今回は、『「倫理の問題」とは何か』(佐藤岳詩、光文社新書)の【第2章】をご紹介します。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「存在論」のように、ある用語に「 」を使用することがあります。)なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」や「感想」です。
【第2章 倫理の問題に正解はあるか】
本章で問われるのは「倫理の問題には客観的な答えがあるか」です。
そして、この問題も、倫理学者の間で意見が分かれます。
* 私にとってこの問題は大問題です。大げさに言えば、一生をかけて追及するに足る大問題です。当然ここで何らかの結論を示すことはできません。
ここで「倫理の存在論(ontology)」という考え方が紹介されます。この考え方によれば、「倫理の問題の正解」には以下の2つの解釈があります。
「倫理の正解が存在する」とは、「正解が普遍の法則のような形で実在すること」である。
「倫理の正解がある」とは、「誰かが人工的に正解を構成すること」である。
本書では、どちらが正しいかは、容易に結論が出せないとしています。
さらに著者は、前者を「客観的な正解」、後者を「主観的な正解」と呼び換えています。
* この言い換えがはたして正当なものであるかどうかは、検討の余地があると思います。
ここで、重要な問いが提起されます。「倫理的事実」(「道徳的事実」)すなわち「実際に~は良い(悪い)ことであるという事実」とはいったい何であるかという問いです。
実際、18世紀の哲学者デイビッド・ヒュームは、「いくら観察しても道徳的性質、そして道徳的事実は見つからない」と述べています。
* ヒュームがこの主張を展開しているのは、主に『人間本性論』(A Treatise of Human Nature, 1739-1740年刊行)の第3巻「道徳について」(Book III: Of Morals)においてです。特に、この考え方は「事実と価値の区別」(いわゆるヒュームのギロチン)に関連し、道徳判断が客観的な事実からではなく、観察者の感情や情念に基づくという彼の道徳哲学の核心を表しています。
* 以下は、該当箇所の意訳に近い記述です:
「人の行動をいくら観察し、考察しても、善悪を示す関係や事実など見つからない。善悪の根源は観察者の感情にある。」
* この部分でヒュームは、道徳的性質が外部世界の客観的事実として存在するのではなく、観察者の主観的な感情反応に依存すると論じています。この考え方は、ヒュームの道徳哲学における「道徳的実在論の否定」と「感情主義」の基礎を形成します。
「道徳的事実はあるか」という問いは、著者によれば、結局「倫理の正解が存在するか」という問いに還元されます。
ここで、哲学者ジョン・マッキーが登場します。彼は「倫理的な事実についての私たちの確信をただの「思い込み」であると主張」しました。彼はこのような思い込みを「客観化(objectification)」と呼びます。
* マッキーは、Ethics: Inventing Right and Wrong(1977年)の第1章The Subjectivity of Valuesにおいて、「錯誤理論」(Error Theory)の核心を詳細に論じています。
* マッキーはここで、道徳的判断はが客観的な事実を反映していると一般に信じられているが、実際には客観的な道徳的価値は存在しないと主張します。彼は、道徳的発話が真偽を表現する信念に基づいているものの、それらが指し示す客観的な道徳的事実がないため、すべての道徳的判断は「偽」であると論じるのです。
本書から引用します。
「マッキーに言わせれば、自分が様々な事柄に対して持つ道徳的な賛成や反対の気持ちを、他の人にも共有してもらいたいがゆえに、それらが客観的な事実であると思い込み、他人にもそれを押しつけてしまうのです。」
* X、Threads、インスタグラムなどのSNS上で、他人に「倫理的な事実についての思い込み」を強要してくる投稿の非常に多いことを考えると、マッキーの指摘に大きく肯けます。
* 誤解や反論に対してあらかじめ釘をさすために、具体例を挙げておきましょう。たとえば本書で紹介されている例で言うと、「子どもに好き勝手に暴力をふるう」ことは倫理的に許されません。マッキーはそれに異論を唱えているのではないのです。
* それが実際のシチュエーションから離れて、「子どもに好き勝手に暴力をふるってはいけない」という「客観的な事実がある」と考えることが正当ではないと述べているのです。
さらにマッキーはさらに別の重要な指摘をします。本書から引用します。
「要するに、私たちは自分たちの人生が何の目標も持たないと考えることに耐えられません。それがゆえに、客観的な価値は存在し、私たちに何かをせよと命じてくるし、その使命を果たすことに自分の人生はあるのだ、と信じ込もうとする」
一方、ジェームズ・レイチェルズは、倫理の問題には客観的な正解があると主張します。レイチェルズは、マッキーのような人たちが「倫理の問題には客観的正解がない」と考える理由を3つ挙げています。
第1の理由は「文化相対主義」です。「文化は相対的なものなので、倫理において何か正解かを決定できない。」とする考え方です。
