今回は、『現代思想入門』(千葉雅也、講談社現代新書)の【第二章】の後半をご紹介します。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「  」は原則引用部分です。
(ただし引用でなくても、「リゾーム」のように、ある用語に「  」を使用することがあります。)
なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」「感想」や「研究」です。

【第二章 ドゥルーズ-存在の脱構築】

本章の後半では、ドゥルーズ+ガタリ(D+G)について扱われます(今回張り切りすぎて、長いです、笑)。
1972年に出版された『アンチ・オイディプス』は、「精神分析が自分自身を家族における同一性だけで考えるのは、リアルではない」と批判しました。これを著者の千葉氏は、「ドゥルーズ+ガタリの思想は、外から半ば強制的に与えられるモデルに身を預けるのではなく、多様な関係のなかでいろんなチャレンジをして自分で準安定状態を作り出していけ、ということだと言えるでしょう。」とまとめています。

* 『アンチ・オイディプス』の精神分析批判の要点を整理してみます。

  1. 精神分析の「家族への還元」
    フロイト以降の精神分析(特にラカンも含めて)が持っている枠組みは、患者の欲望や症状を「家族的三角形」(父・母・子=エディプス・コンプレックス)に回収して理解する傾向にあります。こうした還元は、欲望を「家族の物語」に閉じ込めてしまうのです。
  2. ドゥルーズ=ガタリの批判
    彼らが言う「リアルではない」という批判の核心は、欲望はもっと広範で、社会的・政治的・歴史的な次元に開かれているのに、それを家族だけに押し込めるのは現実の力学を無視しているということです。欲望は「生産的な力」として、工場や都市、制度や国家といった社会的機械に直接かかわっている。にもかかわらず、精神分析はそれを「父や母に対する感情」として狭く翻訳し、「家族小説」に閉じ込める。こうすることで、欲望の持つ潜在的な革命性を無力化してしまうのです。
  3. 「欲望の機械」と「反オイディプス」
    『アンチ・オイディプス』は、欲望を「欲望機械」として捉え、社会の中でつながり・流れ・生産するものとして描きます。欲望は本来「父/母」よりはるかに広い回路(経済、政治、文化、歴史)に組み込まれている。だから、それを「オイディプス・コンプレックス」という家族的同一性に還元するのは、「欲望の本当の現実性=リアル」を歪めることになるのです。

* 精神分析批判から資本主義批判へどうつながるかを解説します。

  1. 欲望と資本主義の関係
    ドゥルーズ=ガタリの根本的な視点は、欲望は社会的生産と切り離せないというものです。欲望は単なる「個人の心理的なもの」ではなく、生産・流通・権力・制度と結びついて働いている。したがって、欲望のあり方を理解するには、社会全体の仕組み(特に経済体制)を考えざるを得ない。ここで彼らは、資本主義そのものを「欲望の巨大な機械」として捉えます。
  2. 精神分析と資本主義の共犯関係
    精神分析が欲望を「オイディプス三角形」に閉じ込めてしまうのは、単なる理論的ミスではなく、資本主義社会にとって都合が良い仕組みだと彼らは考えます。資本主義は、あらゆる欲望の流れを「商品化」し、「労働力」として利用し、最終的には市場の回路に組み込む。精神分析も、欲望を「家族の物語」に矮小化することで、その社会的・革命的潜在力を無害化する。つまり、精神分析は「欲望の解放」を装いながら、実際には資本主義の安定化に加担しているのです。
  3. 「分裂症的欲望」と資本主義
    『アンチ・オイディプス』の有名なキーワードが「資本主義と精神分裂症」です。分裂症とは、欲望があらゆる既存のコード(家族・伝統・国家・道徳など)を越えて流れ出し、絶えず新しい結びつきを作る状態です。資本主義も、同じくあらゆる封建的・伝統的な制約を壊して、絶えず新しい市場や商品を生み出します。

