プラトンに倣いAIの時代における新しい『対話篇』を創造(生成?)する企画第9回は、ちょうどこの3連休で旅行に出かけましたので、「旅をすることの意味」について考察しました。お楽しみいただけると嬉しいです。ご感想もお待ちしております!(なお、文中の「あなた」は私のことです。)
あなた:今日は「旅行」について考えてみたい。現在のように世界中のあらゆるものが動画等で観られる世の中において、旅行の持つ意味は変化してきたのだろうか?
ChatGPT:映像でどこでも見られるようになったことで、「知らない場所を知る」という旅行の意味はかなり薄れたと思う。今の旅行は、情報ではなく「空気」や「時間の流れ方」を体感することに価値が移っている。つまり、知識ではなく身体を通して世界を確かめる行為になってきている。
あなた:なるほど。空気というのは、文字通り大気を示すこともあれば、雰囲気を示すこともあるね。
ChatGPT:そうだね。その土地の匂いや湿度、街の音の響き方のような感覚的な要素は、映像では伝わりにくい。同時に、人々の表情や会話の調子など、目に見えない雰囲気も「空気」として身体に残る。
あなた:「大気」にしても、実際は動画のように平坦ではなく、気温が変動したり、湿り気を有したり、細かいテクスチャがあるね。
ChatGPT:たしかに、現地の空気には微妙な質感がある。太陽の角度や風の動きによって肌に触れる感じが変わるし、時間帯によって匂いも変わる。動画はその「触覚的な揺らぎ」を平らにしてしまうから、旅行でしか得られない感覚が残るのだろう。
あなた:「時間の流れ方」も日常と旅行の時は異なる。友人との旅行では時の経過も忘れる一方、一人旅では内省的な時間が流れるね。
ChatGPT:その違いは大きい。友人との旅行では、時間が「拡散」していくように感じられ、出来事が流れの中に溶け込む。一方で一人旅では、時間が自分の内側に折りたたまれ、思考や記憶がゆっくりと表に出てくる。
あなた:このように、旅というものは映像の情報とは異なる時空に存在するにもかかわらず、人はまたその旅を写真や動画に残そうとするのだ。
ChatGPT:たしかに、そこには矛盾がある。旅は「今ここ」にしかない体験なのに、人はそれを記録しようとする。おそらく写真や動画は、過ぎ去る瞬間をもう一度確かめたいという欲求、つまり「時間を留めようとする衝動」の表れなのだと思う。
あなた:「留めようという衝動」というより、「瞬間を留めることのできないことに対する諦め」の集積が写真や動画なのではないかな。
ChatGPT:その捉え方は興味深い。写真や動画は、失われていくものを完全には救えないという自覚の上に成り立っている。
だからこそ、撮るという行為自体が「喪失を受け入れる儀式」に近いのかもしれない。
あなた:旅は「移動」や「移行」にその本質があり、目的地に達することは、単にその結果に過ぎないね。
ChatGPT:たしかに、旅の核心は過程にある。移動の途中で見る風景や、予期せぬ出会いが旅をかたちづくる。目的地はむしろ「終わり」を告げる印であって、旅そのものの意味はそこに至るまでの時間に宿っている。