今回は、『形而上学とは何か』(秋葉剛史、ちくま新書)の【第1章】をご紹介します。いよいよ本格的な形而上学の話で、初学者にはなかなか難解です。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「  」は原則引用部分です。
(ただし引用でなくても、「性質」のように、ある用語に「  」を使用することがあります。)
なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」「感想」や「研究」です。

【第1章 性質と類似性】
冒頭で、この世界に関するきわめて重大な事実が確認されます。それは、「この世界の事物はさまざまな性質をもち、それぞれの性質に応じて互いに類似したり区別されたりする」ということです。
「因果的規則性」も「変化」も「事物が性質をもつ」ということなしには成り立ちません。

次に、性質に関する区別のなかから「客観的性質/非客観的性質」が取り上げられ、「非客観的性質」も「単に主観的」ではないことが確認されます。要するに、恣意的に変更はできないということです。

さらに、「非客観的性質」のいくつかの顕著なタイプが列挙されます。ここでは代表的な2つの性質について、著者秋葉の定義を見てみましょう。

「反応依存的」な性質:「ある性質Pが反応依存的性質であるのは、任意のある事物がPをもつかどうかが、その事実が私たちにある特定の種類の感覚的・感情的な反応を引き起こすかどうかによって決まる」
「判断依存的」な性質:「Pが判断依存的性質であるのは、任意のある事物がPをもつかどうかが、私たちの大多数がその事物がPであると判断するかどうかによって決まる」

* 「非客観的性質(non-objective properties)」が「反応依存的(response-dependent)」あるいは「判断依存的(judgment-dependent)」だと言われるとき、哲学的には、その性質の在り方が、私たちの反応・判断・認識の仕方に依存しているということを意味します。

  1. 「客観的性質」と「非客観的性質」
    客観的性質(objective properties)→観察者や心的状態に関係なく、世界に独立して存在する性質。例:質量、電荷、分子構造、速度。

非客観的性質(non-objective properties)→そうした独立した存在ではなく、主体の反応や評価に関係して成立する性質。例:美しさ、面白さ、危険さ、色の見え(「赤さ」など)。

  1. 「反応依存的」(response-dependent)
    この考え方では、ある性質をもつとは、その性質を引き起こすような反応を、標準的な状況で、標準的な観察者が示すということだ、と定義します。たとえば「赤い」という性質は、正常な視覚をもつ人が適切な照明下で赤く見えるように反応することに依存していますし、「苦い」という性質は、私たちがある味を苦いと感じる反応に依存しています。ここで重要なのは、「赤さ」や「苦さ」が世界に独立してあるというより、「われわれの感覚的反応のパターン」によって構成されているという点です。
  2. 「判断依存的」(judgment-dependent)
    「反応」よりもう一段抽象的なレベルで、ある性質をもつとは、標準的条件下で標準的な主体がそのように判断することに依存していると考える立場です。たとえば「正しい」行為とは、標準的な理性的主体が十分な熟慮のもとで正しいと判断するような行為、「美しい」作品とは、標準的な審美的感受性をもつ人が美しいと判断するような作品であるとされます。つまり、ここで依存しているのは「感覚的反応」ではなく「評価的・認識的判断」です。

本書に戻ります。今度は「客観的性質」の話が議論されます。

普遍者実在論による普遍者とは、同一のまま複数の事物によって共有されることができ、それによって事物の間の類似性を根拠づけるような存在者を指します。私が作った例ですが、〈四角さ〉は複数の四角いものに同時に共有されることができ、それらの四角いものが類似していることの根拠になっているということですね。

普遍者実在論によれば、「事物が性質をもつ」とは「事物が普遍者を例化する」ということです。つまり同一の普遍者〈四角さ〉が3つの四角いものによって例化することにより、互いに類似したものになるということです。普遍者実在論者の主張はあくまで、この世界そのものを形づくる要素のなかに、個別的事物とは別種の存在者としての普遍者が含まれているということなのです。

実在論を支持する哲学者は多いようですが、それでも実在論に対する様々な疑問が生じるのも事実です。たとえば「〈四角さ〉という性質は時空世界を超越しているか」という問題です。超越しているという考え方は「超越的実在論」「プラトン的実在論」と呼ばれます。

これに対して「実在論は実在の範囲を安易に広げすぎていないか?」という意見も存在します。つまり「〈四角さ」のような普遍者も、時空世界の内部に位置をもつ」という意見です。これは「アリストテレス的実在論」と呼ばれます。

普遍者と時空世界との関係は、どちらの立場から考えても困難です。そこで現れた、普遍者を持ち出さないで「事物が性質をもつ」を説明しようとする立場が「唯名論」です。唯名論は「個別的事物を超えた普遍者なるものは単に名ばかりの存在にすぎない」と考えます。唯名論者は「基礎的な構成要素としては個別者のみを含む世界においても、それらが形づくる派生的な構造としてなら、普遍者の代わりとなるものは存在可能だ」と考えるのです。

本書では唯名論の代表として「類似性唯名論」が紹介されます。この立場では、「「同一の性質」に言及するとき世界の側で真に存在しているのは、個物たちの自然な集まりに他ならない」と考えます。

本書では、「二つの個物が同一の四角さをもつ」ということは、それらが同一の類似性クラスSの要素であるということとして説明できます。」と説明されています。普遍者は必要とされていないのです。

