今回は、『「倫理の問題」とは何か』(佐藤岳詩、光文社新書)の【第3章】をご紹介します。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「  」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「真理」のように、ある用語に「  」を使用することがあります。)
なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」や「感想」です。

【第3章 倫理の問題と真理】

本章で扱われるテーマは、「倫理における真理に対する誠実さは必要なのか」という問題です。
言い換えると「倫理の問題における真理や正解に対して、私たちはどんな態度をとるべきか」という問題です。

本書によれば、哲学者の中にも「真理にこだわることは必ずしも重要ではない」と主張している人たちがおり、前章のマッキーがその代表とされています。

* 著者はさらっと書いていますが、マッキーが「真理にこだわることはさほど重要ではない」と明示的に述べているわけではありません。

* むしろ、彼は「真理」の不在を指摘しつつ、倫理的規範や判断が人間の社会や実践の中で果たす役割を重視します。彼にとって、倫理は客観的な真理ではなく、人間が「発明する」ものであり、社会的協力や個人のニーズに応じて構築されるものです。この意味で、客観的な「真理」にこだわることよりも、倫理的規範の実践的機能や有用性に焦点を当てることが重要だと考えていると言えます。

* 彼は倫理における「真理」の追求が形而上学的に問題含みであると考えます。特に、『倫理学:道徳を創造する』(Ethics: Inventing Right and Wrong, 1977)の「奇妙さからの論証」(argument from queerness, 原書pp. 38-42)では、客観的な道徳的真理が存在するためには、通常の科学的・経験的事実とは異なる「奇妙な」性質が必要だとし、そのような性質は存在しないと結論づけます。このため、倫理的真理を追求すること自体が、哲学的に見て生産的でないとみなす傾向があります。

* ただし、マッキーは倫理的議論や規範の構築を無意味だと考えるわけではありません。彼は、倫理的規範が人間の社会的実践の中で有用であり、特定の目的に役立つ限り、価値があると考えます。したがって、「真理」にこだわることよりも、倫理的規範がどのように機能し、どのような結果をもたらすかに重点を置いていると言えます。

さて、本書に戻りましょう。

「真理にこだわることよりも大切なことがあると主張した論者として、リチャード・ローティがいます。」
彼は『偶然性・アイロニー・連帯』の中で、「正解探しなんかよりも、誰かが困っているのではないか、彼らをどうすれば助けられるか、ということに対する感受性を持とうとする方がずっと重要なのです。」と述べます。
「(中略)真理かどうかにこだわるのをやめれば、私たちは自分の考えが絶対に正しいという考えを離れることができます。」
「また、このことは同時に、常識と言われるものに疑いを抱く姿勢にもつながります。」
「現在可能な限りでより良い考えを生み出そうという希望を抱くのです。」
「より重要なこととして、私たちは、自分たちと自分たちの世界の偶然性と傷つきやすさを意識するようになります。」
「・・・ローティに言わせれば、重要なのは、まず、真理や正解にこだわるのをやめること、たとえ自分自身の言葉であっても、常に決定的なものとは考えないことです。その上で、謙虚に他人の言葉や様々な書物などから学びながら、今の自分から手の届く範囲の人々の間で「連帯」を結んでいくことこそもっとも大事、となります。」

* 「困っている人を助ける」、「こだわりをやめる」、「常識を疑う」、「謙虚」、「連帯」と口当たり良い単語が並びますが、これはひとつ間違えば、「あまり深く考えず、他人から聞いた〈良さそうなこと〉を仲間とやっていけばよい」というメッセージに受け取られません。ローティーは本当にこんな適当なことを言っているのでしょうか。

* ローティは、伝統的な哲学が追求してきた「客観的真理」—つまり、言語や信念を越えて独立に存在する絶対的な真実—を否定します。彼は、真理は人間の言語、文化的文脈、歴史的状況に依存する「社会的構築物」であり、客観的で普遍的な基準によって測定されるものではないと主張します。