しかし分裂症と資本主義の間には違いもあります。資本主義は一方で「無限に流れる欲望」を解放しつつ、他方でそれを「賃労働」「貨幣」「国家」といった仕組みに回収し、制御してしまいますが、分裂症的欲望は資本主義を動かすエンジンでもあり、同時にそれを突き破る可能性を秘めてもいます。

さて、本書に戻りましょう。ドゥルーズ+ガタリは1980年に『千のプラトー』を出版します。

* 1980年はまさに私の大学生活のちょうどど真ん中でした。『千のプラトー』は当然邦訳されていませんでしたが、それでも冒頭の「序」に収録されることになる「リゾーム」が『エピステーメー』という雑誌に掲載されて、何もわからぬままに読んだ記憶があります。

その「リゾーム」について本書から引用します。
「そして重要なのは、リゾームはあちこち広がっていくと同時に、あちことで途切れることもある、と言われていることです。それを『非意味的切断』と言います。」

* ここで「リゾーム」と「非意味的切断(coupure asignifiante)」の関係を整理してみましょう。

  1. リゾームとは何か
    「リゾーム(根茎)」は、非階層的で多方向的につながるネットワーク的構造です。木のように根から幹へ、幹から枝へと秩序立った序列を持つのではなく、どこからでもどこへでもつながります。D+Gは知や欲望や社会的関係を、このリゾーム的構造として捉えようとします。
  2. 「非意味的切断」の意味
    リゾームの原理のひとつとして「切断(rupture)」が語られます。ただしそれは「意味的」ではなく「非意味的」です。
    意味的切断とは、物語や体系において、前後を必然的に結びつけるような断絶です。(例:原因→結果、欠如→欲望の対象、父→母→子の関係)非意味的切断とは、そうした「意味の筋道」を作らず、断絶そのものがまた別のつながりを開くものです。つまりリゾームにおける切断は、「ここで話が途切れる → だから無意味」とはならず、切断そのものが別の回路を作り、新たな連結を生み出すということです。
  3. 欲望と非意味的切断
    この考え方は、『アンチ・オイディプス』から続く「欲望の非オイディプス的理解」と結びついています。精神分析は切断や欠如を「意味化」してしまいます。たとえば「母からの断絶 → 父の登場 → エディプス三角形」という因果的物語です。しかしドゥルーズ=ガタリにとっては、欲望は常に「切断」を経由して次の流れへと移行していくのです。それは、欠如ではなく、生産・接続の契機です。ですから、非意味的切断=「欠如のドラマ」ではなく、「欲望の流れを別の場所へ導く接続点」なのです。
  4. リゾーム的思考との結合
    リゾームは「線形的な物語や意味づけを拒む」構造です。だから「非意味的切断」が重要になります。切断は流れを止めず、むしろ別の方向へ導くのです。そのため、リゾームには「どこで切れてもまた別の接続が可能」という性質があるのです。

千葉氏は『動きすぎてはいけない』という著作において、この事態を「ドゥルーズ+ガタリは根本的に、すなわち存在論的な意味で「無関係性」を肯定しており、それは根本的な存在の「無責任」を意味しているのだ」と述べています。そして、このテーマを次のようにも言い換えています。「関わりばかりを言いすぎると、それによって監視や支配に転化してしまうという危険性があって、それに対するバランスとして、関わりすぎないということを言う必要もある」と。さらに、ドゥルーズおよびドゥルーズ+ガタリでは、ひとつの求心的な全体から逃れる自由な関係をいう場面がいろいろあることを指摘し、その全体性から逃れていく動きが「逃走線」と呼ばれることを指摘します。

