今回は、『形而上学とは何か』(秋葉剛史、ちくま新書)の【第4章】をご紹介します。細かい部分に関しましては、直接本書を購入し、手に取っていただければと思います。「 」は原則引用部分です。
(ただし引用でなくても、「事態主義」のように、ある用語に「 」を使用することがあります。)
なお*の後は、著者とは異なる私の個人的な「意見」「感想」や「研究」です。
【第4章 「もの」と「こと」】
最初に、この世界は「物からなる世界」だという見方が紹介されます。アリストテレスを起源とする「実体主義」の立場です。次に、これとは反対の、この世界は「ことからなる世界」だという見方が紹介されます。この実在世界の基本単位は、出来事やプロセスや事態などの存在者であるとする立場です。
この章で論じられるテーマはこの2つのどちらが正しいか、です。正確に著者の言葉で引用すると、「モノは(中略)この世界の基礎的な構成要素であるのか、それとも、実はより基礎的な存在者としてのコトから構成された二次的な存在者であるのか、という問題」です。言い換えれば、「モノ(実体)はこの世界に実在するものの最も基本的な種類(存在論的カテゴリー)の一つであるのか」という問題です。(結論は、当然ながら出ないのですが。)
* 本題から逸れますが、本書の参考文献で廣松渉が出てきます。廣松と言えば、『事的世界観への前哨 物象化論の認識論的 = 存在論的位相』(勁草書房、1975)、『もの・こと・ことば』(勁草書房、1979)などが刊行された時期はちょうど自分の高校・大学生活と重なっており、少し懐かしくなりました。
さて、本章で最初に行う作業は、「モノ」とはどのような存在者なのかを改めて確認することです。
この作業の結果、モノの一般的特徴が4つ挙げられます。
1「空間的な局在性」
2「性質や関係の担い手である」
3「一定の期間中、同一性を保って存在し続ける」
4「何らかの種」に帰属し、その一員として存在する」
(各々の種は、何かがそれに属するためにもってなくてはならない一群の「本質的」性質を規定する。)
ニ番目の作業は、コト主義に対するモノ主義の主張を明確化することです。その主張とは、「モノは、モノ以外のカテゴリーの存在者から何らかの仕方で構成されうる、あるいはそれに還元されうるような存在者ではなく、あくまでこの世界の還元不可能な基盤の一部である」という主張です。
この主張に対し、コト主義は、「モノはたしかに存在するけれど、その存在はあくまでコトに対して二次的だ」と主張します。しかし、コト主義にも「世界の何をベースに考えるか」によって様々なバージョンがあります。ここでは「事態(事実)主義」と「プロセス主義」という2つの立場が検討されます。
「事態(事実)主義」から検討していきましょう。この立場を表すものとしては、ウィトゲンシュタインの以下の一節が有名です。
「世界は事実の総体であり、物の総体ではない。」(『論理哲学論考』(岩波文庫)p.13)
要するに、「世界は、この世界で実際に成り立っている諸々の事柄の総体である」という主張です。
では、この主張を支持する理由は何でしょうか。本書ではこれが二段階で論証されます。
主張A:「事態が存在する」
主張B:「事態はモノより基礎的だ」
まず、主張Aが支持される理由が2つ挙げられます。
理由1「実在するモノをいくら集めても、それだけでは世界にならない。」
理由2「因果関係が存在するためにはその〈関係項〉が必要であり、その項は〈事態〉に他ならない。」
次に、主張Bが支持される理由が2つ挙げられます。
理由1「モノは、つねに何らかの事態の一部として私たちに現れる。」
(モノとは、基礎的存在である諸々の事態から抽象化して取り出しうる成分に他ならない。)
理由2「ブラッドリーの無限後退」
* 「ブラッドリーの無限後退」とは、関係の実在をめぐる哲学的問題です。イギリスの哲学者F. H. ブラッドリーは、あるものが他のものと「関係している」と言うとき、その関係自体もまた両者と関係をもつはずだと指摘しました。すると、その新しい関係もさらに別の関係と結びつく必要が生じ、関係が無限に続いてしまう、という論点です。つまり、関係を独立した実体として認めると、無限後退に陥ってしまい、世界の統一的な説明が不可能になるという批判です。本書では「モノ」と「コト」をめぐって説明されていますが、ここでは詳細は省略します。
上記のうち、主張Bに関してはモノ主義から反論する余地が十分にありそうです。そのうちのひとつに、「モノはつねにある特定の種のメンバーとして存在する」という説明があります。それにより「モノは事態から抽象された成分であり事態に対し派生的である」という主張を経なくても、「モノが事態の一部として存在する」ことは説明可能だとするのです。
