今回は、『今を生きる思想 マルクス 生を呑み込む資本主義』(白井聡、講談社現代新書)の【第2章】(その2)をご紹介します。この章は「価値形態論」と「剰余価値」という非常に重要な論点が収録されておりますので、分割せざるを得ないのです。
細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「  」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「使用価値」のように、ある用語に「  」を使用することがあります。)なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」「感想」や「研究」です。

【第2章 『資本論』の世界】(その2)

本書から引用します。

「マルクスは、商品の有用性を「使用価値」と呼び、商品が売れる、すなわち交換されるときに実現する価値を「交換価値」と呼んだ。この二つの価値を帯びていることが、商品と富一般の差異なのである。」

* 使用価値が質的であるのは、それが商品の物理的・物質的特性や機能に依存するからです。使用価値は主観的(人々のニーズに依存)であり、特定の社会的・歴史的文脈で評価されます。

* 交換価値は、商品に内在する「価値」(労働時間による抽象的人間労働の量)に基づいており、質的な差異を抽象化し、量的な比較を可能にします。

* マルクスは、アダム・スミスの「労働価値説」を継承していますが、「価値形態論」では「単純な価値形態」から始めて貨幣の必然性が導出されます。貨幣は一見それ自体には価値がないように思えるにもかかわらず、人々に熱狂的に追い求められますが、マルクスはその魔力について分析を試みるのです。

ここで著書白井氏は重要な指摘をします。

「マルクスの展開した価値形態論は、商品の物々交換から貨幣が生まれてくる過程を物語っているかのように見えて、実は、すでに資本主義化した社会を前提とした議論であるととらえるべきだ。」
「(略)貨幣が現に流通しているという現実から遡及して見出される商品間の交換関係を展開したものが価値形態論である、と言えるのではないか」

* ここの部分は非常に難解ですが重要です。ゆっくりと読み進めたいと思います。

* マルクスの価値形態論は、商品の価値がどのように表現され、交換されるかを分析するものです。商品の価値は、その中に含まれる「労働」の量(使用価値や交換価値)に基づいており、貨幣は商品交換を仲介するものとして登場します。

* たとえば、現代の市場では、商品の価値は貨幣で表現されます(例:りんご1個=100円)。マルクスは、この現実を起点に、「なぜ価値が貨幣で表現されるのか」「商品同士の交換関係はどう構築されるのか」を遡って考えます。その結果、価値形態論は、商品Aの価値が商品B(や最終的に貨幣)で表現される仕組みを、段階的に説明するのです。

* したがって、価値形態論は、資本主義経済の仕組み(商品と貨幣の関係)を解明するための枠組みであり、歴史的発展の記録ではありません。

もう一度本書から引用します。

「「単純な価値形態」は、貨幣を用いてさまざまな売り買いをする際に人々が内面的に行なう価値の比較であると解することができる。」
「(略)マルクスは言う。(中略)この(「X量の商品A=Y量の商品B」という)等式のなかに、貨幣が発生し、さらには資本が発生する契機が存在するのだ、と。」

* 単純な価値形態の基本形は「X量の商品A = Y量の商品B」(例: 20ヤードのリネン = 1着のコート)です。
ここで、商品Aの価値が商品Bを通じて「相対的に」表現され、商品Bは価値の「等価物」として機能します。
実際の売り買いでは貨幣を介して無意識にこうした等式を考え、商品の価値を測っている、という意味です。

* この等式は、商品交換の基盤を示します。最初は物々交換ですが、繰り返すうちに一つの商品(例: 金)が「一般等価物」として貨幣に進化します。さらに、貨幣が商品を買って売る循環(貨幣 → 商品 → もっと貨幣)が生まれ、これが「資本」の起源となります。資本は価値を増殖させる仕組みです。

ここでまた重要なことが指摘されます。本書から引用します。

「しかしマルクスは、第一の商品=商品Aを「相対的価値形態」にあり、第二の商品=商品Bを「等価形態」にある、として区別する。」
「(略)「等価形態」にある商品が価値の鏡になるということが、貨幣が成立する契機となるのである。」
「また、両者の関係は、価値の表現ということにおいて結びついていると同時に、相互に対立しているともマルクスは言う。」
「(略)マルクスは、「一般的等価形態は価値一般の形態である。したがって、それは、どの商品にも与えられることができる。すなわち任意の商品が貨幣化することができる、と述べている。」
「だが、価値形態論が本質的な意味でホッブズ的論理に近づくのは、「総体的価値形態」から「一般的価値形態」へ移行するときにおいてであろう。」

* 以上の記述について、もう少し詳しく説明してみます。

* 「相対的価値形態(relative value-form)」とは、商品Aの価値を、他の商品(B)の使用価値の形で表す側にある位置です。例:「1着の上着 = 20エレのリンネル(布地)」この場合、上着(A)は自分の価値をリンネル(B)の形で表している ので、Aは相対的価値形態にあることになります。

「等価形態(equivalent form)」とは、他の商品(A)の価値を表す“鏡”として働く商品Bの立場を指します。上の例で言えば、リンネル(B)は上着の価値を映し出す鏡であり、「価値の等価物」として提示されているので、Bは等価形態にあることになります。

