今回は、『今を生きる思想 ジョン・ロールズ 誰も「生きづらくない社会」へ』(玉手慎太郎、講談社現代新書)の【第2章】をご紹介します。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「  」は原則引用部分です。(ただし引用でなくても、「無知のヴェール」のように、ある用語に「  」を使用することがあります。)
なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」「感想」や「研究」です。

【第2章 みんなが納得できる正義を見つけるー公正としての正義】

第1章の復習です。ロールズが解決しようとした問題は、「正義に単一の答えは存在しないにしても、正義は単一の形で共有されなければならない」という問題でした。

この問題に対してロールズが考えた方法の一つは、「唯一絶対の正義の代わりに、その社会の誰にとっても受け入れられる正義を探そう」というものです。言い換えれば、正義を「真理」としてとらえることができなくても「合意」があればいいではないか、という考えです。

* 何だか学校のホームルームの多数決みたいでちょっと釈然としませんが、考えてみると日本のような「平和な」国と、「弱肉強食の」アメリカとでは、問題意識も異なるのでしょう。

著者は、「どのように合意したのかが「合意」という行為にとっての大事なポイントです」(無理矢理合意させるなどは不可ということです)、「そもそも正義については、合意を得ること自体はじめから不可能なのではないか」と指摘します。

普通では合意に至るのは困難なので、ロールズは以下のような斬新な提案をします。すなわち、

「人々が自分のおかれた立場について何も知らない状況で正義について検討したならば、どのようなルールを求めるだろうか、ということを考えてみよう、と提案するのです。」

このような〈無知のヴェール〉の下では、人々は「いかなる立場であっても受け入れられるようなルールを選ぼう」とするのです。この仮説的検討によって正義の原理が決定される状況を、ロールズは「原初状態」と呼びます。

* 「無知のヴェール(veil of ignorance)」という思考実験について、補足します。

* 「無知のヴェール」の下では、人々は自分が属する社会での 個別的な立場や属性を一切知らない 状況に置かれます。たとえば、以下の情報が隠されているとされます:「自分の性別・人種・年齢」「家族の地位や財産」「才能や能力」「宗教や価値観」「社会的階級や職業」「どの世代に属して生まれるか」

* この状況でロールズは、人々が次の2つの正義の原理を合理的に選ぶだろうと考えました。

1.自由の平等原理:すべての人が平等に基本的自由(言論・信教・結社など)を持つべきである。
2.格差原理(差異の原理):社会的・経済的な不平等は許されるが、それはすべての人に開かれた機会の平等のもとで生じ、特に最も不遇な立場にある人々に最大の利益をもたらす場合に限られる。

* ロールズの「公正としての正義」とは、誰にとっても不公平にならない制度を想定し、その基準を上記の原理で定式化した理論です。

* 「無知のヴェール」は現実的な状況を再現するものではなく、直観的に「公平」と思われる制度設計を哲学的に裏づける方法論ですが、以下のような批判もあります。

1.アマルティア・センやマルクス主義者からは「実際の社会的不平等を軽視している」という批判。
2.「無知のヴェール」の想定自体が西洋的・個人主義的前提に依存している、という文化的批判。

* ここまで読んで、私が一番感じたことは、「無知のヴェール」はたしかに面白い実験ではあるが、実際の人間はロールズの考えたように行動しないのではないか、ロールズは、〈欲望〉や〈力」と言ったものを軽視しているのではないか」ということです。実際、現実の人間がそのように「公正に」振る舞うかどうかは、大きな議論の対象となってきたようです。

* ロールズは、人間の「欲望」や「権力闘争」を否定しているわけではありません。彼が問題にしたのは「現実の力関係に引きずられた社会契約」では、正義を確立できないという点です。つまり、「無知のヴェール」は現実描写ではなく、規範的な基準を打ち立てる道具なのです。

* ロールズにたいする代表的な批判を挙げます。

1.リアリズム的批判:政治は常に力や利害のぶつかり合いであり、理念的な「無知のヴェール」は非現実的だ、という立場。マキャヴェリやホッブズ的な伝統からすると、ロールズは人間性の「闘争性」を軽視していると映ります。
2.マルクス主義的批判:階級や経済構造という現実の権力関係を迂回して「公正」を語るのは、むしろ支配的秩序を温存する。つまり「ヴェール」によって現実の搾取関係を覆い隠してしまう、という批判です。
3.心理学的・行動経済学的批判:実際の人間はロールズが想定するような冷静で合理的な「契約当事者」ではなく、偏見や短期的利得に強く左右されます。無知のヴェールのような「純粋な理性の演算」は、実際には不可能ではないか、と考えられています。

* ロールズはこうした批判をある程度予期しており、次のような補足をしています。

1.「無知のヴェール」はあくまで規範的な基準であり、現実の人々にそのまま行動を要求するものではない。
2.実際の制度設計においては、この基準を参照点にして「どのような制度が公正に近いか」を評価するために使えばよい。

以上の点に関して、本書でどのように評価しているか、引用します。

「ロールズは、無知のヴェールの下で正義のルールを導出する、という自らの正義の構想のことを、「公正としての正義」と名付けています。」
著者は「公正としての正義」が正義の原理そのものではなく、正義の原理を見つける方法であることを強調します。

「公正としての正義」を著者は「このように公正さを重視する、社会契約論を現代的にアップデートしたアプローチ」ととらえるのです。このようなアプローチから、どのような特徴が導かれるでしょうか。

著者はまず「差別は認められない」ということが導かれると述べます。なぜなら、無知のヴェールの下で正義の原理を決定するという枠組みは、一部の人に不利益をもたらすルールが選ばれることはありえないからです。
次に著者は「公正としての正義は、党派性に基づいて提案されているものではない」という特徴を挙げています。これは第三章以降で詳しく検討されるそうですので、ここでは省略します。

さらに著者は「もし政治的な問題について無知のヴェールの下で決定するのであれば、話し合いも投票も必要なくなってしまうのではないか」という疑問を取り上げ、それに対して「心配は不要だ」と述べます。なぜならば、「ロールズの議論はあくまで、社会の基礎構造をめぐるものであった」からです。

最後に著者が取り上げる疑問は、「誰の立場からでも納得できるルールにしよう、というのはたしかによい考え方だと思うけれど、それは理想的にすぎるのではないか」という疑問です。
(先ほど私が述べた疑問に近いと思います。)

これに対して著者は逆に「(ロールズは)ある個人にとって理想的な社会を追求することははっきり放棄します。そうではなく、誰にとっても生きづらくない社会を追求するのが、ロールズの「公正としての正義」の試みなのです。」と述べます。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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