* 「無関係性」「無責任」と、ドゥルーズ=ガタリの「逃走線」の概念を結びつけて整理してみましょう。

  1. 「無関係性」とは何か
    「存在論的な意味での無関係性」とは、ドゥルーズ哲学の存在論に基づいています。ドゥルーズにおいて「存在」は統一的・全体的な秩序(神・本質・目的論的な意味)に回収されません。存在はむしろ 差異の連続的な生成 としてあり、「全体を統べる中心」や「最終的な意味」は存在しません。したがって、世界は「意味的に整合した関係のネットワーク」ではなく、根源的に「無関係」であり、切れ切れの断片が接続し、また切断されていく運動なのです。「無責任」というのは、この無関係性が「誰か(神、主体、国家、ロゴス)が保証してくれる責任ある秩序」に基づいていないからです。存在は根本的に「責任を負わない」「言い訳を持たない」―つまり、ただ生成し、逸脱するのです。
  2. 「逃走線」とは何か
    ドゥルーズ=ガタリが『千のプラトー』で提唱する「逃走線(ligne de fuite)」は、この「全体性を拒む運動」の具体的な姿です。ある秩序(国家、資本、家族、学問体系)は「全体性」として閉じようとします。しかしそこから、必ず「はみ出し」「逃げ出す」運動が生まれるのです。この逸脱・逸走の線こそ「逃走線」なのです。「逃走線」は「逃げる」ことではなく、むしろ 新しい関係を発明する線 です。既存の秩序の中で抑圧され、固定されていた欲望や関係が、その外部へ向かって新たに組み替えられる契機を指すのです。
  3. 無関係性と逃走線の関係
    ここで、「無関係性」と「逃走線」はつながります。「無関係性」とは、存在は根本的に全体へ統合されず、散逸し、責任ある中心を持たないということです。「逃走線」とは、その無関係性を現実に体現する具体的な運動=秩序を裂き、外部へと走る線なのです。したがって、逃走線は「無関係的な存在が顕在化する仕方」だと言えます。

4. 「逃走線」の具体例を文学や芸術で考えてみましょう。
・小説の中で登場人物が「意味ある結末」や「筋の通った因果」から逸れて、どこかへ消えていってしまう。
・音楽が「主旋律に収束する和声」ではなく、不協和音やノイズとして広がっていく。
・社会運動が「国家権力との闘争」という中心的対立に収束するのではなく、生活様式や身体実践の変容として広がっていく。
こうしたものが「逃走線」の具体例であり、全体性からの逸脱=無関係性の現れです。

* 浅田彰『構造と力』は一世を風靡した本ですが、実は出版される前から『現代思想』で連載されていました。そのテーマは「逃げろ」でしたが、今思えば「逃走線」は単純な「逃げろ」ではありませんね。

また本書から引用します。
「大きく言って、『千のプラトー』では、求心的な全体性は「国家」に対応し、その外部に「ノマド」の世界が広がっているという世界史のビジョンが提示されます。ノマドのことは「戦争機械」とも呼ばれます。」
ノマド的世界観においては「むしろ重要なのは、そういう価値観の争いからデタッチ=遊離して、だけれども互いに対する気遣いを持ち、しかもその気遣いが他者の管理にならないようにする、というひじょうに難しい按配を維持できるかどうかです。」

* 『千のプラトー』における 「戦争機械」 と 「ノマド」 の関係を整理してみましょう。

  1. 「戦争機械」とは何か
    「戦争機械」とは、国家の外部にある運動体、力の配列のことです。それは必ずしも「戦争をするための装置」ではなく、むしろ 国家の秩序化に回収されない力の編成 を意味します。国家は「領土を管理し、秩序を保持する」存在ですが、その外部には常に、それを撹乱し、新しい空間を開く力がある。これが「戦争機械」です。重要なのは、「戦争機械」は本来「破壊のため」ではなく、国家の外で生成する自由な生の形態だという点です。
  2. 「ノマド」とは何か
    ノマド(遊牧民)は、国家的な定住・領土支配に従わない生活形態の象徴です。
    農耕民や国家が「領土=固定した場所」に依拠するのに対して、ノマドは 「滑走する空間(平滑空間)」 の中で移動し続けます。ノマドの生活は「どこからどこへでも接続できるリゾーム的運動」であり、国家的な秩序原理にとって外部に位置します。
  3. 戦争機械とノマドの関係
    ドゥルーズ=ガタリによると、ノマドこそが「戦争機械」を担う存在です。なぜならノマドの生活様式は、国家の境界や秩序に収まらず、常に別の線(逃走線)を開くからです。ノマド的戦争機械は「領土を獲得して固定する」ものではなく、空間を開き、流動化する力なのです。

