今回は、『現代思想入門』(千葉雅也、講談社現代新書)の【はじめに】と【第一章】をご紹介します。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「  」は原則引用部分です。
(ただし引用でなくても、「差異」のように、ある用語に「  」を使用することがあります。)
なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」「感想」や「研究」です。

* この本で扱っている「現代思想」とは、1960~1990年代のいわゆる「ポスト構造主義」、その中でもデリダ、ドゥルーズ、フーコー(本書の登場順)です。

* 今までの新書のご紹介と今回は、多少雰囲気が異なると思います。なぜならば私は今から40年以上前に、まさに彼らのテキストと格闘して?いたからです(翻訳ではありますが)。ですから、今回は「40年ぶりに訪れた故郷の街がどう変化したか」のようなノリで語りたいと思います。

* しかし、読む前から何ですが、この分量でデリダ、ドゥルーズ、フーコーを語れるわけもなく、(以前フーコーの短い紹介でも6回くらいかかりました)、彼らに共通するある種の〈雰囲気〉だけ皆様に感じていただければよいのではないかと思います。

* 入門書とはいえ、千葉雅也氏の本を読むのも初めてですので、楽しみです。

【はじめに 今なぜ現代思想か】

冒頭で著者は次のような問いかけをします。「今なぜ現代思想を学ぶのか。」

暫定的な解答は以下のようなものです。
「現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。」

そしてこれは次のような表現でも言い換えられます。

「現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。」
「二十世紀の思想の特徴は、排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定したことです。」

* 「ポスト構造主義」のキーワードは「差異」でした。私事ですが、今から40年前職場で「差異、差異」と繰り返していたために、自分の結婚式の来賓挨拶で「差異」の○○さん」と紹介されてしまったくらいでした。

* 「ポスト構造主義」と本人たちが自称していたわけではありません。千葉氏は、「いったん徹底的に既成の秩序を疑うからこそ、ラディカルに「共」の可能性を考え直すことができるのだ、というのが現代思想のスタンスなのです。」と述べます、

* デリダ、フーコー、ドゥルーズに共通するのが、「脱構築的な考え方」です。すなわち、「物事を「二項対立」によって捉えて、良し悪しを言おうとするのをいったん保留する」ということです、
実際に「脱構築」に直接言及しているのはデリダだけです。

【第一章 デリダ-概念の脱構築】

* 私の個人的な詳しい思い出は、デリダ単独の本を解説する際に語りたいと思いますが、私の大学時代はおそらく最初のデリダ・ブームで、デリダ自身も来日しましたし(先輩の院生が京都を案内しました)、1年生の時の授業でもデリダ関係を受講した記憶があります。読書会でも『余白』に収録されることになるヘーゲル論「竪坑とピラミッド」を読んだりしていました。

本書から引用します。

「(同一性と差異の)二項対立において差異の方を強調し、ひとつの定まった状態ではなく、ズレや変化が大事だと考えるのが現代思想の大方針なのです。」
千葉氏は物事が一定の状態をとるという面を「仮固定」と呼び、こう述べます。
「こうした仮固定的同一性と差異のあいだのリズミカルな行き来が現代思想の本当の醍醐味である。」

さて、そうは言いましても、通常私たちは物事を「二項対立」で捉えてしまいます。
デリダはこのような状況をどのように「脱構築」したのでしょうか。本書から引用します。

1.まず、二項対立において一方をマイナスとしている暗黙の価値観を疑い、むしろマイナスの側に味方するような別の論理を考える。
2.対立する項が相互に依存し、どちらが主導権をとるのでもない、勝ち負けが留保された状態を描き出す。
3.そのときに、プラスでもマイナスでもあるような、二項対立の「決定不可能性」を担うような第三の概念を使うこともある。

* 以上は著者千葉氏によるまとめです。デリダ自身は体系的に「脱構築マニュアル」を示したことはなく、むしろ「そのような方法論的手順を固定化すること自体が形而上学的」だと警戒していました。

* デリダの議論を「現前」「再現前」というキーワードでまとめてみましょう。

1. 「現前 (présence)」とは、西洋哲学が長く前提としてきた考えで、「意味」や「真理」がその場に直接あらわれ、即時的に把握できるというイデアです。例えば、声や意識は「いま・ここ」に現れているので、文字よりも真理に近いとみなされてきました。

2. 「再現前 (re-présentation)」は、その現前をもう一度あらわすこと。文字や記号、記憶などは「本来的な現前」を写し直すもの、つまり二次的・派生的なものとされてきました。伝統的形而上学は「現前(声や意識)>再現前(文字や記録)」という階層を設けていたのです。

3. デリダの脱構築は、この「現前の優位性」を崩す試みです。文字や記録といった「再現前」も、実は現前を支える不可欠な条件になっています。つまり「現前」と思われていたものも、すでに「再現前」に依存しているのです。したがって両者をはっきりと区別して「一方が根源的」とすることはできないのです。この相互依存を示すことで、形而上学的な二項対立(現前/再現前、声/文字、真理/表象)を揺るがすのが、脱構築の基本的な働きです。

* 本書では、『散種』に収録されている「プラトンのパルマケイアー」が取り上げられていますので、デリダの議論の応用例として読んでみましょう。

* ギリシア語 pharmakon は「薬(治療するもの)」「毒(害を与えるもの)」「化粧/魔術的なもの」
といった、正反対の意味を含んでいます。プラトンは『パイドロス』で「文字(書き言葉)」を批判し、文字は記憶を弱める、本当の知は生きた対話=声の中にある、と述べます。ここで文字は「pharmakon(薬とも毒ともつかないもの)」として語られます。