* 等価形態の商品は、相対的価値形態の商品が持つ価値を“見える形”で表します。これが「価値の鏡」という比喩の意味です。例:「20エレのリンネル」は、上着の価値を客観的に映すので、上着の持ち主も他人もその価値を「見える」ようになるのです。

* 貨幣の成立は、この「価値を等価物の形で安定的に表す」という仕組みが、全商品間で一つの商品に集中することで起こります。

* 「結びついていると同時に、相互に対立している」という部分についてですが、相対的価値形態と等価形態は、一つの価値表現の両側面です。片方がなければもう片方も成立しません。しかしその役割は非対称です。相対的価値形態は「自分の価値を他者の形で表す」立場であるのに対し、等価形態は「他者の価値を自分の形で表す」立場です。同じ商品が同一の価値表現内で同時に両方の立場には立てない、という構造的な対立があります。

* 「一般的等価形態は価値一般の形態である。したがって、それは、どの商品にも与えられることができる」について考えてみましょう。マルクスは価値形態の発展を次のようにたどります:

  1. 単純な価値形態(1着の上着 = 20エレのリンネル)
  2. 拡大的価値形態(1着の上着 = 20エレのリンネル = 1gの金 = 1石の小麦…)
  3. 総体的価値形態(全商品が特定の商品で自分の価値を表す)
  4. 一般的等価形態(一つの商品がすべての商品の等価形態になる)
  5. 貨幣形態(その“一つの商品”が歴史的に金や銀に固定される)

「どの商品にも与えられる」というのは、理論的には等価形態はどの使用価値にも宿りうる、ということです。歴史的には、それが最終的に金や銀に固定されたのが貨幣です。

* 引用の最後の「ホッブズ的論理」とは、彼の『リヴァイアサン』に代表されるような自然状態から唯一の主権者への権力集中の理屈です。総体的価値形態では、商品間の価値表現がバラバラで、各商品が他の多くの商品を通じて自分の価値を表しています(多極状態)。一般的価値形態では、その多極状態から唯一の商品が価値の等価形態として支配的地位を獲得します(単極状態)。この「多極 → 単極」の移行が、価値世界における「主権者の成立」と似ているため、「ホッブズ的論理」に近いと言っているわけです。この事態を本書では、「各商品は自己の価値を表現できることのできる安定した媒体を得るが、それと引き換えに、貨幣に全面的に服従することになる」と書いています。

この後本書では「商品の物神的性格」の記述へと進んでいきます。

「抽象的人間労働の産物である商品、そして商品の価値の結晶である貨幣、さらには資本が、あたかもそれら自身の生命を持って動き出すかのように見え、宗教的呪物と同様に人間を支配することが指摘されている。」

* 「商品の物神的性格」は「物神崇拝」、「物象化」とも訳される概念で、商品の価値が、あたかもその物自体の性質であるかのように見えてしまう社会的錯覚のことです。

* つまり、本当は商品の価値は、人間同士の社会的関係(労働の関係)から生まれているのですが、市場では、その価値がまるで商品の“自然な”性質のように見えるのです。その結果、人と人との関係が「物と物との関係」に置き換わって知覚されことになります。

* 例を挙げてみましょう。スマホの性能やデザインは、人間の労働(設計、製造、運搬、販売)で成り立っています。しかし新モデルが出ると「持っている人は時代の最先端」というイメージが生まれ、物自体に「ステータス」や「魅力」が宿っているように感じます。社会的評価や広告による意味づけという人間の関係や意識が、モノ自体の性質として見えてしまっているのです。

マルクスは「商品世界のこの物神的性格は(中略)商品を生産する労働の独特な社会的性格から生ずる」と述べます。
* 「独特な社会的性格」とは、労働の持つ「種類の違った物を通約できる」という性格です。

さらに興味深い指摘がなされます。

「貨幣は、(中略)、「商品間の社会契約」によって「社会的な力」を持ち、それを私有財産として所有すれば、「私人の私的な力」となる。」
「だが、貨幣退蔵者は、黄金神のために自分の肉欲を犠牲にする。」

* 「退蔵する」は、価値のある物を使わずに、しまい込んで使わない状態を指します。

* ここでの「肉欲」はもちろん比喩的な表現です。著者はこれを「それは、財の有用性を享受することではなく、抽象的な「価値」の蓄積へとすべての努力を振り向ける」ことであると説明しています。そして「重要なのは、この貨幣退蔵者の倒錯的欲望は、資本の欲望そのものであり、資本主義社会そのものの欲望になる、ということだ。」と結論づけるのです。マルクスの、今日の世界を予言しているかのような、凄まじい洞察力です。

ここで本書はヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に言及します。それはそれで面白いのですがここでは省略します。

今回は『資本論』最大の難所「価値形態論」についてふれましたが、いかがでしたでしょうか。多少は核心にふれているといいのですが。次回はいよいよ第2章の最終回です。「資本の定義」と「剰余価値」を扱う予定です。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です