国家はしばしばこの「戦争機械」を取り込みます。例えば軍隊です。軍は本来ノマド的な戦争機械に由来するのに、国家はそれを「国家の軍事装置」として組織し直し、支配のために利用するのです。こうして「戦争機械」は、本来の創造的な外部性から切り離され、国家権力の道具に変えられてしまうのです。

* ドゥルーズ=ガタリが「戦争機械」「欲望機械」といったかたちで 「機械(machine)」 という言葉を強く使うのには、彼らの思想の基盤にかかわる重要な理由があります。

  1. 「機械」という言葉の意味(反‐有機体)
    ドゥルーズ=ガタリにとって「機械」は単に工業的な装置のことではなく、関係のあり方・生成の仕組み を表す比喩です。哲学や心理学の伝統では、人間や社会を「有機体(organisme)」として捉えることが多かったです。有機体は「中心(心臓や頭脳)」が全体を統御し、部分はその秩序に従います。ドゥルーズ=ガタリはこれに反対し、中心や全体性に従属しない接続の仕組み を強調し、そのモデルとして「機械」を持ち出すのです。機械は複数の部分が連結して作動し、別の機械と結びつけば新しい機能を発揮します。つまり「機械」とは、部分同士の連結=切断=再接続の運動を示す概念です。
  2. 欲望機械
    『アンチ・オイディプス』で提唱される「欲望機械」は、欲望を「欠如」としてではなく、生産的で接続的な力 として捉え直すための言葉です。欲望は「父母子の物語」に還元されるのではなく、工場・社会・身体・制度など、さまざまな「機械」とつながって流れます。欲望は「流れを切断し、接続し、別の流れへと送り出す」=機械的運動として働くのです。だから欲望は「生産=機械的連結」の運動そのものであり、固定的な有機体ではありません。
  3. 戦争機械
    『千のプラトー』に出てくる「戦争機械」も同じ発想です。国家に従属する「軍隊」ではなく、ノマドが生み出す流動的な編成なのです。それは「全体を統括する中心」を持たず、戦略・戦術の場で流動的に接続・切断される力の配列です。ここでも「機械」という言葉は、中心をもたない接続の仕組み を示しているのです。
  4. 「機械」の肯定的含意
    彼らが「機械」という言葉を好んで使うのは、次のような思想的意図を含みます。
    ・反‐全体論・反‐有機体論→ 部分が全体に従属するのではなく、部分と部分の連結が先にある。
    ・生産性の強調→ 欲望や社会は「何かを作り出す運動」であり、単なる表象や意味解釈に還元されない。
    ・開放性→ 機械は他の機械とつながり、新しい機能を生み出せる。閉じた有機体ではなく、外部との接続が本質である。

* さらに、「機械」という用語が マルクス や ラカン とどう関わるかを解説します。

  1. マルクスとの関係 ― 生産論からの影響
    ドゥルーズ=ガタリは『アンチ・オイディプス』の副題を「資本主義と精神分裂症」としたように、資本主義批判を常に念頭に置いていました。その背景にはマルクス主義的な生産論があります。マルクスは資本主義を 生産様式 として分析し、労働や機械がどのように「生産力」と「生産関係」に組み込まれるかを描きました。しかし、マルクスは生産を主に「経済的・物質的」次元で捉えていました。

ドゥルーズ=ガタリはこれを拡張し、欲望そのものが生産する(欲望=生産)と考えるのです。そのために「欲望機械」という概念を導入し、社会的生産と欲望の生産を不可分のものとして語るのです。欲望機械は、工場の機械の比喩だけでなく、「人間の欲望が社会や制度と連結して流れる」ことを示します。要するに、彼らは「マルクスの経済的生産論を欲望論まで拡張」したのです。

