今回は、『現代思想入門』(千葉雅也、講談社現代新書)の【第五章】をご紹介します。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。
(ただし引用でなくても、「鏡像」のように、ある用語に「 」を使用することがあります。)
なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」「感想」や「研究」です。
【第五章 精神分析と現代思想-ラカン、ルジャンドル】
本章はラカンの超入門だそうです。私は、ラカンは難解だということで今まで遠ざけてきましたが、本書で入門してみたいと思います。まず、「この本では、精神分析と精神分析批判のダブルシステムをお勧めしたいと思っています。」と述べられていますが、まず精神分析の肯定的な側面が確認されます。
「精神分析とは人間精神についてのひとつの仮説であり、少なくとも実践的には意味がある、効果があることが当事者によって報告されているのです。」
では、精神分析によって、どのような知見が得られたのでしょうか。本書から引用します。
「精神分析は、ひとつの人間の定義を与えます。それは、「人間は過剰な動物だ」ということです。」
要するに、人間は本能を逸脱しているのです。
「本能とは「第一の自然」であり、動物においてそれはかなり自由度が低いのだが、人間はそれを「第二の自然」であるところの制度によって変形するのです。ここでの「制度」には、「別様でありうるもの」という意味を込めています。」
「そもそも過剰であり、まとまっていない認知のエネルギーをなんとか制限し、整流していくというのが人間の発達過程なのです。教育とはまず、制限なのです。」
「自由に流動する認知エネルギーのことを、精神分析では、本能と区別して「欲動」と呼びます。」
* フロイトにおいて「欲動(Trieb)」は、単なる生理的衝動ではなく、余剰的で方向づけを待つエネルギーです。これは、必ずしも対象を特定せず、過剰に働き続けるために、人間はしばしば「不必要に思考してしまう」「無駄にこだわる」といった形で振る舞います。千葉はこれを「認知エネルギーの余剰」と言い換えることで、精神分析的な枠組みを認識論・認知論的な言葉に置き換えています。
* 「合理的に最適化する存在」という認知科学や経済学の想定を越えて、人間は常に余計な思考・欲望に突き動かされます。言い換えれば、精神分析によって、合理性の限界への洞察がなされるのです。
* この余剰エネルギーは、芸術や思想といった「役に立たないが意味を生む営み」の源泉とみなせます。したがって精神分析から現代思想へと橋渡しされる「余剰性の哲学」は、文化の生産を説明する鍵にもなります。
本書に戻ります。
「本能のレベルに異性愛の大きな傾向があるにしても、欲動が流動的だから、欲動のレベルにおいてたとえば同性愛という別の接続が成立することがありうるのです。」
「本能において異性間での生殖が大傾向として指定されていても。それは欲動のレベルにおいて一種の逸脱として再形成されうことによって初めて正常化されることになるのです。」
「我々が正常と思っているものも「正常という逸脱」、「正常という倒錯」です。
* 千葉はここで 「本能(生物学的傾向)」と「欲動(精神分析的次元)」を区別 しています。本能とは、生物学的にプログラムされた傾向(例:異性間の生殖が種の維持に資するという方向性)を示します。一方、欲動は、精神分析的にいう、対象を特定しない余剰エネルギーを指します。特定の行動や対象に「固定」される前は流動的で、多様な結びつきが可能です。
* 異性愛も同性愛も、本能から直接導かれるのではなく、欲動が社会的・文化的な文脈の中で「接続」を作り出した結果です。つまり、異性愛は「本能の直結」ではなく、「欲動の流動性から生じる可能態のひとつ」として理解されるので、仮にマジョリティであっても「倒錯」なのです。
* このように、人間は本能から逸脱した「過剰な」存在であるわけですが、このような人間がいかに「主体化」していくか、という点が問題になります。つまり、「人間がいかに限定され、いわば「有限化」されるかということがここからの主題になります。」
* ここで問題となっているのは、まさに 「欲動の過剰をもった存在としての人間が、どのように社会的・言語的な主体となるのか」 という精神分析的な問題系です。
* 人間は「本能」だけでは完結せず、余剰の欲動=流動的で宛先のないエネルギーを抱えています。
このままでは人間は「何に向かって生きるのか」が定まらず、無限に漂う存在となってしまいます。
この「余剰性」こそが、人間を単なる動物と区別するものですが、同時に不安定さを生み出します。
