今回は、『「倫理の問題」とは何か』(佐藤岳詩、光文社新書)の【序章】と【第1章】の前半をご紹介します。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「重要性」のように、ある用語に「 」を使用することがあります。)なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」や「感想」です。
【序章】
著者は、この本における問いを次のようにわかりやすく要約しています。
「私たちは何が倫理に反するか、ということについては、ある程度、共通の理解をもっています。(中略)しかし、それがいったい何に反しているのか、倫理とはそもそも何を意味しているのか」
【第1章 倫理の問題って何?】
本章の目的は「倫理とは何のことなのか」「倫理の問題とはどういった問題のことなのか」を考えることです。
本書ではカントや、ベンサム、J・S・ミルではなく、現代のオックスフォード学派の議論が参照されます。
まず、この後検討する「倫理とは何か」を巡る4つの見解が、先取りして紹介されます。
本書から引用します。
1.重要性基準:私たちの生にとって重要で深刻なものを示すものが倫理・道徳。重要なものを保護し維持することが倫理的に優れたことであり、その逆が倫理的に劣ったことである。
2.理想像基準:私たちにちっての理想像を示すものが倫理・道徳。理想に近づくことが倫理的に優れたことであり、その逆が倫理的に劣ったことである。
3.行為基準:意図に基づいた振る舞いを示すのが倫理・道徳。良い意図に基づく行為が倫理的に優れたことであり、その逆が倫理的に劣ったことである。
4.見方基準:倫理・道徳とは世界の見方そのもの。世界の良い見方が優れた倫理であり、その逆が劣った倫理である。
* 大筋にはあまり関係がないですが、本書はここで「ここからは話の中心がいったん「倫理」から「道徳」になります。」と書いておきながら、この2つは「さしあたっては同じものを意味している」とも述べています。私にはこれが何を意味しているのかわかりませんが、後の部分を読めばわかるのかもしれません。
さて、4つの見解を補足していきます。
まず「1.重要性基準」から見ていきましょう。この側面から倫理を考えた学者として、フィリッパ・フットが挙げられています。フットは以下のように述べます。
「ある判断が道徳的であるためには、まず、その判断が自分の制御できる範囲の事柄についてのものでなければならない。」
「次に、その判断は、真剣さと優先権をともなったものでなくてはなりません。」
* 著者も言及していますが、この見解を採用する場合、個人個人によって「重要で深刻なものは異なる」という問題が存在します。著者は「全部が全部異なるとは限らない」と述べますが、その解決策までは述べられていないように思えます。
* 自分の制御できない問題、たとえば「戦争に反対である」という意見を表明することは倫理的ではないのでしょうか。あるいは「意見を表明するという行為は制御できる」と考えるのでしょうか。
* 以上の点を確認するためには、本当はフットの議論を原文で確認する必要があります。
次の、「2.理想像基準」についてです。この見解は「人はいかに生きるべきか」という理想像を問います。ここで登場するのが、リチャード・マーヴィン・ヘアです。ヘアはフットを批判して「(中略)中身を度外視して、重要性だけで、ある問題が道徳の問題かどうかを判定するのなら、普通は道徳の問題ではないと考えられている事柄まで、道徳の問題になってしまうだろう」と述べます。
* ここでキッチンにおける包丁や鍋の例が挙げられますが、私はあまり説得力のない例だと思います。私には「重要性」の定義をより厳密にすべきように思えます。
この見解(ヘアによる見解)によると、道徳とは「人の理想像を勧めるもの」ということになります。ヘアはこう述べます。「確かに、勧めという要素だけでは、打算的な判断など、その他の判断から道徳的な判断を区別することはできない。しかし、道徳判断には、別の要素がある。それは、どんな文脈で何を勧めるか、ということだ。そして道徳の場合には「なろうとしている人」を勧めるのだ」と。
* 「(将来)何かになろう」という理想像を勧める」ことが倫理だとすれば、この倫理は目の前で人々が虐殺されているというような「アクチュアル」な問題には対処できないように思われます。この点はヘアならなんと答えるでしょうか。
* しかも今度は「理想とは何か」という新たな問題が発生します。「大金持ちになりたい」という将来像を持っている人が、「お金が結局すべてだよね」という倫理を掲げたとしたら、それは正当でしょうか。
フットはいくつかの論文を通じてヘアに反論しています。フットは「道徳以外でも人の在り方を勧めるものはいくらでもあり得る」と述べるのです。
* 私のさきほど述べたことと同じように思えます。しかし、ここでフットは「道徳以外でも」と、すでに「道徳(倫理)」をあらかじめどういうものか決めているので、メタ倫理的ではありません。
また、フットは、「倫理の事柄は(何かを勧めたり勧めなかったりと)人の都合で勝手に決められるようなものではない」と考えます。(カッコ内引用者補足)
* しかしフットが挙げる「決して道路の縁石を踏み越えてはならない」という例は、「人の理想像」を勧めているようには思えません。
ヘアを批判したフットもその立場を微妙に変化させていきます。
すなわち、「特定の文脈を背景に持つ場合にのみ事柄は道徳の問題になる」と述べるのです。つまり、
「「人間にとって良いこと、害あること」という特定の文脈にそった中身を持っているかどうかによって、道徳性の判定をするという立場に移行して」いったのです。
* フットの議論は細かく分析する必要があります。倫理とは「自分の都合で決められるような個人的」なものではなく、かつ「特定の文脈にのみ倫理的」でありうるような個別的なものだと言うのです。
* しかし、「人間にとって良いこと」という文脈に沿ったものが倫理的とは、結局「倫理的なものは倫理的である」というトートロジーになってしまうということにはならないのでしょうか?