* ローティにとって、真理は「信念の正当化(justification)」の問題であり、あるコミュニティや語彙(言語的枠組み)の中で受け入れられている信念の集合にすぎません。彼は、「真理」という概念を追求することよりも、特定の信念が実践的にどのように機能し、どのような社会的・個人的目的に役立つかに焦点を当てるべきだと考えます。

* ローティは、プラグマティストの真理を「役に立つもの(what works)」として捉えます。『偶然性、アイロニー、連帯』で、彼は真理を「最終的な語彙(final vocabulary)」に依存するものとし、語彙自体が歴史的・文化的に偶発的であると述べます。したがって、真理を絶対的な基準として追求することにこだわるのは無意味であり、むしろ信念が実践的な結果や社会的連帯にどう貢献するかに注目すべきだと考えます。

* 『哲学と自然の鏡』では、ローティは伝統的な哲学が「自然の鏡」として世界を正確に反映する知識を追求してきたことを批判し、こうした「基礎主義(foundationalism)」を否定します。彼は、真理を客観的な基準で測定する試みよりも、異なる語彙や信念体系間の「会話(conversation)」を重視します。この点で、「真理」にこだわることは、哲学的議論を硬直化させるだけであり、さほど重要ではないとみなします。

* ローティは、倫理的・道徳的問題においても、客観的な真理を追求するよりも、連帯や共感を通じてより良い社会を構築することに重点を置きます。『偶然性、アイロニー、連帯』では、道徳的規範は「我々の語彙が我々に許す範囲での最善の希望(the best we can do with the vocabularies we have)」として形成されると述べ、真理よりも実践的効果を重視します。

* また話は戻ってしまいますが、the bestというと聞こえがいいですが、たとえばあなたと私のthe bestが異なる場合、ローティの「実践的効果」って何だろうということにはならないのでしょうか?正直言いまして、ローティーを本格的に読んでおりませんので、ローティの哲学についてこれ以上言及するのはやめようと思います。しかし、一つ間違うと本書で紹介されているローティーは、私が前回の投稿『なぜ花を折ってはいけないのか?』で指摘した人たちと変わりがないように思えてしまいます。

また、本書に戻ります。ローティに対して、「真摯に真理を探究し、他者にも誠実に真理を告げようとすることが、結果として、自分自身を信頼に足るものとし、アイデンティティを確立したものにしていくことにつながる」という主張が紹介されます。その代表がバーナード・ウィリアムズです。

* 話は逸れますが、昨年の夏ベルファスト(英国領)を旅した時に、ある作家と知り合いになりました。翌日ベルファストからアイルランドのダブリンに向かうバスでまたまた彼と一緒になり、車中私たちはバーナード・ウィリアムズやアリストテレスについて(英語で)語り合ったのです。バーナード・ウィリアムズのYouTubeも教えてもらいました。いい思い出です。

本書から引用します。

「一方で真理を求め、他方で真理を疑っているのが、私たちの置かれた状況です。そして、この状況をどのように考えればいいのかが、今日の哲学の根本的な問題である、と彼(ウィリアムズ)は述べました。」

* ウィリアムズは、真理を追い求めることが人間の知的・道徳的活動において根本的に重要だと考えていました。彼は、現代社会において真理や真実性が軽視されたり、相対主義や懐疑主義によって脅かされたりしている状況を憂慮していました。ウィリアムズは、真理を追求する姿勢は単なる知識の獲得にとどまらず、個人の誠実さや社会的な信頼を支える基盤であると主張しました。

* 彼は、真理の追求を「真実性(本書では「信実」と訳されています)(truthfulness)」という徳性と結びつけ、これを文化や歴史の中でどのように発展してきたかを、ニーチェ流の「系譜学(genealogy)」的手法を用いて分析しました。ウィリアムズにとって、真理を追い求めることは、単に事実を知ることだけでなく、真実を語る勇気や誠実さ、そして他者との関係における信頼を維持する努力を意味します。彼は、真実性が社会のコミュニケーションや倫理的実践の基盤であると強調しました。