次に「ブラッドリーの無限後退」についてはどうでしょうか。詳しい説明は省略しますが、モノ主義者は「例化関係はある特別な身分を持った関係である」と論じることでこの主張に反対します。
まだまだ話は終わりません。「コト主義」の中には「事態主義」とは別に「プロセス主義」もあるからです。
プロセス主義によると、「この世界の根底をなすのは、明瞭な境界をもたず互いに浸透し合い、一定の時間幅のうちで展開されていくことをその本質とし、力動的・流動的な変化そのものであるようなコトとしてのプロセス」なのです。
本書では、プロセス主義が支持される理由が2つ挙げられています。
1つ目は生命体に関するものです。
プロセス主義は、「私たち生命体も、永続的で確固としたモノというよりも、ある一定の仕方で組織化された物質の絶えざる流れに他ならない」と考えますが、これは現代科学のさまざまな知見とも一致します。
2つ目は素粒子に関するものです。
「場の量子論」によれば、「素粒子は、真の物理的実在である「場」の一定の状態に他ならない」のです。本書ではこれが、「電光掲示板の電球があるパターンで点灯・消灯するとモノのように見える」というアナロジーを用いて説明されます。
こうして、プロセス主義者によれば、モノが派生的でありることは明らかであるとされます。しかし、このようなプロセス主義にも、モノ主義からの反論はあり得ます。
モノ主義論者は、1つ目の生命体に関する考え方については、アリストテレス以来の「質料形相論」で説明できるとします。
2つ目の素粒子に関する議論では、モノ主義者は、「場」という概念が一種のモノとして捉えられるのではないかと反論します。この後、素粒子を額面通り粒子(モノ)として捉える考え方も紹介されますが、議論が複雑なのでここでは省略します。
* ここまで長々と、本書の第4章を紹介してきましたが、最後に私の感じた疑問について書いておきましょう。
* 私の感じた疑問とは、「本書の問いの立て方が間違っていて、世界はモノでありかつコトであるのではないか?」というものです。(この疑問は、別の文脈では、「同一性と差異ではなく、同一でありかつ差異的なものの在り方があるのではないか?」と書き換えられます。)これについて少し検討してみましょう。
- 「モノ」と「コト」の対立図式
まず、「どちらが根源的か」という問いがなぜ立てられるかというと、西洋哲学の歴史的背景があるからです。
モノ(実体)中心主義: アリストテレス以来、世界は「変化しない基体(モノ・実体)」があり、それに「性質」や「出来事」が付着するという考え方が主流でした。「犬(モノ)が、走っている(コト)」というように、モノが主語になります。
コト(過程)中心主義: これに対し、ヘラクレイトスやホワイトヘッド、ベルクソンなどは「世界は絶え間ない変化(プロセス)であり、モノはその一時的な安定したパターンに過ぎない」と主張しました。
- 「モノでありかつコトである」という視点
私が考えた「モノでありかつコト」という視点は、これら二つの対立を止揚しようとする立場と言えます。哲学的には以下のようなアプローチで支持されます。
相補性(量子力学的な視座): 物理学において、光が「粒子(モノ)」としての性質と「波動(コト)」としての性質を同時に併せ持つように、世界のあり方も「観測の仕方(問いかけ方)」によってモノとしてもコトとしても現れる、という考え方です。どちらか片方が正解なのではなく、両方の側面を含んで初めて「世界」という全体になります。
ブラッドリーと「関係」の問題: F.H.ブラッドリーの視点から言えば、モノとコト(あるいは性質)を切り離して考えること自体が、矛盾を生む抽象化です。モノとコトを分けた瞬間に、「モノとコトをつなぐ関係」が必要になり、無限背進に陥ります。したがって、真の実在(The Absolute)においては、モノとコトは不可分の一体であると考えられます。私の「問いの立て方が違う」という感覚は、まさにこのブラッドリー的な一元論的直観に近いと言えます。
- 「同一性」と「差異」の同時共存
「同一性と差異ではなく、同一でありかつ差異的」という点についても、ヘーゲル哲学などが強力な味方になります。
ヘーゲルの弁証法: ヘーゲルは、「AはAである(同一性)」という命題は、すでに「Aは非Aではない(差異)」を含んでいると考えました。差異がなければ同一性も成立しません。これを「同一性と非同一性の同一性(identity of identity and non-identity)」と呼びます。 つまり、差異を排除した純粋な同一性は空虚であり、真のあり方は「自らの中に差異を含みながら、なおかつ同一である」という動的な状態です。