* デリダはこの両義性に注目します。プラトンは「文字=毒」として退けようとするが、同時に「薬」として必要な役割も認めている。つまり、文字は単に「現前(声)」に対して劣ったものではなく、現前そのものを支える条件でもある。ここで「毒/薬」という二項対立は解体され、文字は「両義的な痕跡」として現れるのです。

* 要するに、パルマコンは、「一方が本質的に正しい」という形而上学的な二項対立を揺さぶる概念であり、「毒でもあり薬でもある」という多義性を通して、意味や価値の安定を不可能にするのです。

本書では、デリダが直接的な現前を〈パロール〉、再現前を〈エクリチュール〉に代表させていることにもふれられていますが、デリダの議論は少し複雑なので補足します。

  1. パロール(話し言葉/音声)=現前の代表
    西洋哲学の伝統では、〈声(パロール)〉は「主体の意識」と直結しているとみなされてきました。
    話すとき、意味は「いま・ここ」で現前しているように感じられます。プラトン以来、声は「自己の思考が自分に現れる最も直接的な形」とされ、文字より優位に置かれました。
  2. エクリチュール(書き言葉)=再現前の代表
    一方で、〈エクリチュール(文字・書き言葉)〉は「現前のコピー」だとみなされてきました。書かれた文字は、その場に話者がいなくても残ります。そのため、声=現前の「二次的な模写(再現前)」として位置づけられてきたのです。
  3. デリダの転倒と脱構築
    デリダはこの上下関係を問い直します。声も「完全な現前」ではなく、常に時間的な遅延や差異(différance)を含んでいる。文字は「派生物」どころか、むしろ「意味を成立させる条件」でもある。よって「声=現前/文字=再現前」という図式そのものが揺らぐのです。

* ここから、この新書ではふれられていない『声と現象』(1967)におけるデリダの議論について、少しだけ解説します。

* デリダは「自分の声を聴く」という行為を分析し、「現前の特権性」を議論しました。

  1. 「自分の声を聴く」という経験
    声を出して話すとき、人は同時に自分の声を「聞いている」のです。しかし、発話と聴取が同時に起こるため、意識は「自分の意味が即座に自分に現れている」と感じます。デリダが言う「自己の声の聴取(l’entente de soi dans la phoné)」は、西洋哲学において「意識の純粋な現前」のモデルとされてきました。つまり声は、「意味が媒介なしに主体に現れる」ように思える場とみなされていたのです。
  2. デリダの分析 ― 現前の裂け目
    デリダはここに着目して、次のように批判します。声を発するということ自体、時間的な遅延を含んでいる。発声は一瞬で消え、聴取は必ず「いまこの瞬間すでに過ぎ去りつつある声」を捉える。つまり「完全な同時性」は存在せず、声の自己聴取も痕跡的な「再現前」に依存している。
    自分の声を聴く経験は、実は「純粋な現前」ではなく、すでに差延(différance)に媒介されている。
  3. 脱構築への含意
    この分析が示すのは、哲学が「声」に託してきた「即時性・現前」は、実際には成立しない。「声」と思われたものも、すでに「文字」的であり、痕跡の構造に支えられている。したがって、現前と再現前の二項対立は根本から揺らぎ、脱構築されるということです。

千葉氏は以下のように述べます。

「二項対立でマイナスだとされる側は、「他者」の側です。(中略)それに対して、デリダの脱構築は、外部の力に身を開こう、(中略)、ということを言っているのです。」

ここで、このユダヤの思想によく見られる「他者の方へ」という方向性を持ったエマニュエル・レヴィナスという思想家が紹介されますが、レヴィナスの哲学はそれ自体巨大な存在ですので、ここで詳しい説明は省略します。

* デリダは『エクリチュールと差異』(1967)に収められた論文「暴力と形而上学」で、レヴィナスを取り上げています。これはレヴィナス哲学の「他者の優位性」と「形而上学批判」を称賛しつつも、その表現がいまだに「現前の言語」や「ロゴス」に依存してしまうと批判しました。

第一章の最後で、千葉氏は「脱構築的」な倫理を、以下のように書き表します。

「すべての決断はそれでもう何の未練もなく完了だということではなく、つねに未練を伴っているのであって、そうした未練こそが、まさに他者性への配慮なのです。」

* この議論を簡単に解説すると以下のようになります。

1. デリダは「決断(décision)」を、単なる理性的な選択ではなく、常に不確実さや揺らぎを含んだ行為だと考えます。完全に根拠づけられた「正しい決断」などは存在せず、どんな決断にも、決めきれなさや残余(未練)がつきまとうのです。

  1. 千葉氏が「未練」と呼ぶのは、決断によって切り捨てざるをえなかった他の可能性や、応答できなかった他者への思いです。AかBかを決めるとき、必ずBを選ばなかったことへの「後ろめたさ」や「残余」が残るのです。その「残余」こそが、デリダ的に言えば「他者性」の証しなのです。

3. だからこそ、決断は「未練」を抱えたまま行われるべきだとデリダは言います。「決断したからもう完全に正しい、他は切り捨ててよい」という態度は危険です。むしろ「まだ別の他者や可能性に応答できなかった」という痛みを抱え続けることが、倫理的な態度になるのです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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