今回は、『現代思想入門』(千葉雅也、講談社現代新書)の【第四章】をご紹介します。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「  」は原則引用部分です。
(ただし引用でなくても、「系譜学」のように、ある用語に「  」を使用することがあります。)
なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」「感想」や「研究」です。

【第四章 現代思想の源流-ニーチェ、フロイト、マルクス】

第四章では現代思想の先駆者として、19世紀の3人が取り上げられます。

「この三人がどういう意味で前提として重要かというと、いずれも秩序の外部、あるいは非理性的なものを取り扱った人物だと言えるからです。」

まずニーチェについての記述を本書から引用していきます。

「『悲劇の誕生』という著作において、ニーチェは、秩序の側とその外部、(中略)、カオス的なもののダブルバインドを提示したと言えます。」
「たしかに混乱こそが生成の源なのですが、それと秩序=形式性とのパワーバランスこそが問題なのです。」
「アポロンとディオニュソスという対立は、同一性と差異という対立に対応します。後者、(中略)が、秩序の下に押し込められているという「下部構造」のイメージがここでは重要です。この図式は、哲学史的に遡ると、「形相」と「質料」という対立に行き着きます。」
「ところが、(中略)、ニーチェあたりになると、秩序づけられる質量の側が、何か暴れだすようなものになってきて、その暴発するエネルギーにこそ価値が置かれるようになります。つまり、形相と質料の主導権が逆転するのです。」

* 以上の記述をもう少し整理してみましょう。

* アリストテレス以来の伝統では、「質料」はまだ形を持たない「素材」や「可能性」の側であり、
「形相」はそれを秩序づけ、方向づけ、完成させる「形式」や「本質」の側を示します。このとき価値の中心は「形相」にあります。質料はあくまで受動的です。

* ニーチェの思想では、この秩序が崩れます。生のエネルギーや力(力への意志、Dionysos的なもの)は、一見「無秩序で爆発的」なものですが、その奔放さや暴発性こそが価値の源泉とされるのです。

* つまり、受動的とされていた「質料=力・生命のエネルギー」こそが主導的であり、形相の方がそれに従属するのです。さらに言えば、「質料=差異生成のエネルギー」が中心となり、形相はそれを抑えこむ枠組みにすぎなくなるのです。

* 千葉のニーチェの記述は、おそらくドゥルーズの差異の哲学が念頭にあります。

* 伝統形而上学は「同一性」に重きを置きます。しかしニーチェは「差異」や「生成」「変化」に価値を置くのです。差異は「まだ秩序づけられていないもの」「形相に収まりきらないもの」として現れます。同一性よりも差異の流れ(=力の遊戯)が本源的だとされるのです。。

次は、フロイトです。

ニーチェにおける「ディオニュソス的なもの」は、フロイトの「無意識」とつながります。フロイトは、「無意識には何か性的なエネルギーのわだかまりがあって、それが外見上性的に思えない行動を動機づけている」と考えるのです。

本書から引用します。
「精神分析の実践とは、自分のなかのコントロールから逃れるような欲望のあり方を発見していくことです。」
「精神分析の本当のところは、記憶のつながりを何かの枠組みに当てはめることではんく、ありとあらゆることを芋づる式に引きずり出して、時間をかけてしゃべっていく過程を経て、徐々に自分が総体として変わっていくことなのです。」
「自分のなかの無意識的な言葉とイメージの連鎖は、自分のなかの「他者」であるということになります。」
「フロイト的な無意識の概念は、自分のなかに他者がいるのだということとして言い換えられ、そしてそのことが現代思想における脱秩序的な方向性とつながってくることになります。」

* 「他者」という表現がわかりにくいと思います。少し掘り下げてみましょう。

* フロイトは、人間の心を「自我(意識)」だけでは説明できないとしました。無意識のなかには、抑圧された欲望・衝動・記憶が潜んでおり、それが夢や失言、症状として現れる、つまり、人間は「自分で自分を完全には支配できない存在」であると考えました。

* フロイト的な無意識は、「自分の内部なのに、自分の思い通りにならない他者的な力」として理解できます。これはラカン的に言えば「無意識は他者の言葉のように構造化されている」と表現されるように、無意識の声は「自分ではない何か」として働くのです。よって、主体は単一的ではなく、裂け目や異物(=他者)を抱え込んだ存在として捉えられるのです。

* 近代的主体観は「自律的で合理的な統一体」として秩序的に描かれてきました。しかし、フロイト以降は「主体は分裂しており、秩序の基盤自体が揺らいでいる」と考えられるようになる。これが現代思想における「脱秩序的」な動き(例:構造主義からポスト構造主義への流れ)に結びつくのです。