* ラカン的には、人間は言語の世界に入ることで「有限化」されます。子どもは最初、欲動的なエネルギーを無限に発散できる存在として生まれます。しかし、言語や社会的規範の中に入ることで、「あなたはこれを言い、この関係の中で欲望しなさい」 という制約を受けるのです。その結果、欲動の無限の可能性が切り落とされ、部分的に限定された「主体」が形成されます。これが「有限化」の核心です。
ここから千葉はラカンの発達論を具体例を挙げて説明していきます。大変面白い話ですが、詳細は本書で実際にお読みください。ここでは、結論だけ記しておきます。
人間は母子一体の安心感を喪失する(疎外される)ことで自立していきますが、絶対的安心感は永遠に得られません、その欠如感を埋めようとすることがラカン的な「欲望」なのです。
本書に戻ります。
「ラカンは大きく三つの領域で精神を捉えています。第一の「想像界」はイメージの領域、第二の「象徴界」は言語の領域で、(中略)、第三の「現実界」は、イメージでも言語でも捉えらえない、つまり認識から逃れる領域です。」
千葉はこの三つの分類が、カント『純粋理性批判』における「感性」「悟性」「物自体」に対応していると記していますが、これはあくまでも千葉の個人的な意見のようです。
ここでは有名な「鏡像段階」の解説は省略しますが、千葉の言葉を借りれば、「自己イメージとは他者なのです。」
以上の内容をわかりやすく整理してみます。
* 幼い子どもは最初、母(養育者)との一体感の中で欲望が満たされる世界にいます。これは「母子一体の幻想的な安心感」といえます。しかし子どもは成長の過程で、その一体感が「失われざるをえない」ことに気づきます。つまり、母は自分の欲望だけに従っているわけではなく、「他者」や「社会」にも関わっているのです。ここで「疎外」が生じます。
* この一体感の喪失によって、子どもは自分の存在が不完全であること、つまり「欠如」を自覚します。その欠如を埋めようとする運動が「欲望」です。しかし重要なのは、この欠如は本質的に埋まらないという点です。欲望はつねに「次の対象」へとずらされ、決して最終的に満たされることはないのです。
* ラカン的な「欲望」は次の特徴を持ちます。欲望は「他者の欲望」に媒介され(=他者が欲しがるものを欲する)、欠如を前提にしているので満たされることはなく、むしろ「欠如を駆動力とする回路」として持続します。だからこそ人間は常に動き続け、文化や芸術、思想などを生み出すのです。
本章の最後に「ドグマ人類学」で知られるルジャンドルが紹介されます。恥ずかしいことに私はルジャンドルは名前だけ、それも佐々木中の『夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル』の題名の一部としてしか知りませんでした。ここではルジャンドルの詳細は割愛しますが、千葉はルジャンドルを通じて次のような結論を出します。
「人間は過剰な存在であり、逸脱へ向かう衝動もあるのだけれど、儀礼的に自分を有限化することで安心して快を得ているという二重性がある。そのジレンマがまさに人間的ドラマだということになるわけです。」
この千葉の表現を詳しく分析してみましょう。
* 人間の存在は以下のような二重性を持っています。
「過剰な存在」人間は本能にとどまらず、欲動の余剰を抱えていて、常に逸脱や新しい方向へ向かう衝動をもっている。
「有限化される存在」しかしそのままでは不安定すぎるため、社会制度・儀礼・規範といった「制約」に自分を預けることで安心を得る。
* ルジャンドルが強調するのは、法や宗教、儀礼の役割です。人間は自分の過剰さをそのまま抱えると不安に耐えられません。だからこそ「形式」「儀礼」「法」といったシンボリックな枠組みによって、「私はここに属している」「私はこのルールに従っている」と自らを有限化し、その中で快(安心感)を得るのです。
* 人間は「余剰に駆動される」一方で「有限化によって安定を求める」というジレンマを抱え続けます。この二つのベクトルが拮抗し、せめぎ合うことが、人間存在の根本的なドラマだというのが千葉のまとめです。
本章の最後では、このようなラカン的思考を『存在論的、郵便的』において「否定神学システム」と評した東浩紀が取り上げられます。これを少し解説してみたいと思います。
* 否定神学(apophatic theology)とは、中世キリスト教神学などに見られる立場で、神を直接に語ることはできないが、「神は有限的属性をもたない」という否定によって、その超越性を示そうとする考え方です。つまり、「語れないもの」を常に前提しつつ、語り続けるシステムなのです。
* 東浩紀によれば、ラカンの「象徴界」の外部には言語化できない 「現実界」 があり、主体は常にこの「現実界」という「不可能なもの」を前提にして生きるが、それは決して到達できないのです。ラカンの議論は常に「言語の限界の外にあるもの」への否定的指し示し進むのです。
* 東の『存在論的、郵便的』では、この「否定神学」を乗り越える道筋が示されますが、これは本書のテーマから外れるので、ここでは省略します。