今回は、『「倫理の問題」とは何か』(佐藤岳詩、光文社新書)の【第1章】の後半をご紹介します。(本書の第1章は長大です。)細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「義務論」のように、ある用語に「 」を使用することがあります。)なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」や「感想」です。
【第1章 倫理の問題って何?】(続き)
「倫理とは何か」を巡る4つの見解の「三つめの候補は、「行為としての記述を含む」というものです。これは、ある出来事について、それを誰かが意図的になした振る舞い、すなわち行為として記述する判断であるなら、その判断は道徳にかかわる判断だということです。」
* この見解では、ある行為をした人が自分で行為の倫理性を考えることなく、「記述者」が判断するということでしょうか?
著者のコメントを引き続き引用します。
「したがって、この考え方は、深刻なものにかかわるとか、理想にかかわるということとは関係なく、私たちの発言が何かを意図的な振る舞いとして記述するものであるなら、行為者本人がその発言を道徳的なものと意識しているかどうかはさておき、その発言はすでに道徳の色を帯びていると主張します。」
* ここで著者は倫理の問題を「発言」に限定しています。なぜでしょう。
ここで登場するのが、ヴィトゲンシュタインのお気に入りの弟子かつ彼の最も親しい友の一人として有名なエリザベス・アンスコムです。彼女は、「もう道徳という言葉を使うのはやめよ」と主張したことで特に知られています。著者はこのアンスコムの立場を「行為基準」と呼んでいます。
本書から引用します。
「この主張は、見方を変えれば、人が意図的になすことはすべて道徳的なものである、というものです。意図的に、という箇所はとても重要です。というのも、アンスコムは意図をともなった身体的動作のことを「行為」と呼んでいるからです。」
「彼女が強調したことは、私たちが考慮しなければならないことはそこに意図があるかどうか、特に理解可能で受け容れ可能な意図があるかどうかであって、道徳について考えるとはこうした意図や理由について考えることなのだ、ということです。特別な意図とそうでない意図があるのではなく、意図や理由というもの全般が、私たちの考慮すべきもの、特別なものなのです。」
「 アンスコムがこのように主張したことの目的の一つには、帰結主義という考え方への批判があります。」
* ここで、G.E.M.アンスコムが1958年の論文「Modern Moral Philosophy」において「もう道徳という言葉を使うのをやめよ」と言った背景を、もう少し詳しく検討してみましょう。
* なお、「現代道徳哲学」(Modern Moral Philosophy )は、『現代倫理学基本論文集III: 規範倫理学篇2 (双書現代倫理学)』(勁草書房)に収録されています。
* アンスコムは、「道徳」という言葉の問題点を大きく分けて2点指摘しています。
(1) 神なき義務の概念: 近代の道徳哲学(特にカントや功利主義者)は、「義務」や「正しい行為」を神の法や宗教的枠組みなしに定義しようとしました。しかし、アンスコムは、こうした「義務」という概念が、かつての神に基づく道徳的法則の文脈を失ったことで空虚になっていると主張します。神の法がなければ、「しなければならない」という規範的力は根拠を失い、単なる心理的圧力や社会慣習に還元されると考えました。
(2) 道徳的義務の曖昧さ: 「道徳的」という形容詞が、行為や判断に特別な重みを付加するものとして使われるが、その実質的な意味が不明確であると批判。たとえば、「道徳的に正しい」と言うことが、具体的な善悪の基準を欠いたまま、単に感情的な強調や社会的な強制を意味するにすぎない場合があると指摘しました。
* アンスコムは、「道徳」という言葉を一旦脇に置き、代わりに具体的な徳(virtue)や人間の繁栄(flourishing)に基づく倫理学に焦点を当てるべきだと主張しました。彼女はアリストテレスの徳倫理学に着想を得て、道徳哲学が人間の目的や善についての深い理解に基づくべきだと考えました。
具体的には、心理学的・哲学的分析の必要性: 道徳的判断を下す前に、「行為」「意図」「動機」といった概念を哲学的・心理学的に精密に分析する必要があると述べました。たとえば、行為の意図が倫理的評価において重要であると強調します。
そして、 功利主義や義務論のようなルール中心の倫理ではなく、徳や人間の目的(テロス)に着目するアリストテレス的なアプローチを復活させるべきだと提案するのです。