R.M.ヘアもまたその立場を変化させていきます。
ヘアは、「道徳の原則と他の原則の違いは、前者が後者に対する「優越性」(overridingness)を備えていることにあるという主張を新たに行います。」
著者はこれを次のようにまとめます。
「ヘアの考えでは、私たちは生きていくなかで、特定の原則や理由を自分にとって重要なものとみなします。たとえ他の原則とぶつかったとしても、基本的には曲げられることはなく、それに従って様々な判断や行為をなす、そういった原則がある、それがあなたにとっての道徳原則である、とヘアは述べるわけです。このとき、内容については、以前と同じ「人の理想的な在り方」に加えて、「各人の利益にかかわる」というものをヘアは追加します。(以下略)」
* 重要性を持ち出すと、フットとヘアの違いがわからなくなります。しかし、ヘアの「優越性」はあくまでも「私がそうありたいという理想とつながるもの」なのです。
フットとヘアの議論から、倫理には二つの方向性があることがわかりました。すなわち、 (一) 自分たちにとって大事なものを守るためにはどうしたらいいか (二) これから先、自分たちは何を大事だと考え、どのように変わっていけばいいか、の2つです。
また両者は必ずしも完全に独立ではなく、片方が他方の実現に必要な条件だとみなすこともできます。
* 正直書きますと、この新書を読んだだけでは、フットとヘアの論争の核心にふれることはできません。そこで、ここで、この議論を理解するための読書案内をしてみたいと思います。
まず、R. M. ヘア『道徳の言語』を読み、ヘアがどのような理論を提唱したのかを理解します。
次に、フィリッパ・フット「道徳的信念」を読み、フットがヘアの理論のどこを問題視し、どのような対案(記述主義)を提示したのかを読みます。
さらに、R. M. ヘア『自由と理性』を読み、フットの批判に対して、ヘアがどのように再反論し、自説を深化させたのかを確認します。
最後に、フィリッパ・フット『徳と悪』の他の論文、「善とは何か」など、関連する他の論文を読み、フットの思想の全体像を掴みます。
(補助的に)ジェフリー・ウォーノック『現代の倫理学』を読み、論争の要点を整理し、理解を深めるために参照します。
* 以上挙げたフットとヘアの著作のうち、「道徳的信念(Moral Beliefs)」 (1958年)でフットは、道徳的評価が客観的な事実に基づくと主張し、ヘアの指令主義を批判しました。彼女は、ある種の事実的・自然的特徴がなければ、あるものを「善い」と呼ぶことはできないと論じました。例えば、「善いナイフ」という評価は、そのナイフが「よく切れる」という事実に基づいています。フットは、この考えを道徳的な「善」にも拡張しようと試みます。
* 残念ながらこの論文は邦訳されていません。この論文は『徳と悪(Virtues and Vices and Other Essays in Moral Philosophy)』(1978年) に収録されていますので、この本で英文で読むしかなさそうです。
* 分類上の問題で、本質的な問題ではありませんが、著者のように、(フットのような)守りの倫理を義務論、(ヘアのような)攻めの倫理を目的論とするならば、フットは義務論、ヘアは徳倫理学になってしまいますが、一般的にはフットが徳倫理学、ヘアが功利主義者と見なされているように思います。