「学問」というものの片鱗にふれるたび、表題のような印象を抱くようになりました。
(もちろん自分自身に対しても、そう感じています。)
前半である今回は、このサイトを立ち上げてから定期的に行ってきた新書の紹介について感じたことを書いていきたいと思います。
私の当初の計画としては、哲学や倫理に関する新書をできるだけバランスよく、できれば著者よりもさらにわかりやすい形で紹介するというものでした。
まず、なぜ新書なのかということですが、このサイトをご覧になる方のほとんどは、哲学や倫理を研究されているわけではなく、まるで関心もない方もおられるであろうからです。哲学の「原典」(翻訳も含む)は、簡単な要約を許すような代物ではなく、また「研究書」は「原典」を読んでいることが前提となっていることが多く、一般向けの紹介には適してはいません。
ところで、最近の哲学系の新書は若手の研究者が執筆していることも多いです。それが何を意味するかと言いますと、博士論文を単著にして出版したばかりの気鋭の学者が、張り切って一般向けの新書を執筆するということです。すると、何しろ気鋭の若手ですから、前回の専門書には入れることのできなかった最前線の理論をなるべく包括的に紹介したくなります。
そうすると、最前線にいたるまでの過去から現在までの思想が、次から次へと紹介されることになります。それら一つ一つの思想はそれぞれ深い思索を要求しますので、丁寧に紹介することは新書では不可能です。よって知識は羅列されるが、個別の議論は省略されることになります。
私が言いたいことは、そうして羅列された結果だけを「分かった」つもりになって「お勉強」してはダメだということなのです。(ましては、それで人を啓蒙しようと考えてはならないのです。)
なぜダメなのか。それは、そういう結果を生んだプロセスを自分の頭で時間をかけて考え抜いていないからです。
新書などで得た知識だけで何かを語るのが危険な理由をまとめてみます。
(1) 新書は一般向けに書かれており、複雑な内容を簡潔にまとめたり、著者の視点や編集方針で情報が取捨選択されることがあります。そのため、原典のニュアンスや詳細が省略されたり、特定の解釈に偏る可能性があります。
(2) 新書は二次資料や三次資料に基づいている場合が多く、原典の正確な内容から離れている可能性があります。原典を確認しないと、事実誤認や誤解を基に語ることになり、議論の信頼性が損なわれます。
(3) 原典には、歴史的・文化的背景や著者の意図が含まれることが多いですが、新書ではその文脈が省略されることがあります。文脈を無視した解釈は、元の意味を歪め、誤った結論を導く危険があります。
(4) 原典に当たらず新書だけに頼ると、著者の主張をそのまま受け入れる傾向が生まれ、独自の分析や批判的思考が育まれません。これにより、表面的な理解にとどまり、深みのある議論が難しくなります。
(5) 新書が原典を基に書かれた二次資料であれば、原典から離れるほど情報が歪む「伝言ゲーム」のような現象が起こります。原典を確認することで、この歪みを防ぎ、より正確な知識を得られます。
「原典にあたる」ことの重要性が再認識されますが、そうは言っても、たとえばカントの義務論を勉強するために『純粋理性批判』を読まなければいけないとしたら、3年かかってしまうかもしれません。たいていの人にはそれは無理なので、せめて「(翻訳でも)原典の抜粋にあたる」、「その新書以外の入門書にも目を通す」ことくらいは最低やっておくべきだと考えます。
さて、(4)の「批判的思考」とは何でしょうか。この場合の「批判」とはもちろん「誰かを批判する」という意味の批判とは異なります。「批判的思考」の特徴を整理しておきましょう。
(1) 著者の主張や結論に対して「なぜ?」「本当にそうか?」と疑問を抱き、根拠や前提を検討する。
(2) 著者が提示する証拠やデータの信頼性、妥当性を判断する。
(3) 著者の意図、背景、時代や文化的文脈を理解し、それが内容にどう影響しているかを考える。
(4) 主張の論理的な一貫性や矛盾の有無をチェックする。論理の飛躍や感情的な訴えに惑わされない。
(5) 異なる視点や反対意見を想像し、テキストを多面的に評価する。自分のバイアスにも注意する。
(6) メモを取ったり、疑問点を書き出したり、テキストと対話するように能動的に読む。
著者が新進気鋭の研究者でも博士課程の学生でも、すべてを崇拝したり妄信してはいけません。自分が感じた「違和感」を大切にし、それを考え抜いて言語化しなければいけません。
これは新書の紹介に限った話ではなくて、読書会その他でも、参加メンバーが発表者に対して「違和感を言語化」していないようなものは、ただの「お勉強会」になってしまうと私は思っています。
さて、私がこのサイトで新書を紹介する際に、上記の点を意識して取った方策は何かと言いますと、
「亀のように読む」という戦略です。
哲学においては、速読術など意味がありません。ノートアプリに自分の疑問や、重要なポイントを抜き書きしておいて、「寝かせておく」。そして、ことあるごとに考えるのです。それが果たして少しは成功しているのかしていないのかは、自分ではわかりません。
「批判的思考」をするために大切なもう一つのことは、「党派性を持たない」ということです。
党派性を持つこととは、つまり特定の政治的・イデオロギー的立場に強く固執することです。
党派性を持つと思考は紋切型になり、往々にして発言はただのアジテーションになります。
具体的には、思索や判断のプロセスにおいて以下のような危険な点を引き起こします:
(1) 客観性の欠如
党派性は、事実や証拠を公平に評価する能力を損ないます。自分の所属するグループやイデオロギーに都合の良い情報だけを受け入れ、反対の意見やデータを無視・歪曲する傾向が生じるのです(確証バイアス)。
(2)視野の狭窄
党派的な視点に固執すると、多様な視点や代替案を検討する機会が減ります。これにより、問題の全体像を見失い、創造的または包括的な解決策を見つけにくくなります。
(3)対話の阻害
党派性は、異なる意見を持つ人々との建設的な対話を困難にします。相手を敵視したり、意見の相違を個人的な攻撃とみなしたりすることで、相互理解や妥協が難しくなるのです。
(4)極端化と分断の助長
党派的な思考は、グループ内でのエコーチェンバー(同じ意見が反響し合う環境)を強化し、極端な立場や分断を助長します。これにより、社会的・政治的な対立が深まり、協力や合意形成が困難になるのです。
(5)事実の歪曲と誤った判断
党派性によって、事実よりも感情や忠誠心が優先される場合、誤った結論や非合理的な判断に導かれやすいです。これは、政策や社会問題に対する効果的な解決策を妨げます。
(6)学習と成長の停滞
党派性は、新しい情報や視点を受け入れる柔軟性を奪います。自分の信念に反する証拠を拒絶することで、知識の更新や自己改善の機会を失うのです。
(3)は非常に大切です。
たとえばあなたが「夫婦別姓」を主張するとしましょう。その時に「夫婦別姓」を支持する仲間とだけ集っていてはダメなのです。たとえ自分の考えが誤解されて不愉快な気持ちになる可能性があるとしても、あえて夫婦同姓論者とディスカッションする機会を持とうとするべきなのです。