今回は、『形而上学とは何か』(秋葉剛史、ちくま新書)の【序章】をご紹介します。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「  」は原則引用部分です。
(ただし引用でなくても、「還元」のように、ある用語に「  」を使用することがあります。)
なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」「感想」や「研究」です。

【序章 形而上学とは何か】

よく見ると、序章のタイトルと書名が同じです。それくらい一般の人には「形而上学」はイメージしにくい言葉なのでしょう。アリストテレス『形而上学』、ライプニッツ『形而上学叙説』、カント『道徳形而上学の基礎づけ』など、題名に「形而上学」とついている哲学書は多いですが、それが何を意味するのかは私もはっきりとは理解していませんでした。

* 形而上学(metaphysics)は、しばしば「時代遅れ」や「抽象的すぎる」と見なされがちですが、現代においてもその重要性はむしろ増しているとも言えます。理由はいくつかの層に分けて説明できます。

  1. 科学の基礎づけとしての形而上学
    現代科学は驚異的な成功を収めていますが、その根底には「存在とは何か」「因果とは何か」「時間や空間は実在するのか」といった、科学が前提としている概念的枠組みがあります。たとえば量子力学の「観測問題」や、AI研究における「意識」の扱いは、科学的なデータだけでは決着しない問題です。形而上学はこれらの前提を明示化し、科学の言明が依拠する「存在論的基盤」を問い直します。科学が答えを出すための「問いの形」を整える役割を担っているのです。
  2. 倫理・政治哲学との接点
    形而上学は抽象的な存在論にとどまりません。倫理学や政治哲学も、ある種の形而上学的前提に立っています。たとえば「人間の自由意志はあるのか」「個人とは何か」「価値は主観的か客観的か」といった問いは、倫理的判断の土台そのものです。もし自由意志が存在しないなら責任概念はどうなるのか。もし価値が存在しないなら正義の議論は成り立つのか。こうした問題の根には形而上学が流れています。現代社会が倫理的混乱や価値の多元性に直面している今こそ、形而上学的な再検討が必要なのです。
  3. 技術文明における「人間とは何か」の再考
    AI、バイオテクノロジー、仮想現実などによって、「人間とは何か」「現実とは何か」という問いが実際的な意味を持ち始めています。人間の意識を模倣するAIが出現し、脳と機械が結合する時代に、私たちは「主観」「身体」「他者」といった根本的カテゴリーを再定義せざるを得ません。形而上学は、こうした技術的変化に対して「何が実在で、何が虚構なのか」「人間性の本質はどこにあるのか」を問うための言語を提供します。
  4. 意味と世界の関係を問い直す営みとして
    現代は情報の洪水と相対主義の時代です。すべてがデータ化され、視点の違いによって「真理」そのものが不安定に見えることさえあります。その中で形而上学は、「私たちはどのようにして世界を理解しうるのか」「世界とは理解可能な構造をもつのか」という根本的な問題を掘り下げます。これは単なる抽象的思索ではなく、「意味の可能性」を守るための営みでもあります。

ここで本書を引用し、著者秋葉の「形而上学の定義」を紹介します。
「「秩序立った全体」としての世界は、いくつかの区別可能な相ないし側面をもっている」
「形而上学の主題の中心をなすのは、この世界をまさにそのようなものとして成立させている、いくつかの一般的で包括的な秩序です。」

これではまだ漠然としていると思いますが、秋葉は、一般的で包括的な秩序として以下の6つの具体例を挙げています。
・ 「時間空間的な秩序」
・ 「因果的な秩序」
・ 「類似性の秩序」
・ 「部分と全体の秩序」
・ 「様相的な秩序」
・ 「カテゴリー的秩序」

* 個人的に、時間論や因果関係は昔から大変興味があるので、ひょっとすると私は形而上学に向いているのかもしれません。なお、6つの具体例は、後の章で詳述されることになります。

形而上学を研究する目的は、これらの秩序の内容を深く理解することですが、本章では次にこの目標を達成するためのアプローチが問題にされます。その中心となる方法が、「モデル化」です。

