今回は、『現代思想入門』(千葉雅也、講談社現代新書)の【第二章】の前半をご紹介します。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。
(ただし引用でなくても、「現働的」のように、ある用語に「 」を使用することがあります。)
なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」「感想」や「研究」です。
【第二章 ドゥルーズ-存在の脱構築】
第一章のデリダに関する記述は、かなり簡略化されたものでした。しかし千葉氏はドゥルーズが専門なので、本章は2回に分けて、前半をドゥルーズ自身の「差異の哲学」、後半をドゥルーズ+ガタリの思想の紹介にしたいと思います。
* まず、ドゥルーズが日本で受容されてきた時代的背景について説明されますが、ここでは割愛します。その代わりに自分の思い出を少しだけ語ってみます。私が大学に入学した1978年時点では、ドゥルーズはあまり知られていなかったように思います。日本では『アンチ・オイディプス』はおろか、『差異と反復』、『意味の論理学』等の邦訳もまだ出版されていなかったと思います。
* 当時邦訳が出版されていたのは『プルーストとシーニュ』や『ベルグソンの哲学』だったと思いますが、その翻訳を担当されていた宇波彰先生が何と(直接教わってはいないのですが)私の卒業した高校の英語科の教師だったこともあり、よく理解できないままに『現代思想』などに断片的に紹介されるドゥルーズの翻訳を読んでいた記憶があります。
* たしか『パイディア』という雑誌に「今世紀は、いつの日か、ドゥルーズ主義の時代とされるだろう」というミッシェル・フーコーの言葉が紹介されていて、「わからないけれど、ドゥルーズってきっとすごいんだろうなあ」と思っていました。まあ、浅田彰の影響もありましたしね。
* 好きだった女の子が卒論にルイス・キャロルをやるというので、『意味の論理学』をベースにその子の卒論を書いてあげた記憶があります。しかし、彼女にはacceptされませんでした。。。
くだらない話はこれくらいにして、本書に戻りましょう。
本章ではまず「ドゥルーズの世界観は〈世界は差異でできている〉であること」が示されます。
「同一性よりも差異の方が先だ」という考え方なのです。
ここで千葉氏は「私が自転車に乗る」という事態を例に取り上げます。意識のレベルでは、私たちは「私が/自転車に乗る」という主語-目的語の関係でこの事態を捉えるわけですが、「ところがそのなかでは、複雑な線がいたるところに伸びていて、関係の糸の絡まり合いのようになっている。それは意識下で処理されている」のです。
本書から引用します。
「このように、AとBという同一的なものが並んでいる次元のことを、ドゥルーズは「アクチュアル」(現働的)と呼びます。それに対して、その背後にあってうごめいている諸々の関係性の次元のことを「ヴァーチャル」(潜在的)と呼びます。(中略)アクチュアルな次元においては、Aとそれ以外の非Aという独立したものがあるわけですが、ヴァーチャルな次元ではAと非Aという対立が崩れ、すべてが関係の絡まり合いとして捉えられる。このような意味で、ものの存在をある同一性とそれ以外という対立関係から解放し、普遍的な接続可能性として捉えるところが、(中略)「存在の脱構築」の核心です。」
* ドゥルーズの哲学における「アクチュアル」と「ヴァーチャル」について整理しておきましょう。
アクチュアル(actual, 現働的):
具体的に現れている現実。現在、感覚的に把握できる形をとっているもの。
→ 「実際に起こっている/形をとっている状態」。
ヴァーチャル(virtual, 潜在的):
まだ現れてはいないが、可能性として内在しており、現実に作用している力や構造。
これは単なる「可能世界」や「幻想」ではなく、現実のうちに実在する潜在性。
具体例を挙げてみます。種子には「葉が広がる」「花が咲く」といった多様な展開のヴァーチャルな可能性が含まれています。実際に芽が出て葉が広がった時、その潜在性がアクチュアル化したと言えます。しかし種子の中のヴァーチャルは、単なる「可能性」ではなく、生命の力として現実的に作用しています。
また本書から引用します。
「一般的に差異というと、Aというひとつの同一性が固まったものと、Bというまた別の同一性が固まったもののあいだの差異、つまり「二つの同一性のあいだの差異」を意味することが多いと思いますが、ドゥルーズはそうではなく、そもそもA、Bという同一性よりも手前においてさまざまな方向に多種多様なシーソーが揺れ動いている、とでも言うか、いたるところにバランスの変動がある、という微細で多様なダイナミズムのことを差異と呼んでいるのです。」