* アンスコムの「もう道徳という言葉を使うのをやめよ」は、文字通りの完全な放棄を意味するのではなく、「道徳」という言葉がもたらす混乱や空虚さを避けるための警告です。彼女は、道徳哲学が無批判にこの言葉を使うことで、表面的な議論に終始し、本質的な倫理的問題(人間の善や正義とは何か)を見失っていると批判したのです。代わりに、具体的な行為や意図、徳に基づく議論を通じて、倫理学を再構築しようとしたのです。
* 少しだけ、本書ではふれられていない、おそらく「本質的な」ことにふれたいと思います。著者が「意図を持った行為は道徳的である(ここでは倫理的であると言い換えても同じ)」という時、「意図を持った行為はその倫理を問うことができる」と述べているのだと思います。逆に言うとここで著者が「倫理的」という時、「倫理的に正しい」という意味では使っていないように思われます。
* たとえば、「金を儲けるという意図」である行為をしたとしましょう。アンスコムにとってはそれは「倫理性を問われる」問題ではありますが、それを「倫理的に正しい」とは考えていないと思います。私が言いたいのは、著者の佐藤先生が「倫理的」の意味をだんだんずらして使用しているので、第1や第2の見方と、第3の見方は次元が異なるのではないかということです。
さて、本書に戻ります。
「倫理とは何か」を巡る4つの見解の四つめの候補は、「「見方」としての道徳という考え方です。この考え方は、世界の中に倫理があるのではなく、私たちが世界を見るその仕方のことこそ、私たちの倫理なのだ、と主張します。」
「(中略)しかし、見方の倫理というモデルでは、道徳や倫理は選択よりもすっと手前にあります。道徳や倫理とはむしろ、身の回りのひとつひとつのものに向けるまなざしであり、世界の見方そのものです。」
「そのため、自分のなかの偏見やステレオタイプな見方を離れて、対象を丁寧に見ようとすること、対象と真摯に向き合おうとすることが倫理的に重要な前進であり、それは何を選択したか、正解を選ぶことができたかどうかとは関係がないのです。」
* 「丁寧に」とか「真摯に」という言葉に騙されそうですが、「何が真摯か」という問題がまた新たに発生するのです。「何が真摯で、だれがそれを真摯と判定するのか」が問題なのです。
本書では、こうした考えを説いた人物として、アイリス・マードックが挙げられます。
* 本書で紹介されているアイリス・マードックの論文「Vision and Choice in Morality」は、
Existentialists and Mystics: Writings on Philosophy and Literature (1997)に収録されています。
邦訳はまだ存在しないようです。
マードックの立場から「トロリー問題」を考えるとどうなるか、本書から引用します。
「したがって、トロリー問題においてレバーを切り替えることと、切り替えないことのような、予め作成された二択のどちらが正解か、ということを考えるのではなく、そもそも自分の巻き込まれているこの状況をどのような状況と見るか、それがどのような状況に見えるかというところが、倫理の発揮されているところです。」
本書からの引用を続けます。
「このようなマードックの考え方の背後には、私たちは道徳の外側に立って物事を見ることなどできないという発想があります。」
* この後本書では、マードックの「倫理は世界に染み渡り、偏在する」という言葉が紹介されます。ここでこの言葉を少し掘り下げてみたいと思います。アイリス・マードックが「倫理は世界に染み渡り、偏在する」と言ったのは、倫理が単なる規則や抽象的な概念ではなく、私たちの生活や世界そのものに深く根ざしているという考えを表しています。彼女の哲学では、倫理は人間の経験や現実のあらゆる側面に浸透しており、特定の場面や行動に限定されない普遍的な性質を持つとされています。
* 具体的な表現を分析してみます。
「世界に染み渡る」
マードックは、倫理が世界のあらゆる部分に内在していると考えます。倫理は、まるで空気のように、私たちが生きる世界全体に広がっているのです。
「偏在する」
「偏在する」という表現は、倫理が特定の場所や状況に限定されず、どこにでも存在することを強調しています。
マードックにとって「善」は、具体的なルールや結果を超えた、超越的でありながら現実世界に深く関わる概念です。倫理が「世界に染み渡る」のは、この「善」が私たちの認識や行動の基盤にあるからだと考えられます。
* 本書の第1章では、この後「まとめ」が述べられています。様々な考えが紹介され、それぞれ次元も異なっており、著者のまとめ方がはたして正しいのか、正直判断がつきません。第2章以下も自分の頭を使って考えながら読み進めようと思います。