  1. ラカンとの関係 ― 言語機械の批判
    フロイト以降の精神分析を刷新したラカンも「機械」という語を使いました。特に 言語の機械(シニフィアンの連鎖)という発想があります。ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」と述べ、無意識を「シニフィアンの連鎖」として捉えました。このとき「シニフィアンの機械」として無意識をモデル化しているわけです。

ドゥルーズ=ガタリはラカンから学びつつも批判します。ラカンの言語機械は、結局「父の名(Nom-du-Père)」を中心に置き、欲望をオイディプス的秩序に還元してしまいます。D+Gは言語を越えて、もっと広い「欲望の流れ」を生産的機械として描き出そうとするのです。つまり、ラカンの「言語機械」を超えて、〈欲望=社会=歴史をつなぐ「欲望機械」〉を提唱するのです。

さて、本書に戻ります。
「既成の秩序の外に広がる関係性がクリエイティブだというポジティブなメッセージがある一方で、それが新たな管理体制に転化しないように、というところにもドゥルーズの強調点がありました。」

ドゥルーズがネグリとの質問に答えたインタビュー(1990年)から引用します。
「言論も、コミュニケーションも、すでに腐りきっているかもしれないのです。言論とコミュニケーションはすみずみまで金銭に侵食されている。しかも偶然そうなったのではなく、もともと金銭に毒されていたのです。だから言論の方向転換が必要なのです。創造するということは、これまでも常にコミュニケーションとは異なる活動でした。そこで重要になってくるのは、非=コミュニケーションの空洞や、断続器をつくりあげ、管理からの逃走をこころみることだろうと思います。」 (ドゥルーズ『記号と事件』宮林寛訳、河出文庫、二〇〇七年、三五二頁)

* この発言を、文脈を整理して解説します。

  1. 「コミュニケーション」の腐敗
    ドゥルーズが問題にしたのは、現代社会(特に後期資本主義・管理社会)における「コミュニケーション」のあり方です。
    マスコミ、広告、PR、インターネット初期の情報環境を含め、コミュニケーションは資本の回路に徹底的に従属しています。つまり、情報の流れは「商品化」「管理」「統制」と不可分であり、自由な交流や思想の共有ではなく、「市場価値に換算可能なもの」へと還元されてしまうのです。この意味で、ドゥルーズは「コミュニケーションは金銭に毒されている」「腐りきっている」と批判しました。
  2. 「非=コミュニケーションの空洞」とは
    ではどうすればいいのか? ドゥルーズは「コミュニケーションの改善」ではなく、あえて「非=コミュニケーション」の空洞を作ることを強調します。既存のコミュニケーションに参加して「より正しい言葉」を発することでは、結局は市場や権力の論理に回収されてしまいます。代わりに必要なのは、「外部」「断絶」「空白」を作り出し、そこから新しい流れや表現が立ち上がる場を準備することです。ドゥルーズにとって、思想や芸術の役割は「伝えること」よりもむしろ「断続器(インタラプター)」のように、既存のコミュニケーション回路に割り込み、途切れを作り出すことです。
  3. 芸術・哲学・政治との関わり
    この考え方は、彼の哲学全体(とくに『千のプラトー』や『映画』論)にも通じます。芸術作品は単に「メッセージ」を伝えるのではなく、既存の感覚や意味の回路を切断し、別の感覚や思考を生じさせます。哲学も「情報の伝達」ではなく、新しい概念を創造するための断絶=外部を開く作業なのです。政治的にも、権力や市場に組み込まれる情報戦を戦うより、むしろ「逃走線」や「非=コミュニケーションの空洞」から新しい実践を生み出すことが重要になるのです。

本書に戻ります。本章は次の言葉で締めくくられます。

「そういう意味で、接続と切断のバランスをケース・バイ・ケースで判断するという、一見とても当たり前で世俗的な問題が、ドゥルーズにおいては真剣に、世界とあるいは存在とどう向き合うかという根本問題として問われているのです。」

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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