今回は、『形而上学とは何か』(秋葉剛史、ちくま新書)の【第3章】をご紹介します。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「  」は原則引用部分です。
(ただし引用でなくても、「部分」のように、ある用語に「  」を使用することがあります。)
なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」「感想」や「研究」です。

【第3章 部分と全体】

まずこの章の冒頭で「この世界の事物は、他の事物といっしょになってより包括的な全体を構成したり、より小さな諸部分から構成されていたりする」という事実が確認されます。

著者秋葉は、この章で論じる内容を「全体は部分の総和以上のものか」という問いに絞ります。その上で、まずこの問いを明確化します。すなわち、ここで論じる対象を物質的な対象に限定します。次に、問いの読み方に関しては「ある種の全体とそのある種の諸部分について、当の全体は当の諸部分の総和以上のものか」という解釈を採用するとします。(実際には本書の議論は、物質的対象からはみ出していますが。)

ここで、本書に沿って、「生命体はそれを構成する物質の集まりと同一視できるか」という問題を考えてみます。生命進化の過程で「心」が誕生したとき、全体は諸部分の総和を超えたもののように思われます。一方、その「心」もたとえば結局は脳の作用だと考えれば、全体も物質の集合体を超えていないようにも思われます。最初の考え方が「非還元主義」、ニ番目の考え方が「還元主義」と呼ばれます。

本書に沿って、それぞれの考え方の言い分を見ていきましょう。まずは「非還元主義」の言い分です。この立場では「全体はそれを構成する部分には見られない〈新奇性〉を持つ」と考えます。

これに対して「還元主義」は次のように応答します。「ある全体にみえたPという性質が、結局はすでに部分のレベルで生じていた現象の組み合わせ以上のものではない。」このような考え方を「機能的還元」と呼びます。

本書ではここは具体例を挙げて詳しく解説されているのですが、ここでは省略します。

それをふまえて「非還元主義」は次のように主張します。「一般に、還元的手法が及ぶのは公共的にアクセス可能な三人称的現象のみであり、主観性や一人称性をその本質とする意識経験には原理的にその射程は及ばない」

* これは「意識のハード・プロブレム(the hard problem of consciousness)」と呼ばれている、哲学者デイヴィッド・チャーマーズが提起した問題で、「脳の物理的な活動から、なぜ主観的な体験(クオリア)が生じるのか」を説明することの難しさを指します。たとえば、脳が情報を処理していることは科学的に理解できても、「赤を見るとどんな感じがするか」という体験そのものを物理的な説明に還元するのは極めて困難だ、という指摘です。

それでは意識を持たないものに関してはどうでしょうか。本章の後半では「多重実現」という概念にかなりのページが割かれ、「多重実現」された性質が、この世界にある独自の関係秩序を出現させる、というかなり詳細な議論がなされますが、ここではそれは省略します。その代わり、本書とは違う表現で「多重実現」についてまとめておきましょう。

* 形而上学における「多重実現(multiple realizability)」とは、同じ全体的性質(あるいは全体的実在)が、異なる部分的構成によって実現されうるという考え方を指します。もともとは心の哲学(特に心身問題)の文脈でヒラリー・パトナムらが提起した概念ですが、部分と全体の関係を論じる形而上学にも広く応用されています。

* 「多重実現」の議論は、ヒラリー・パトナムの哲学論文集第2巻『精神・言語・実在』(Mind, Language and Reality, 1975年)に収録された論文で最も有名に展開されました。特に重要なのは、この論文集に含まれる以下の論文です。「心的状態の本性」 (“The Nature of Mental States”)
(すいません。この本は所有していないので、直接確かめておりません。)

* この議論は、当時の心身同一説(タイプ同一説)に対する強力な批判となり、機能主義(functionalism)という心の哲学における主要な立場を確立する上で決定的な役割を果たしました。

* パトナムの考えを簡単に説明します。たとえば「痛み」という心的状態が、人間では神経系の特定の発火パターンによって、タコではまったく異なる神経構造によって生じるとすれば、「痛み」という全体的性質は多様な物理的部分構成によって実現されることになります。この場合、全体の性質(痛み)はその都度の物理的部分と同一ではなく、部分に対して上位的で、抽象的なレベルの存在論的記述を必要とするのです。

* 形而上学の「部分と全体」問題の観点から言えば、多重実現は全体の性質が部分の性質に還元できないことを示唆します。つまり、全体は単なる部分の総和ではなく、同じ全体的性質が複数の異なる部分的構成によって成り立ちうる以上、「全体的存在」には独自の実在論的地位があるという含意を持つのです。

本書に戻ります。「多重実現」が非還元主義を支持するための議論は、次の2つの主張にもとづくものでした。

①全体がもつ(新奇な)性質の多くは、多重実現されている。
②多重実現された性質は、その実現性質がもたらすのとは異なる独自の関係秩序を世界にもたらす。

これらに対する還元主義者の反論に関しては、ここでは省略します。

本章の締めくくりとして、「下向きの規定関係」が紹介されます。

* 「下向きの規定関係(downward determination / downward causation)」とは、全体の性質や構造が、その部分の振る舞いや性質を規定するという方向の因果的・存在論的関係を指します。

* 通常、「部分と全体」の議論では、部分が全体を決定する(上向きの規定関係:bottom-up determination)と考えられます。つまり、全体は部分の配置や相互作用から生じるとする立場です。しかし、「下向きの規定関係」はこれと逆の方向を強調し、全体的レベルの構造が部分のふるまいに制約や因果的影響を及ぼすことを示します。

* 例として、生物学的個体を考えると、個々の細胞の挙動はその生物全体の発生段階や恒常性(ホメオスタシス)といったマクロな構造によって調整されています。つまり、細胞(部分)の動きは全体(個体)の状態によっても「下から」だけでなく「上から」も決まっているのです。

* この概念は、還元主義への批判や全体論的形而上学(holism)の議論で重要です。全体の性質を単に部分の総和に還元できないとすれば、全体が部分に対しても何らかの実在的・規定的役割を持つことになるからです。

* 話は脱線しますが、マルクスの下部構造と上部構造の関係は、上向きの規定関係に近いと解釈されます。ただし注意すべきなのは、マルクス自身は上部構造が下部構造に逆作用することも明確に認めています。したがって、マルクスの構図は厳密な「上向き規定関係」よりも、双方向的・弁証法的な規定関係として理解すべきです。

最後にまとめとして、本章で議論された実在世界の「階層」、「レベル」という概念は、多岐にわたる学問で論じられる問題であることが指摘されます。「階層」「レベル」という概念は、存在の多層性をどう説明し、どの層に実在の根拠を認めるかという形而上学の核心に関わるのです。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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