今回は、『今を生きる思想 マルクス 生を呑み込む資本主義』(白井聡、講談社現代新書)の【第2章】の前半をご紹介します。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「  」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「プロレタリア」のように、ある用語に「  」を使用することがあります。)なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」「感想」や「研究」です。

【第2章 『資本論』の世界】

この章では『資本論』のエッセンスが紹介されるのですが、著者はまず「マルクスが資本主義を分析するにあたって、その最小単位、(中略)、を「商品」(commodity)に見定めたこと」に注目します。

「古典経済学が、富がもっぱら商品として現れている、ということの意味を考察しなかった」というのが、マルクスの言いたかったことです。

本書から引用します。

「単に商品経済が存在する、貨幣が使用されているという事実をもってその社会を資本主義社会であると見なすならば、(中略)そのとき、資本主義は「自然」であることになる。」
「すなわち、「富一般=商品」と見なすことは、この等式が資本主義社会に特有のものであることを見落としており、それにより資本主義社会を「自然化」している。」

* マルクスは、経済学を単なる「富の分配」や「価値の源泉」の議論にとどめず、社会の生産関係を分析するものとして位置づけていました。古典経済学は資本主義を「自然で永遠のもの」と見なしがちでしたが、著者の言葉を借りれば
「「資本主義的生産様式の支配的である社会」は、人類の社会の常態なのではなく、歴史的に発生した特殊な、人間社会の在り方の一つにすぎない」のです。

* マルクスは以下の点で古典経済学を批判しました。

1.なぜ資本主義で富が商品化されるのか(例: 労働力が商品になること)を深く問わなかった。
2.商品形態は資本主義の「フェティシズム」を反映しているのに、それを無視した。
3.使用価値と交換価値の区別を明確にせず、資本主義の搾取メカニズムを十分に解明できなかった。

それでは、資本主義社会の基準とは何でしょうか。
著者によればそれは、「労働力と土地の商品化」およびそれに伴う「賃労働の発生」です。

本書から引用します。
「こうして生まれた賃労働から、資本家は利潤を引き出す。」
「労働力の商品化を通じた収奪(=搾取)という現象は、資本主義に特有のものである。」
「労働力商品と賃金の交換は、外見上「自由」意志に基づき等価である。」

この「自由」という語をめぐって、マルクスの言う「二重の意味で自由」に言及されます。

「第一には、身分制的束縛から解放された自由人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味での自由であり、第二には、生産手段から自由である、すなわちそれによって生計を立てることのできる生産手段を持たないという意味で自由である、ということだ。」

* この「二重の意味で自由」について、少し詳しく研究してみたいと思います。
私の所有している大月書店『資本論1』(国民文庫)の297ページから引用します。

「自由というのは、二重の意味でそうなのであって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、他方では労働力のほかには商品として売るものをもっていなくて、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味で、自由なのである。」

* マルクスは資本主義を分析する際、商品経済の核心として「労働力の商品化」を位置づけます。労働力は他の商品同様、「使用価値」と「交換価値」を持ちます。ただし、労働力は人間の能力そのものであり、資本主義特有の歴史的条件で商品化されます。

* この文脈で、「二重の自由」は労働者が資本主義下で置かれる矛盾した立場を象徴します。自由であるがゆえに、強制的に労働力を売らざるを得ない、という逆説です。

* 「二重の意味で自由」をさらに詳細に分析してみましょう。

第一の自由: 生産手段からの自由(Frei von den Produktionsmitteln)

労働者は土地、機械、原料などの生産手段を所有していません。封建制や農民社会では、農民が土地を持って自給自足できましたが、資本主義では産業革命による囲い込みや資本集中により、労働者はこれらから「解放」されます。つまり、生産手段を持たない「自由」な存在です。
マルクスはこれを「強制された自由」と呼び、労働者が資本家に依存せざるを得ない構造を暴露します。結果として、労働市場での交換は「自発的」ではなく、生存のための必然となります。

第二の自由: 自分の労働力に対する自由な処分権(Frei über seine Arbeitskraft)

労働者は奴隷や農奴とは異なり、自分の労働力を自由に売買できます。つまり、人格的に自由で、契約に基づいて資本家と取引します。奴隷制では労働者が所有物ですが、資本主義では労働者は「自由な個人」として市場に参加します。
この自由は形式的なもので、平等な交換を装いますが、実質的には資本家の優位のもとで行われます。労働者は賃金を受け取りますが、資本家は労働力の使用を通じて剰余価値を搾取します。

この「二重の自由」は、資本主義の矛盾を体現します。一見、自由で平等な契約ですが、生産手段の独占(資本家側)と労働者の貧困が、搾取を必然化します。マルクスはこれを「商品交換の外見の下に隠された階級関係」と分析し、労働力の売買が資本蓄積の原動力になると論じます。

第二章前半のまとめとして、本書から引用します。

「以上から、マルクスにおける資本主義社会の定義を明確化することができる。それは、「物質代謝の大半を、商品の生産・流通(交換)・消費を通じて行う社会」であると定義できる。」

* ここで「物質代謝」(Stoffwechsel)という聞きなれない用語が出てきました。これは英語訳ではしばしばmetabolismと訳される概念です。また大月書店『資本論1』(国民文庫)の312ページから引用します。

「労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである。」

* これは、労働者が自然物を加工・変形することで、人間社会の物質的基盤を維持・再生産するプロセスを指します。この用語は、単なる生物学的代謝ではなく、社会的・経済的な文脈で拡張され、資本主義下での生産が自然との関係をどのように歪めるかを分析する基盤となります。例えば、資本主義ではこの物質代謝が商品形態を通じて媒介され、土壌の枯渇や環境破壊(後の研究で「代謝の亀裂」として発展)を引き起こす可能性を指摘しています。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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