「つまりそれらのモデルは、「問題となる事実は結局のところ実在世界のどんな構造のおかげで成立しているのか」という問いへの答えとして意図されているわけです。」
「ここでとくに区別しておきたい二つの種類があります。その二つとは、還元的モデルと非還元的モデルとそれぞれ呼びうるものです。」
「一方の「還元的」モデルは、当該の事実をそれとは別の何かに帰着させようとします。」
「これとは対照的に、もう一方の「非還元的」モデルは、モデル化のターゲットとなる事実が、多かれ少なかれそのままの形でこの世界の基盤の一部をなしていると考えます。」

* 「還元的」モデルと「非還元的」モデルについて整理してみます。

「還元モデル」(reductionist model):世界は階層的ですが、上位のレベル(心・社会・価値など)は下位の物理的レベルに依存しており、最終的にそれに還元されます。科学的実在論や自然主義的形而上学に親和的です。

例:
心理的現象 → 脳の物理的状態
道徳的事実 → 自然的・社会的事実
生物学的現象 → 化学・物理的プロセス

「非還元モデル」(non-reductionist model):上位レベルの現象や存在(例:意識、価値、社会的実在)は、下位レベルとは異なる種類の実在性や説明原理を持ち、完全には還元できないと考えます。世界の多層的・多元的構造を強調します。心の哲学や倫理学では「出現(emergence)」や「スーパーヴィーニエンス(supervenience)」の議論と関連します。

例:
「痛み」という体験は神経活動に対応するが、それそのものではない。
「正義」や「責任」といった概念は物理的事実からは導けない。

本書に戻ります。形而上学の以上の特徴づけから漏れているものとして、「人をめぐる考察」が挙げられrます。そこで必要になるのが、「この世界全体の見取り図のなかに私たち自身を描きこむという作業」だとされます。そこで本書で扱われるのが「人の同一性」と「自由」です。この2つについては、第6章と第7章で取り扱われます。

以上をまとめて、秋葉は形而上学を以下のように定義し直します。

「形而上学は、「この世界全体の見取り図を、そのなかでの私たち自身の位置づけを含めて描きだすこと」を目指す分野として特徴づけられるでしょう。」

* ところで、形而上学が「理屈ばかりで現実から離れている」と見られるのは古くからの批判です。プラトン以来の「哲学は雲の上の話をしている」という風刺は、アリストパネスの『雲』にすでに見られます。しかしその批判に対して、いくつかの明確な反論の道筋があります。順に整理してみましょう。

  1. 「理屈」ではなく「前提」を問う学問である
    形而上学は現実を離れて抽象的な理屈を積み上げるのではなく、むしろ「理屈が成立する以前の前提」を問う営みです。たとえば「現実とは何か」「因果とは何か」「時間とは何か」といった問いは、科学や日常の思考が当然視している地盤そのものを検討します。つまり形而上学は、現実の“上”ではなく“根”を掘り下げる行為です。この意味では「頭でっかち」どころか、「思考の骨格を整える学問」と言えるでしょう。
  2. 理屈を超えるために理屈を使う
    形而上学は単なる推論の積み上げではなく、「理性の限界を見極める理性の試み」でもあります。
    カントがそうであったように、形而上学は理性の誤用を防ぎ、理屈がどこまで現実に届くかを吟味します。つまり「理屈を批判するために理屈を使う」という逆説的な営みなのです。
    この点を理解すれば、「理屈ばかり」という批判は、むしろ形而上学の誠実さを見誤っていると言えます。
  3. 実際の生の問題に深く関わっている
    形而上学的問いは決して現実と無関係ではありません。「私は誰か」「他者とは何か」「自由はあるのか」「死とは何か」——これらはどれも形而上学の核心です。たとえばハイデガーやバーナード・ウィリアムズは、存在や自己のあり方を問うことで、生の意味・倫理・死生観を再構築しようとしました。
    私たちが苦しみや選択に直面したとき、それをどう受け止めるかは、結局のところ形而上学的前提に支えられています。
  4. 「現実的であること」と「深く考えること」は対立しない
    「理屈っぽい」との批判の背景には、「現実的でない」というニュアンスが含まれています。
    しかし実際には、現実的に行動するためにも、私たちは暗黙の前提(価値観・存在理解・因果の信念など)に依拠しています。形而上学は、それらを無自覚に信じるのではなく、自覚的に扱うための訓練でもあります。つまり、形而上学は「現実を支える現実的思考」なのです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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