* また、ウィリアムズは、絶対的な真理の存在を疑うようなポストモダン的な懐疑主義に対して批判的でした。彼は、真理が文脈や視点に依存する側面を認めつつも、真理への志向がなければ知識や議論が成り立たないと考え、真理を追求する姿勢を擁護しました。

* ウィリアムズは、truthとtruthfulnessを明確に区別しました。

Truth(真理): これは客観的な事実や現実に合致する命題や信念を指します。ウィリアムズにとって、真理は特定の文脈や分野(例えば科学、歴史、日常会話)において、何が本当かを判断するための基準です。ただし、彼は真理が単純に「絶対的」なものとして存在するわけではなく、文化的・歴史的文脈の中で形成されると考えました。

Truthfulness(真実性): これは、人が真理を追求し、誠実に振る舞う態度や徳性を指します。
真実性には二つの主要な要素があります:

正確さ(accuracy): 事実を正しく把握し、誤りを避ける努力。
誠実さ(sincerity): 自分が信じることを正直に表現し、嘘やごまかしを避けること。

* ウィリアムズは、真実性は単に事実を述べること以上の意味を持ち、個人の道徳的責任や社会的な関係性に深く関わると考えました。たとえば、嘘をつかないことや、誤解を招くような情報を意図的に隠さないことは、真実性の実践の一部です。

* ウィリアムズは、真実性が社会の中でどのように機能するかを、歴史的・文化的な例を通じて考察しました。たとえば、近代科学の台頭や啓蒙主義が真理の追求を促進した一方で、政治的なプロパガンダやポストモダンの相対主義が真実性を脅かす例を挙げています。彼は、真実性を維持することは、個人の誠実さだけでなく、民主的な社会や知識の共有を支えるために不可欠だと主張しました。

本書はウィリアムズの記述を以下のように締めくくります。

「元来、原理的には、自他からの信頼に値するということを通して、道徳的なものとつながりを持っていたはずの真理へ向けた信実という態度は、本当の自分という考え方の登場によって、一気にうさんくさいものとみなされるようになったのです。」

この後本書では、チャールズ・テイラーの「本当の私」という概念が検討されます。テイラーは、他者との出会いこそが「本当の私」を発見する契機だと述べます。

本書から引用します。

「自分自身が褒めてほしいところだけを的確に空気を読んで褒めてくれる人たちとだけ付き合っているのでは、現在の自分の自己理解が自分の願望に基づいて塗り固められていくだけで、自分の本当の良さに気づくこともできません。」

* これは私も日頃から思っていることです。思想・信条が同じ仲間との「お勉強会」をするだけでは、「本当の自分」は見出されません。あえて自分とは意見の異なる、自分の思い通りにならない人と交流することが大切です。

本章ではさらに、ミランダ・フリッカーの『認識的不正義』が取り上げられますが、本題からは逸れるので、ここでは省略します。『認識的不正義』は重要な著作ですので、いずれここで取り上げます。

本書からもう少し引用していくます。先ほどのテイラーの考えを別の言い方で述べています。

「他者とかかわるときも自分を褒めてくれる人のみと付き合い、誠実に自分の欠点を指摘してくれるような人を遠ざけてしまいます。それは結果として、自分自身を見つめ、認め、作り上げていく契機を失うことを意味します。」
「自分の存在を過大に見積もり、自分は絶対的に正しいという空想に生き、それを他者にも平気で押しつける、そのような姿勢は、結局のところ、真理にこだわるのであれ、そうでないのであれ、認められるものではないのです。」

著者による本章のまとめです。

「(ローティとウィリアムズに代表される)二つの考え方は真理へ向けるべき態度という点では鋭く対立していますが、共通している点もありました。自分は弱く傷つきやすい人間である。自分一人では自分らしさを見出すことはできない。表現は違えども、両者は自分を一人で完結した完全な人間であるとみなすという歪んだ幻影を脱し、不完全な自己を直視するという要素をもっています。答え方は違っていくとしても、倫理の問題に向き合う態度は、まずはここから始められねばならないのではないでしょうか。」

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です