映画を鑑賞するという体験において、「自分が好きな雰囲気に浸ってその余韻を楽しむ」という楽しみ方があります。
一方、「自分の知らない世界に引きずりこまれ、違和感を感じまくりながら謎に包まれて映画館を出る」という体験もまた映画の楽しみです。

後者について言えば、若い頃から違和感の対象はベルイマンであったり、フェリーニであったり、ラース・フォン・トリアーであったり、パラジャーノフであったりしたわけですが、今日のウェス・アンダーソンもまさにそのような監督のうちの一人でした。(ところで映画界には、ポール・トーマス・アンダーソンとウェス・アンダーソンという2人のアンダーソンがいるわけですが、僕はなぜかウェスをずっと遠ざけてきました。)

この映画は、スパイ・サスペンスの要素に、コメディ、父娘関係のドラマなどが交錯するスタイルです。「どの軸で見るか」によって印象が大きく変わるので、話の「どこが本筋か」が見えにくいです。

また、多数の俳優が出ていて、ちょっとしたやり取りやキャラクター同士の関係性で細かく物語が動きます。彼らは「直接感情を表現する」のではなく「状況」「表情」「余白」などで伝えようとするので、キャラクター同士に「距離感」があります。ユーモアも「間」「空気」「状況のズレ」によるところが多く、テンポに「ゆらぎ」が存在します。シリアスなスパイ映画の文法を借りながら、登場人物の振る舞いや会話が「妙に淡々としている」ために可笑しさが生まれるのです。

演出面も、構図、衣装、セット、小道具など華やかですが全てが計算されていて、映画全体に一定の「調和された不自然さ(人工美)」があります。例えば画面比率や撮影方法にもこだわりがあります。 シリアスな出来事が、完璧に整った美術セットや色彩の中で展開されると、現実感が消えて「滑稽さ」が前に出てくるのです。

ここで『フェニキア計画』における「父娘関係」に焦点を当ててみます。

本作品では、父娘関係がスパイもののプロットと結びつき、物語の中核になっています。ジャンル娯楽と個人的な感情劇が二重構造をなしていますが、父娘関係の描写はフロイト的な解釈が可能です。

スパイ映画の文法では「父=指導者/任務を与える者」として登場しやすく、ここでも父親は支配的な立場にいます。フロイト的に言えば「超自我(規範や法)」を体現している存在です。これに対して、娘は父の期待や任務に縛られながらも、自分の欲望・主体性を模索します。これはオイディプス・コンプレックスの女性版(エレクトラ・コンプレックス)的に読むこともできます。映画の中では感情がストレートに爆発するより、任務・陰謀・謎解きといった「外的行動」に転化されています。これはフロイト的な「抑圧された欲望が別の形で現れる」構造に重ねられます。

次にこの映画の「政治的・歴史的な匂い」に焦点を当ててみます。

この映画には、「フェニキア計画」という架空の陰謀を通して、冷戦期や地政学的な緊張を想起させる雰囲気があります。映画の「陰謀」「機密作戦」「二重スパイ」といった構造は、冷戦時代の米ソ対立を想起させます。特に「どの国家も正義ではない」「陰謀が重なり合い、個人の意思は小さな駒に過ぎない」という描き方は、冷戦スリラーのパロディであり、同時に現代の大国間政治への風刺でもあります。

フェニキアという名称は古代の交易・海洋国家を思わせます。映画内の「計画」は、資源・航路・勢力圏をめぐる奪い合いを象徴しており、現代のエネルギー問題や海洋権益を連想させるところがあります。登場人物たちが「誰が味方で誰が裏切り者かわからない」状況に置かれるのは、現代の情報戦や監視国家への批判を寓話的に映したものとも言えます。

個人の親密な人間関係(父と娘)と、大国間の冷酷な権力関係が重ねられることで、「政治は家族関係の延長のように支配と服従で構築されている」という皮肉な視点が浮かびます。

次に、この映画の「キリスト教的モチーフ」に焦点を当ててみます。

父(権威・掟)に対して娘が葛藤し、過ちや裏切りを経て「赦し」や「和解」に近づく流れは、キリスト教的な「罪→贖罪→救済」の物語に似ています。また、セットや背景に、さりげなく十字架モチーフや宗教画を思わせる構図が用いられています。作戦や陰謀の中で、ある人物が「自分を犠牲にして他者を守る」行為をとるのは、キリスト教的な「自己犠牲(アガペー)」を想起させます。これはキリスト教神学の中核(神=父、イエス=子)にあるテーマでもあります。アンダーソンはこれを神学的に語るのではなく、親子の心理劇として描きますが、象徴的な重なりを感じさせる仕組みになっています。

最後に、この映画の「不自然な画面作り」に目を向けてみましょう。

この映画はまさに アニメーション的 であり、同時に テクニカラー黄金期の人工的で鮮やかな色彩映画を思い出させるものです。また、キャラクターが正面や真横にきっちり配置されるので、人形劇やストップモーションアニメを見ているような印象を与えます。美術的には、ミニチュアや舞台装置的なセットが多く、現実の「リアルさ」より「図案化された世界観」を重視しています。色彩面では、赤・黄・青・緑といった限定された鮮烈な色彩が画面を占め、衣装・家具・壁紙に至るまで「一枚のカラフルなポスター」のように統一感があります。これは1930〜50年代のハリウッド大作(ミュージカル、メロドラマ)のテクニカラー映像を連想させます。カラーパレットの選び方や光の処理が、どこか「昔の映画を思い出す」ように作られており、観客に懐かしさや人工的な夢の世界を感じさせるのです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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