今回は自分の「道徳の原点」について語ろうと思う。

かなり率直に書いたので、違和感を感じる人もいると思う。もちろん「正しく」反論してもらってかまわないのだが、どうか問題の「真意」をとらえていただきたい。なぜなら、今まで人生で受けてきた反論の多くが「問題の真意を捉え損ねたピント外れの反論」だったからだ。

話は自分が小学校2年生の時に遡る。舞台は担任の先生の道徳の研究授業であった。

当日は各学校や教育委員会から、大勢の偉い人が見学に訪れていた。先生はそれら見学者の前で、いいところを見せたかったはずであり、さらに書くと、クラスの中で僕に「冴えた」答えを期待していたのだと思う。

授業で扱われていたトピック(の一部)は、たしか「道端に咲いている花を折ってはいけない」という話だった。細かいシチュエーションは忘れたが、そこで僕は手を挙げて、「なぜ花を折ってはいけないのですか?」と質問した。

その質問が、先生の面目をつぶしてしまったらしく、以後卒業するまで僕はその学校で「問題児扱い」となったのであった。(もちろん好意的に見てくださっていた先生方もおられたが。)

何かそれで特別に自分に不利益が生じたわけではないが、それ以降自分の中では「自分の性格に欠陥がある」と深く思い込んでいた。ただ「どのような問題があるか」については自分ではわからなかった。(つまり言語化できなかった。)今考えれば、僕は面目をつぶすどころか、その道徳の授業をメタレベルにする格好の話題を提供した、としか思えないのだが。

それ以外でも、僕は子供のころからいろいろなことに疑問を持ち、周囲の人に機会があるたびに質問していたが、「理屈はいいから、実践しないと。」と返答されるばかりであった。何を実践するのか今ひとつ分からなかったが、実践できないこともまた自分の性格の欠点だと思っていた。

しかし思い返してみると、そうやって僕を非難する人たちは、問いの意味を理解しようとせず、発言の是非が判断できなかっただけなのだ。それに今なら「理論/実践」の二分法にとらわれている人たちに、理論もまた立派な実践であると言える。

ところが、ちょっとしたことがきっかけで倫理学・メタ倫理学に足を突っ込んでみると、あの時の「なぜ花を折ってはいけないか?」という問いは、まさにメタ倫理的な問いだったことに気付いたのである。

誤解のないように書いておくが、小学校2年生の時の僕が「花を折っていい」と思っていたわけではないし、実際に道端に咲いている花を折るような子供でもなかった。
ただ単に「なぜ花を折ってはいけないか?」と問うたのである。

これを「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問い置き換えてみよう。

この問いに対して、「あなたはなぜそんな理屈ばかり言っているのですか?今でもガザでは多くの子供たちが虐殺されているのですよ。」と怒りをもって反応してくる類の人びとがいる。

残念ながら、そういった人たちは哲学的、倫理的な問いの「意味」が理解できていない。自分が「正しい」という信念が、思いやりも理解力も奪っているのだ。

また、これは殺人だけでなく、(環境問題でもフェミニズムでも)あらゆる倫理的な議論に共通する問題でもある。

まだまだ誤解する人が多そうなので、もう一度繰り返しておく。

僕は命大切だと思っているし、ガザであろうがどこであろうが、虐殺はけっして肯定できないと思っている。また、こういった現状に早急に対策がなされるべきだとも思っている。

また、虐殺に反対して各地で様々な活動をされている人を尊敬しているし、人格的に素晴らしいと思っている。また場合によっては自分もそういった活動に参加するであろう。

しかし、それと「なぜ人を殺してはいけないか?」と問うことは別問題なのである。

またこのような問いに対して、「あなただって、自分や家族を殺されたくないでしょう?」と反応する人も多い。これもまた、問いの本質を見誤った非=哲学的反応である。

「自分や家族が殺されたくない」ことと、「人を殺してはいけない」ことは、別の問題なのである。

「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いは、普遍的な理由を問うている。

殺人犯を死刑にすることも、妊娠中絶することも、安楽死も、あるいは「相手を殺さないと自分が殺されるような場面」でも、「人を殺すこと」を容認できない理由を問うているのである。

このように問う時に、僕は必ずしも明確な答えを要求しているわけではない。
答えがあるかわからなようなものを問う場合もあるのである。

もちろん、こうした問題には「はっきりとした正解がある」と考える人もいれば、「客観的な答えは存在しない」と考える人もいる。(倫理学的に言えば、「道徳的実在論」(Moral Realism) と「反実在論」(Anti-Realism) という立場である。)

それどころか、そんなことを問うことは意味がないと考える哲学者もいる。そして「理由を問うことに意味がない」と考えることも、また立派な「哲学」なのである。

しかし逆に、ただ自分の信念と違うというだけで相手に「怒り」、何かを問うことを抹殺するのはファシズムである。小学校2年生の僕を問題児扱いして葬り去った人たちと同じなのだ。

「自分が感じている倫理的正しさに、相手が同じように感じてくれない」ということには、その問題に固有の重要な意味があるのであり、それを考えることが「哲学」なのだ。

「なぜ花を折ってはいけないのか?」という問いは、60年くらいの年月を経て、自分の中で今やっと本来の位置を回復することができた。しかし、この問いの本当の意味がなかなか理解されない状況は変わっていない。

しかし、この「問いの意味」が理解されないことが、また自分が考え続けるモティベーションとなっているのである。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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