づいて思考し、行動する能力を育むプロセスです。

* 啓蒙は個人の自律(autonomy)と自由を促進しますが、同時に国家や社会秩序との調和も重視されます(カントは「服従しつつ論争せよ」と述べています)。

* フーコーは、カントの「啓蒙」を「批判的態度(attitude critique)」の始まりと見なします。この批判的態度は、単に知識を蓄積するだけでなく、権力や規範が主体にどのように作用するかを問い、抵抗する姿勢を意味します。フーコーはこれを「現代性の態度」と呼び、啓蒙が単なる理性の勝利ではなく、権力に対する主体の自己反省的な関係を確立する契機だと考えました。

* フーコーはカントの楽観的な「理性の進歩」には懐疑的です。フーコーにとって、啓蒙は自由を約束する一方で、規律や統治の新たな形式(例:近代国家、科学、医療など)を生み出し、主体を新たな形で従属させる側面も持つと見ます。

さて、再び本書から引用します。

「だがここにはやっかいな構造がある。人はどうやって未成年状態から脱出しようと決めるのか?啓蒙の理念を引き受けて、いまがその時、啓蒙の時代であると意識することによってである、というのがカントの答えだった。」

フーコーの統治論から見た啓蒙とは、「自己の導きと他者の導きの関係によって構成される自己が、みずからの振る舞いのありようを問題化することで、いまみずからが置かれている統治の関係を変えること」なのです。

1984年の「啓蒙とは何か」というテクスト(*ちなみに、これは『フーコー・コレクション6』に収録されています)においては、「修練としてのダンディズム」、「みずからに働きかけることによってみずからのあり方を形成していくこと」が述べられていました。

最後に、「このような倫理的実践と真理の関係、真理との関係によって自己の生をいかに構成するのか」という問いが問われます。その軸となったのは、「パレーシア」という概念でした。また本書から引用します。

「(フーコーは)哲学的パレーシアにおける導きの対象、自己への配慮の対象として認識されるのは「生(ビオス)」、つまり自己の存在のあり方、生き方であると述べる。」
「ただし、そのうえでフーコーが強調するのは、自己へのはたらきかけによって生に形式を与えること(中略)の重視というこの学派(キュニコス派)の傾向だった。」
「(中略)フーコーが自己と他者の統治を古代に遡って考察したことの大きなねらいは、「真理」には二つの種類があることを示すことだった。すなわち、一定の手続きを踏めば誰にでもアクセスできるような客観的な真理と、みずからの主体を変容させなければ知ることができず、そしてそれを知ることによって自己に変容がもたらされる主観的な真理である。」

* だいぶ難しい引用部分でしたので、ミシェル・フーコーの言う「パレーシア」(parrēsia)について、少し詳しく解説してみましょう。「パレーシア」は、古代ギリシャに由来する概念で、「自由な発言」「率直な語り」を意味します。

パレーシアは、単なる「自由な発言」ではなく、以下の特徴を持つ行為です:

真理を語る勇気:話者が真実だと信じることを、危険やリスクを冒して公に語ること。
率直さ:隠さず、飾らず、直接的に意見を述べること。
倫理的責任:パレーシアは、話者自身の信念や道徳的立場に基づき、他者や社会に対して責任を持つ行為。
危険の要素:パレーシアは権力者や多数派に対して異議を唱えることが多く、話者に社会的・政治的リスク(非難、追放、処罰など)をもたらす可能性がある。

フーコーは、パレーシアが古代ギリシャの民主政や哲学的実践(特にソクラテスやキュニコス派)の中で重要な役割を果たしたと指摘します。
政治的パレーシア:アテナイの民主政で、市民が議会で率直に意見を述べ、共同体の利益を追求する行為。
哲学的パレーシア:ソクラテスの対話のように、個人の魂や倫理的成長を促すために真理を語ること。

フーコーはパレーシアを、単なる言論の自由ではなく、主体と真理の関係を問う実践として捉えます:
自己と他者の関係:パレーシアは、話者が自己の信念に基づいて語り、他者に影響を与える行為です。たとえば、教師や哲学者は弟子に真理を伝え、自己省察を促します。
権力との対峙:パレーシアは権力構造に対して批判的であり、支配や抑圧に抵抗する手段となります。
倫理的実践:パレーシアを行う者は、自己の生活や行動を通じて真理を体現します(「生の技法」)。

最後にまた本書から引用します。

「こうした感覚に身を置き、そこで捉えられた主観的な「真理」を経験することで、私たちは分断されたばらばらの個人であることを止めて、いまとは別の、みずからの外にある(と思っていた)人や物事とつながる個人という主体として、またさまざまなスケールの集合的な主体として、みずからを構成することができるのである。」

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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