類似性唯名論にも問題点は存在します。たとえば「類似性クラスは、普遍者の代用物となるにはきめが粗すぎるのではないか」、「ある性質をもつ個物の範囲が変化するような状況をうまく扱えないのではないか」といった問題点です。ここでは細かい解説は省略します。

以上の議論の結論として、普遍者実在論も類似性唯名論もそれぞれ難点があることがわかりました。
そこで著者秋葉も支持する「トロープ唯名論」が紹介されます。これに関しても詳しい説明は割愛します。

* それぞれの立場を簡潔に説明します。

■ 普遍者実在論(Realism about Universals)
主張:普遍者(例:赤さ、美しさ、人間性)は実在する。
意味:複数の個物に共通する性質(たとえばリンゴとバラの「赤さ」)は、単なる言葉の便宜ではなく、実際に存在する共通のものである。
典型的立場:プラトン的実在論では、それら普遍者は物理世界とは別の領域(イデア界)に存在する。アリストテレス的実在論では、普遍者は個物の中に内在して存在する。

■ 類似的唯名論(Resemblance Nominalism)
主張:普遍者は存在しないが、個物同士の類似性によって共通性を説明できる。
意味:「赤いもの」が複数あるのは、彼らがすべて「互いに似ている」からであって、「赤さ」という実体的な普遍者があるからではない。
課題:「似ている」とは何を意味するのか、その「類似性」自体が新たな普遍者のように見えないか、という点が問題とされる。

■ トロープ唯名論(Trope Nominalism)
主張:普遍者は存在せず、代わりに個物固有の性質の個別的実体(トロープ)が存在する。
意味:リンゴの「赤さ」とバラの「赤さ」は、別々の具体的な「赤トロープ」であり、それぞれの個物に属している。共通性は、これらのトロープが似ていることによって生じる。
特徴:抽象的普遍者を否定しつつも、性質そのものを何らかの形で認める点で、唯名論の中でも精緻な立場である。

本書に戻ります。序章でふれた「還元的/非還元的モデル」の区別で言うと、普遍者実在論のみが非還元的モデルに当たるとされます。

* この点を理解するには、「何を何に還元できると考えるか」という観点から整理すると明確になります。

  1. 「還元」とは何か
    ここで言う「還元」とは、ある種の存在(または事実)を、より基本的なものによって完全に説明・構成できるという意味です。たとえば、唯名論的立場は「共通性」という現象を個物の集合や類似関係によって説明しようとします。したがって、「赤さ」という普遍的性質を新たに実在させる必要がなく、共通性を個物レベルに還元します。
  2. 各立場の還元性
    ・普遍者実在論: 普遍者(赤さそのもの)が実在するから、複数の赤い物が同じ性質をもつ
    (非還元論)
    ・類似的唯名論:赤い物たちが互いに似ているという事実で説明できる (共通性を類似関係に還元)
    ・トロープ唯名論:各個物の赤トロープが似ているという点で共通性を説明 (共通性を個別的性質(トロープ)とその類似関係に還元)

* 普遍者実在論者は、「赤さ」や「美しさ」などの普遍的性質を、それより単純なもの(個物、類似、トロープなど)に還元できるとは考えません。むしろ、「赤さ」は独立した存在論的カテゴリー(= 普遍者)に属すると主張します。したがって、普遍者実在論は「共通性」を新しい種類の存在者によって直接説明し、それを他の存在(個物など)に還元しない、という意味で「非還元論(non-reductive theory)」なのです。

* 最後に、本書ではふれていない「存在論的代価」(ontological cost)について補足しておきましょう。

「存在論的代価(ontological cost)」とは、ある哲学的理論がどれだけ多くの種類の存在者(entities)を認めるか、あるいは世界の構成要素をどれだけ増やすかという観点から、その理論の「存在論的な負担」や「コスト」を指す言葉です。

  1. 基本的な考え方
    哲学的理論を評価するとき、特に形而上学では次のような基準がしばしば用いられます:できるだけ少ない種類の存在を仮定して、できるだけ多くを説明せよ。この考えは中世のオッカムの剃刀(Ockham’s razor)の原理に由来します。すなわち、「不要な存在を増やしてはならない。」(Entia non sunt multiplicanda praeter necessitatem)です。したがって、もしある理論が同じ現象を説明するのにより多くの存在者を仮定するなら、その理論は存在論的代価が高い(ontologically costly)と言われます。
  2. 普遍者実在論と存在論的代価
    普遍者実在論は、個物(たとえば個々の赤いリンゴ)だけでなく、 「赤さ」「人間性」「善」などの普遍者も実在すると主張します。そのため、世界には
     1. 個々の物体(個物) 2. それらに共通する性質や関係(普遍者)という二種類の存在者があることになります。これがまさに「存在論的代価が高い」と言われる所以です。つまり、唯名論者が「個物だけで十分説明できる」と考えるのに対し、実在論者は「個物だけでは不十分なので、さらに別種の存在者を導入する」わけです。

* 普遍者実在論は代価が高いですが、 「共通性」「法則性」「因果的普遍性」などを自然に説明できるという理論的利益(explanatory gain)があります。逆に言うと、唯名論は代価が低いですが、 「なぜ似ているのか」「共通概念はどこから来るのか」などの説明が複雑または不完全になりがちです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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