* つまり、フロイトが見出した「主体の中の他者=無意識」こそが、現代思想の「主体を安定的秩序から解体する」方向性を先導した、ということです。

ここで千葉は、無意識のポイントは「偶然性」であると述べます。

「つまり、無意識とはいろんな過去の出来事が偶然的にある構造をかたちづくっているもので、自分の人生のわからなさは、過去の諸々のつながりの偶然性なのです。」
「無意識のなかで要素同士がどういう関係づけにあるかを脱意味的に構造分析することで初めて、症状が解きほぐされることになるのです。」

* 「偶然性」についても、もう少し深く読んでいきましょう。

* フロイトによれば、無意識には過去の体験が痕跡として刻み込まれます。その痕跡は忘却されたり、抑圧されたりしながらも、夢や言い間違い、症状などで不意に顔を出します。つまり、現在の自分の行動や思考は「自分では覚えていない・整理できない過去」に大きく左右されるのです。

* 千葉が強調するのは以下のような事態です。無意識は「必然的な本質」や「秩序だった法則」でできているのではない。むしろ、偶発的な出来事が蓄積し、それらが思いもよらぬ形で結びついて構造をつくる。だから、自分の人生の方向性や「なぜこんなことをしてしまうのか」は、必然的に決まっているわけではなく、無数の偶然の集積によるのです。

* 人は自分を「統一的で、筋の通った存在」と考えたいですが、フロイト的観点からすると、それは幻想です。実際には、自分の中の無意識が「偶然の網目」でできているため、完全に予測したり理解したりすることはできないのです。その「わからなさ」=「自分の中にある偶然の歴史」こそが、人間のあり方を決定しているのです。

私たちは、自分の人生が無意味な偶然の連鎖であるとは考えたくありません。そのため「人はさまざまな物語的理由づけをします。」

これに対して千葉は以下のように述べます。
「しかし現代思想は、そういった物語の水準に留まっていては見えないリアリティが世界にはあるということを教えてくれます。」
「物語的意味ではない意味を世界に、自分自身に見る。それが『構造」を見るということであり、しかもその構造は動的でリズミカルなものです。構造とは、諸々の偶然的な出来事の集まりなのです。」

ここで、カントやフーコーを通じて「近代的有限性」が述べられます。

「(人は)思考(表象)によって世界(事物)に一致しようと際限なく試みるが、結局はできない、というのが近代的な有限性なのです。」
「(人は)真理に向かおうとするが、真理への到達不可能性によって牽引され続ける」
「(その結果)人間の思考は、つねに闇を抱え込むようになった。思考において思考を逃れるものが生じた。それが、広い意味での下部構造の発見です。」(カッコ内は私の補足です。)

ここで話はマルクスにつながります。

* マルクスについては別の記事で相当丁寧に紹介しましたので、ここでは簡単に千葉の記述を追ってみます。千葉は、マルクスにおける「力の存在」に着目します。本書から引用します。

「人間には本来、好きに使えるはずの力があるのに、偶然的な立場の違いによって、搾取されている。」
「そう考えることで見えてくるのは、労働者は自分自身の力を取り戻し、より自律化するべきだという労働運動の方向性です。」

ここで千葉の記述はマルクスとフーコーを接続します。

「(中略)無意識レベルに留まっている自分本来の力、いわばディオニュソス的なものをいかに取り戻し、それにどうやって搾取構造とは異なる独自の秩序を与えるか。これが後期フーコーにおける自分で自分のことを秩序化するという「自己への配慮」の話につながります。」

* 千葉雅也は、 ニーチェ・フロイト・マルクスを媒介にして、後期フーコーの「自己への配慮」へとつなげています。本章の記述をまとめてみましょう。

* ニーチェの言う、ディオニュソス的なもの(「生のエネルギー」)が抑圧されると、人間は主体的に生きられなくなります。

* フロイトは、その「抑圧された力」が 無意識 として残り、夢や症状などで現れることを示しました。無意識は「自分の中の他者」であり、偶然的な過去の蓄積でもあるのでした。つまり、「本来の力」は自我の秩序の外に追いやられているのです。

* マルクスによれば、資本主義的な社会構造は、人間の生の力を 外部から組織化・搾取する秩序 をつくりあげます。力は社会システムに取り込まれ、「自分のものではない秩序」に従属させられるのです。

* フーコーは「外部の権力構造に従うのではなく、自分で自分の力を秩序化する実践」を構想しました。これが「自己への配慮」(epimeleia heautou)です。フーコーにとって、他者や制度に搾取されない形で、無意識的な力=ディオニュソス的エネルギーを、自分の生の中でどう組み立て直すか、が問題になるのです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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