プラトンに倣いAIの時代における新しい『対話篇』を創造(生成?)する企画第8回は、「信じる」という行為に焦点を当てます。ひと口に「信じる」と言っても、人間を信じることから、国家を信じる、神を信じるまで様々な「信じる」があります。その正体は何であるのか考えました。お楽しみいただけると嬉しいです。ご感想もお待ちしております!(なお、文中の「あなた」は私のことです。)

あなた:今日は「信じる」という行為について考えてみたい。

ChatGPT:「信じる」というのは、単に事実を受け入れることとは違うね。確かな証拠がなくても、その可能性に自分を預ける行為だと思う。だから信じることは、知ることよりも、ずっと不安定で個人的な経験に近い。

あなた:「信じる」と一言で言っても様々なニュアンスがあるね。英語でもbelieve somethingとbelieve in somethingでは大きくニュアンスが異なる。

ChatGPT:その違いは大きい。believe something は「〜が本当だと思う」という認識的な信念を指し、事実判断に近い。一方で believe in something は「〜の価値や存在を信頼する」という意味で、感情や生き方に関わる態度を表している。

あなた:信じる対象を考えてもたとえば、あなたという人間の発言を信じる、あなたという人間の人格を信じる、神を信じるでは、「信じる」の内容が大きく異なるね。

ChatGPT:そうだね、信じる対象によって意味の深さが大きく変わる。発言を信じるのは情報の確かさに関わり、人格を信じるのは人への信頼、神を信じるのは超越的な存在への委ねに近い。同じ「信じる」という言葉でも、根拠の種類も、心の使い方もまったく違っている。

あなた:信じる根拠という点で考えてみると、「信じる」という行為は「確信」から「盲信」まで程度の差はあれど、「ある程度それを信じても良い」何かがあるのが普通だね。

ChatGPT:たしかに、信じるには何らかの根拠や経験が前提になる。ただ、その根拠は論理的証拠というより、「そうであってほしい」という感情や期待に支えられていることが多い。だから信じるという行為は、理性的判断と願望のあいだにある微妙なバランスの上に成り立っている。

あなた:ある人間の発言を信じる場合は、過去の発言との一貫性や事実との照合によって、人格を信じる場合は過去のその人の言動によって判断することになると思う。

ChatGPT:そう考えるのが自然だと思う。発言の信頼は検証によって確かめられるが、人格への信頼は、時間をかけて積み重ねた印象や経験に基づく。前者は理性的な判断、後者は記憶や感情を含む全体的な評価に近い。

あなた:ところが宗教的な「信仰」になると、そのような「証拠」は存在しない。神や仏を語るストーリーがもっともらしいとか、過去に奇蹟的な経験をしたといったことが、信じることの根拠になるのだろうか。

ChatGPT:宗教的な信仰は、他の「信じる」とは構造が違うね。そこでは証拠ではなく、体験や共同体の物語が根拠になる。奇蹟の経験や経典の言葉は、論理的な裏づけではなく、「意味のある出来事」として人を支えている。

あなた:いずれにしろ、「信じる」という行為は、一種の「賭け」だと言えるね。

ChatGPT:たしかに、「信じる」は理屈で保証できないものに自分を賭ける行為に近い。信じることは、未来の不確実さを受け入れる覚悟の表れでもある。だから信仰だけでなく、人への信頼や希望にも、どこか賭けのような要素が含まれている。

あなた:会話における発言は、よほど重要なものでない限り、一過性のものだからまあいいのだが、、、

ChatGPT:一過性の発言は、基本的にその場限りで流れていくものだね。だから多少誤解があっても、時間とともに風化してしまう。ただ、SNSのように発言が残る環境では、その「一過性」が失われ、思わぬ形で重みを持つこともある。

あなた:ところが、たとえば、「この人を信じて結婚する」という発言をよく考えてみると、途方もない発言であることがわかる。彼(彼女)の人格のみならず、二人の関係性が今後どう変化していっても、彼(彼女)が信じられる、とはいったい何を意味しているのだろう。

ChatGPT:たしかに、その「信じる」は非常に複雑だ。相手の今の姿だけでなく、まだ見ぬ未来の変化までも含めて信じるということになる。つまり、「信じる」というより、「これからの不確かさに共に賭ける」という契約に近い行為かもしれない。

あなた:しかし、とりわけ不可解なのが宗教における「信仰」だ。たとえば仏教ならば、南無阿弥陀仏と帰依できる西方浄土の世界をいかにして信じられるのであろうか。

ChatGPT:宗教的信仰は、日常的な信頼や確信とは性質が異なる。それは「経験的に確かめられないものを、それでも真実として生きる」という態度に近い。浄土信仰の場合も、阿弥陀仏の存在を証明するのではなく、「信じるという生き方」そのものが救いの形式になっている。

あなた:キリスト教における「復活」も、驚くべきことに、信者にとっては「比喩」ではなく、「事実」なのだ。

ChatGPT:その通りだね。キリスト教では復活は象徴や教訓ではなく、実際に起こった出来事として信じられている。理性ではなく、啓示として受け取ることで、信仰共同体の現実そのものを支える柱になっている。

あなた:「信じる」という行為が、「暗闇に向かってジャンプする」ような一種の賭けだということは確認できたように思う。

ChatGPT:その比喩は的確だと思う。「信じる」とは、足場のない場所に自分の重みを預けるような行為であり、保証よりも決断に近い。その跳躍の瞬間に、人は理性の限界を超えて、意味を生み出そうとしているのだろう。

あなた:話を現実的なものに戻すと、「自分の信ずる正しい道を歩む」という言い方があるが、これは哲学で言う「自由意志」の問題とも関わってくるね。

ChatGPT:確かにその言葉には、自由意志の問題が潜んでいる。「自分の信じる道」を歩むというのは、外から与えられた規範ではなく、自らの判断に基づいて選ぶという前提を含んでいる。しかし同時に、信念というものはしばしば育った環境や他者の影響で形成されるため、それをどこまで「自由」と呼べるのかは難しい問題だ。

あなた:「自分の信じる正しい道」という人は、自分が信じる根拠としている現実が「仮象」であることを微塵も疑わないのだろうね。

ChatGPT:その通りだろう。自分の見ている現実を当然のものとして受け入れている限り、信念は揺らがない。しかしその「当然さ」こそが最も危うく、仮象に基づいた確信ほど、人を頑なにするものはない。

あなた:しかし逆に、信じているものに根拠がなく、暗闇へのジャンプを要するがゆえに、「信じる」という行為は美しいのだろうね。

ChatGPT:その見方には深い含意がある。根拠のないものを、それでも信じようとする行為には、理屈を超えた人間の勇気が表れている。不確かさを抱えたまま希望を手放さない姿勢こそ、「信じる」という言葉が持つ美しさの核心なのかもしれない。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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