しかし、レイチェルズによれば、「文化によって倫理が違うことは、倫理の問題に客観的な正解がないことを意味しません。」その理由は2つあります。
1つ目は、相対的に見えるものも、どちらかが間違っているからです。
2つ目は、相対的に見えるものも、それぞれの状況に応じた個別の問いを設定すれば解消できるというものです。
* しかし、1つ目と2つ目は主張が異なっているように思えます。
第2の理由は心理学です。これは、たとえば人間が進化の過程で生存に有利な行動を、倫理的に正しいと考えるようになったにすぎないという考え方です。
これに対し、レイチェルズは「心理学は、いかにして私たちはしかじかのように考えるようになるのかについて、howにあたる「説明」は与えるが、なぜそのように考えた方がよいのか、というwhyにあたる「正当化」を与えない。」と主張します。心理学が正しくても、それが「倫理の問題に客観的正解がない」という証明にはならないのです。
第3の理由は、証明の不在です。わかりやすく言いますと、「倫理の問題は真理を示す証明が存在しない。したがって客観的真理は存在しない。」という考え方です。
これに対してももレイチェルズは3つの点から反論します。
一つ目は、倫理学において何かを証明するには、妥当な根拠を示せばよい。
二つ目は、私たちは難しい道徳上の問題を考えすぎだ。
三つ目は、説得が困難であることと、正解がないのは別のことである。
* レイチェルズは完全な「道徳的実在論」を目指しているわけではありません。著書『現実をみつめる道徳哲学』では、道徳的判断が完全に主観的でも完全に客観的でもない中間的な立場を模索します。彼は、道徳的実在論と反実在論の両極端を避け、合理性に基づく道徳的判断の客観性を擁護します。
* 『現実をみつめる道徳哲学』は有名な倫理の教科書で、原著は改定を重ね、現在第9版になるそうです。(しかし私は未読です。。。)
* レイチェルズの主張にも問題点はあります。私の中でもまだ整理しきれていませんが、列挙してみます。
理由の主観性:レイチェルズが言う「理由による裏付け」は、結局のところ人間の主観的判断に依存している。理由が文化や個人によって異なる場合、客観的な基準として機能しない。たとえば、「公平な配慮」自体が文化的に異なる解釈を持つため、普遍的な客観性を保証できない。
客観性の錯覚:レイチェルズの「最小概念」が客観的であると主張する根拠は、道徳的判断における人間の合意や合理性の感覚に依存している。合意や合理性は人間の心理的・社会的構築物であり、物理的実在のような客観的基盤を持たない。したがって、レイチェルズの概念は依然として主観的投影の産物である。
多様性の根源的な問題:文化的多様性は、道徳的価値が客観的事実ではなく、社会的・歴史的文脈に依存していることを示す強力な証拠である。レイチェルズが主張する「普遍的原則」は、抽象的すぎて具体的な道徳的判断に適用できないか、あるいは文化間で合意されない。たとえば、「害の最小化」は文化によって「害」の定義が異なり、普遍的基準として機能しない。
普遍性の幻想:レイチェルズが普遍的原則として挙げるものは、実際には人間が作り上げた一般化であり、自然界に独立して存在する客観的事実ではない。マッキーは、こうした原則が客観的であるという主張は、人間が自身の価値観を自然に投影する傾向(彼が「客観化の錯誤」と呼ぶもの)に過ぎないと反論する。
議論の非客観性:道徳的議論が可能であることは、道徳が客観的であることを意味しない。議論は、参加者が共有する主観的価値観や前提に基づいて進行する。たとえば、奴隷制度をめぐる議論は、議論の参加者が「人間の尊厳」を前提とする場合にのみ進むが、この前提自体が客観的事実ではなく文化的信念にすぎない。
錯誤理論との整合性:マッキーは、錯誤理論が道徳的議論を無意味化するというレイチェルズの批判を退ける。錯誤理論は、道徳的判断が客観的事実を参照しないと主張するが、議論自体は実践的な目的(例:社会の調和や個人の利益)で有用でありうる。議論の存在は、道徳の客観性を証明しない。
客観性の本質的問題:マッキーは、客観性が物理的実在のような独立した存在を必要とすると考え、レイチェルズの再定義を「客観性」の基準を弱める方便とみなすだろう。合理的な合意可能性は、結局のところ人間の認識や社会的慣習に依存しており、道徳的価値が自然界に独立して存在する証拠にはならない。
規範的問題:レイチェルズの基準(例:普遍化可能性)は、道徳的判断の「規範的力」(なぜ従うべきか)を説明できない。マッキーは、道徳的価値が客観的であれば、それに従う絶対的理由が必要だが、レイチェルズの基準は単なる合意の産物であり、規範的拘束力を持たないと主張する。
中庸の不十分さ:レイチェルズの中庸的アプローチは、客観性の問題を曖昧にするだけで解決しない。道徳的価値が部分的に客観的であるという主張は、客観性と主観性の境界を明確に定義できず、哲学的に不安定である。
錯誤理論の優位性:マッキーは、錯誤理論が道徳的信念の起源を説明する一貫した枠組みを提供すると主張する。レイチェルズのアプローチは、道徳的信念が客観的であるという直観を維持しようとするが、その直観自体が人間の心理的傾向による錯覚であると反論する。