* ドゥルーズの「差異そのものが先にあり、そこから同一性が析出する」という思考を、もう少し詳しく説明してみましょう、
従来の哲学的な差異(アリストテレス的な伝統)では、「差異」とは 二つの同一性のあいだで区別されるものとして扱われます。例えば、猫(A)と犬(B)は、共通の属(動物)において異なる種である、というように、まず「猫」「犬」という同一性があり、それを比べて「差異」を見つけるのです。
ドゥルーズは、こうした「同一性に依存した差異の考え方」を批判します。彼が言う差異は、〈同一性を前提にするのではなく、むしろ同一性が成立する以前に存在する強度や振動、変化の流れといった「生成的な差異」〉です。
* 「AとBという固定したもののあいだの違いではなく、手前で多様に揺れ動いているシーソーのような差異」という著者の比喩は、まだAでもBでもない状態を表し、同一性として確定する前の、連続的な変化・揺らぎ・強度の差異がまずあることを示します。
旋律の例を挙げてみましょう。音楽では、音の高さ・強弱・リズムといった「差異」がまず流れています。そのうち一定のパターンが繰り返されると、「この曲だ」「このモチーフだ」と同一性が感じられるのです。つまり「曲」という同一性は差異の流れから析出してくるのです。
* まとめますと、差異は「同一性を否定するもの」ではなく、同一性を生み出す力であり、同一性は差異の安定した一時的な結晶のようなものなのです。この考え方は、ベルクソン的な「持続(durée)」とも深くつながっています。その部分を引用してみましょう。
「重要な前提は、世界は時間的であって、すべては運動のただなかにあるということです。」
「こうしてまたキーワードが出てきます。「生成変化」と「出来事」です。(中略)ドゥルーズによれば、あらゆる事物は、異なる状態に「なる」途中である。事物は、多方向の差異「化」のプロセスそのものとして存在しているのです。事物は時間的であり、だから変化していくのであり、その意味で一人の人間もエジプトのピラミッドも「出来事」なのです。」
* ドゥルーズの哲学で重要な二つの概念である「生成変化(devenir)」と「出来事(événement)」について整理します。
* 「生成」は、ある存在が別の存在になることではなく、「その間(あわい)」に生じる変化の運動を指します。例えば「動物になる」「子どもになる」「女性になる」といった言い方をドゥルーズはしますが、これは文字通りに「動物になる」「女性になる」という意味ではありません。それは「存在の本質や同一性が変わる」のではなく、「異なるもの同士が共鳴・交錯するプロセス」を意味します。
* 「生成」は「あるAがBに変わってBになる」という同一化ではなく、AとBのあいだに生まれる「境界的で中間的な運動」、言い換えれば「非同一性の運動」であり、完成した状態を持たず、常に流動的で未完了です。また、「生成」は主体や個体のアイデンティティを固定せず、異質な力の交差点で生じます。
* 「出来事」は、ドゥルーズにとって単なる外的な出来事(事故、歴史的事件など)ではなく、「出来事性」そのものです。出来事は、実体や物質ではなく、表層に走る“出来事の閃光”のようなものであり、事物や身体に起きる変化の位相を捉えます。
* 「出来事」は非実体的ですが実在的で、物や主体に「属するもの」ではなく、関係や表層に現れます。また、「現在」に束縛されず、過去や未来にも開かれます。例えば「死ぬ」という「出来事」は、生涯を通して影のように現在を覆い、死の瞬間だけのものではありません。「出来事」は「深層の原因」ではなく、むしろ「表面に立ち現れる効果」なのです。
* 例を挙げてみましょう。誰かが転んだとき、物理的には「身体が地面に接触した」という「出来事」がありますが、それ以上に「転倒」という「出来事」が生じます。これは肉体的事実以上の意味作用を持ち、笑い、恥、痛み、社会的な反応などを喚起します。
* 「生成」と「出来事」は、いずれも固定的な同一性を解体し、変化の運動を捉えるための概念です。「生成」は「異質なものとの関わりによって開かれる持続的変容のプロセス」、「出来事」は「その変容が現れる表層的な閃光や契機」と言えるでしょう。「生成」は「なりつつある運動」、「出来事」は「その運動において立ち現れる特異点」と整理できます。