今回の話はかなり抽象的です。おまけに私見を散りばめます。

お読みになって、「これは違うな」とお感じになれば、ぜひその「違う点」を指摘いただければ幸いです。しかし、自分の意見と違っても、けっして「お怒り」にはならないようにお願いします。

(その2)の最後で、なぜ「ファースト」が支持を集めやすいかという問題提起がなされました。
それに対して、「人間は進化の過程で生存確率を高めるため、脳が報酬系を活性化するように進化したからだ」という仮の結論を書いておきました。

しかし私はこの仮の結論よりもより本質的な理由が存在すると考えています。
それについて本稿の(その1)の最後でこう書きました。

「「日本人」という概念は曖昧で不安定であるがゆえに、排他的になる要素を内在的に秘めていること、我々の心から完全にその排他性をなくすことは相当に困難であること、それにもかかわらず社会としてはそのような排他性や差別は一切許容されないこと、などについて検討される予定です。」

「日本人」という概念をもう少し抽象的に〈自己〉や〈国家〉という概念で考えてみます。
「〈自己〉や〈国家〉という概念が不安定であるがゆえに排他的になる」とはどういうことでしょうか?

人間は、〈自己〉や〈国家〉のアイデンティティが不安定である場合、自身の存在や価値を明確にするために、外部の他者や集団を「他者化」し、差別や排他的な態度を取ることがあります。〈自己〉と〈国家〉それぞれのメカニズムは、以下のように説明されます。

「自己アイデンティティの強化」
自己や所属する集団のアイデンティティが曖昧または不安定であるとき、他者を「異なるもの」「脅威」と定義する(=他者化する)ことで、自身のアイデンティティを相対的に強化しようとする心理が働きます。

「国家アイデンティティと排他性」
国家の場合、特に歴史的・政治的な不安定さや外部からの脅威が感じられる状況では、国民の結束を高めるために「共通の敵」を作り出すことがあります。例えば、ナショナリズムの高揚や外国人排斥の動きは、国家のアイデンティティを強化する手段として機能することがあります。

国家や社会集団においては、この排他性が繰り返される現象が見られます。これは、強迫神経症の「儀式」に似た形で、集団のアイデンティティや結束を維持するために、特定の他者に対する排他的な言説や政策が繰り返される形で現れます。以下のような例が考えられます。

「歴史的繰り返し」
特定の国家や社会が、危機や不安定な時期(経済不況、戦争、テロなど)に、繰り返し「外部の敵」を作り出して団結を図ります。例えば、ナショナリズムの高揚や排外主義的な政策が、歴史的に何度も繰り返されるケースです。

「社会的儀式としての排他性」
強迫神経症の儀式が個人の不安を軽減するように、集団も排他的な言動を繰り返すことで「我々 vs 彼ら」の枠組みを強化し、集団のアイデンティティや結束を保とうとします。これは、政治的リーダーやメディアが特定のグループを「脅威」と繰り返し描くことで強化されることがあります。

「自己強化ループ」
排他性が一度社会に根付くと、それが文化や政治の一部となり、繰り返し再生産されます。例えば、特定の少数派への差別が「伝統」や「常識」として正当化され、世代を超えて繰り返されるのです。

一方、排他性には強迫神経症と異なる点も存在します。

・ 排他性の場合は、社会的に正当化されるため、個人や集団がその問題性を認識しないことが多いです。
・ 排他性の繰り返しは、歴史的・政治的・経済的な文脈に強く影響されるため、より複雑な要因が絡みます。
・ 社会的排他性の「強迫的」繰り返しは、薬物療法や心理療法では治療できません。

現代では、ソーシャルメディアや政治的ポピュリズムが、排他的な言説を増幅し、繰り返し再生産する傾向があります。例えば、特定のグループに対する敵対的な言説が、ネット上で拡散され、集団的な「不安の儀式」として繰り返されることがあります。これは、強迫神経症の反復行動が個人の安心感を一時的に高めるのと似て、排他的な言動が集団の結束やアイデンティティを一時的に強化する役割を果たします。

このような排他性や差別は、短期的にはアイデンティティを強化するように見えても、長期的には対立や分断を深め、さらなる不安定さを招くリスクがあります。また、グローバル化や多文化主義が進む現代では、こうした排他的な態度は社会的な調和や協力を損なう可能性があります。

では、このような「強迫的」排他性を打破するにはどうしたらよいのでしょうか。以下のような方法が考えられます:

・ 多様性を受け入れる教育や、異なる集団間での対話を通じて、排他性のループを断ち切ります。
・ 個人や社会の不安定さ(経済的格差、アイデンティティの危機など)を軽減する政策や支援を実行します。
・ メディアやリーダーが排他的な言説を増幅しないよう、倫理的な情報発信を促します。

ここからが、議論を呼びそうですが、私はそれでもこの排他性は完全には根絶できないと考えています。

さらに言いますと、これらの排他性を否定することが本当に「倫理的なこと」であるのかも疑問であると思っています。なぜならこの排他性は人間の「本質」に他ならないからです。

一部の功利主義者や効果的利他主義者たちは、「自分の家族も、見知らぬ国の難民も人間としては同じなのであるから、同じように大切に思うべきだ。」と主張します。彼らによれば、自分の国を大切にする人、自分のコミュニティを大切にする人、自分の家族を大切にする人、自分を大切にする人は「倫理的に正しくない」のです。

私の意見は違います。

私は、普通の人間が、見知らぬ他人について「自分」や「自分の家族」と同じように「感じる」ことは不可能だと思っています。今回の言い方で言えば、誰もが「自分ファーストに感じること」は自然であり、それは否定できないと思います。

ただ、「自分ファーストに感じること」と「自分ファーストにふるまうこと」は違うんだよ、というのが私の意見です。
誰もが自分が大切なのだから、そこである程度すべての人が「自分ファースト」にふるまえるように、「公共的に」その制度を整備する必要があるのです。そこに一方的な力関係があってはいけません。

ここでアイン・ランドの唱えるselfishnessを想起する方もおられると思います。これはオブジェクトヴィズム哲学に根ざした概念で、合理性、客観的現実、個人の自由を基盤とし、利己主義は倫理的義務として体系化されています。selfishnessについてはまた機会を改めて論じたいと思います。

私はカントのように「私の中の道徳律が、すべての人の道徳律になるべき」とは考えていませんし、功利主義者の「最大多数の最大幸福」はあくまでも公共の場の倫理であって、それが己の心の中を侵食して良いとも考えていません。

つまり、私は、個人の内面の「倫理」と、公共の場の「倫理」は常に相反する関係にあり、これを同列に論じているすべての倫理の議論は問題を正しくとらえていないと考えています。ですから「自分ファースト」でありながら「利他的」である道を探っているのです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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