U-NEXTに加入してから、たまったポイントで、ふだんなら観ないような映画を予備知識なしで観るようになりました。しかし、これがなかなか楽しいのです。このサイトでも『教皇選挙』、『国宝』、『ザ・ザ・コルダのフェニキア計画』などについてレビューしてきました。

今回鑑賞した映画は『落下の王国』リマスター版です。この映画は単なるファンタジーではなく、現実と虚構が複雑に交錯する、「映像の宝石」のような作品です。注目するポイントをいくつか列挙してみましょう。
(特に5以下には【ネタバレ】が含まれるので、未見の方はご注意ください。)

  1. 制作の背景

この映画は、「CGを使わずに、地球上の絶景で撮影する」というコンセプトのため、24カ国以上の世界遺産や名所を巡り、4年の歳月をかけて撮影されました。ハリウッドのスタジオはこの採算度外視の企画に資金を出さなかったため、監督は自身の私財を投じ、完全な創作の自由を確保して制作したのです。

  1. ターセム・シン(Tarsem Singh)監督の来歴

インド出身の映像作家です。その特徴は「圧倒的なビジュアルセンス」にあります。R.E.M.のミュージックビデオで世界的な注目を浴びた後、『ザ・セル』(2000年)で映画デビューします。『落下の王国』は長編2作目であり、最も作家性が色濃く出た作品です。構想から完成まで20年以上という年月がかけられました。

  1. この映画の「見どころ」と芸術的要素

・特筆すべきは、衣装デザイナー・石岡瑛子氏の仕事です。 物語世界の登場人物たちの衣装は、風景に負けない強烈な色彩と造形美を持っており、この映画を「動く絵画」にしています。

・アレクサンドリアを演じたカティンカ・アンタルは、当時ルーマニアの一般の少女でした。監督は彼女から自然な反応を引き出すため、撮影期間中、主演のリー・ペイスが本当に半身不随であると信じ込ませていました。会話の多くは即興で、ドキュメンタリーに近い手法で撮影されました。これにより、ロイの絶望と少女の無垢な生命力の対比が鮮烈になっています。

  1. 世間の評価と批評

公開当時(2007年)の評価は真っ二つに分かれました。「映画史上最も美しい映画の一つ」「圧倒的な映像美と、物語ることへの愛に満ちている」と評論家や同業者から評価される一方、「ストーリーが散漫で、ナルシシスティック」という批判もありました。しかし、時を経て、現在は「映像美を語る上で避けて通れない傑作」としての地位を確立しています。

  1. 物語の構造について

この映画は「物語が人を救う力」についての映画であることがわかります。当初、ロイは少女を騙して自殺をするためのモルヒネを盗ませるために物語を語っていました。劇中の物語が残酷な展開を見せるのは、ロイ自身の絶望が反映されているからです。クライマックスでロイは物語の主人公を殺そうとしますが、アレクサンドリアが泣き叫び、物語に介入してそれを止めます。「私の物語でもあるのよ!」という彼女の叫びが、ロイを現実の死から引き戻します。

次に、この映画の圧倒的な映像美と演出の妙が凝縮された具体的なシーンを5つ選び、その制作背景や美術的な意図を細かく解説します。

  1. オープニングにおける白黒の「救出」シーン

ベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章が流れる中、橋から落下した馬とスタントマンが川から引き上げられるスローモーション映像です。この一連のシークエンスは、サルバドール・ダリのシュルレアリスム絵画を意識して構成されています。特に、水面に映る影や構図が、現実の事故の記録というよりは「ロイの記憶の中で美化・再構築された事故」であることを示唆しています。最後に列車の蒸気が水面の飛沫へ、そして病院のベッドのシーツへと繋がる編集は見事です。これにより、物語が「過去の栄光」から「現在の絶望」へとスムーズに移行します。

  1. インド・ラジャスタン州の「階段井戸」

チャールズ・ダーウィンたちが逃げ惑う、幾何学模様のような巨大な逆ピラミッド型の階段がある場所です。これはセットでもCGでもなく、インドのアブハネリにある9世紀に建造された「チャンド・バオリ」という実在の巨大井戸です。約3,500段の階段が幾何学的に並んでいます。監督はM.C.エッシャーの「相対性(Relativity)」という、階段がループするだまし絵を再現するためにここを選びました。

  1. ブルーシティとダーウィンのコート

街全体が青く塗られた迷路のような都市を、一行が探索するシーンです。青い街の正体ですが、インドのジョードプルという実在の街です。害虫除けや、かつてはバラモン階級の家であることを示すために青く塗られていました。ここで特に映えるのが、博物学者ダーウィンの衣装です。彼のコートは無数の生地をパッチワークのように継ぎ合わせて作られており、まるで彼が研究する「生物の多様性」や「進化の系統樹」を全身で表現しているかのようなデザインになっています。青い背景に対し、赤や黄色を含む極彩色のコートが強烈な対比を生んでいます。

  1. ナミビアの砂漠と「赤い扇」

見渡す限りのオレンジ色の砂漠。その中で、兵士たちが黒い旗を掲げ、アレクサンドリアが幻覚を見るシーンです。ロケ地はナミビアのナミブ砂漠(ソススフレイ)です。CGで色調補正をしたわけではなく、朝夕の特定の時間にだけ現れる、強烈な太陽光による自然な色彩です。砂漠にポツンと置かれた巨大な建造物やアーチの構図は、ジョルジョ・デ・キリコの形而上絵画を引用しています。バリ島のケチャダンスのような動きをする原住民のシーンは、実は『Baraka(バラカ)』というドキュメンタリー映画へのオマージュであり、実際にそのドキュメンタリーに出演していた部族を起用しています。

  1. 病院での「即興演技」と手紙のシーン

物語パートではなく、現実の病院でのロイとアレクサンドリアの会話で、特にロイが薬をねだり、アレクサンドリアが書き損じの手紙を拾うあたりです。アレクサンドリアが看護師への手紙にある「Morphine」の文字を読み取ろうとして、「E」を「A」と読み間違えたりするシーンがあります。これは脚本にはない、子役カティンカ・アンタルの素の英語力による間違いです。この無垢な「読み間違い」が、結果としてロイの自殺未遂や、その後のアレクサンドリアの大怪我へと繋がっていきます。「純粋さが悲劇を招く」という脚本構造が、即興演技によってよりリアルに強化されています。

最後に、この映画を観て私が気付いたこと、連想したことを列挙してみましょう。

まず、この映画で使用された音楽についてです。オープニングのモノクロのスローモーション映像で流れる「ベートーヴェン交響曲第7番 第2楽章」は、映画全体に通底する「喪失と再生」のテーマを象徴しています。私にはこの曲がフランス映画に使われていた記憶があり、ヌーベル・ヴァーグの作品かと思っていましたが、調べましたら『ローラ』(Lola, 1961, ジャック・ドゥミ監督)でした。

次に、主人公ロイのモデルはバスター・キートンではないかと思ったのですが、どうもそうではなく、キートンへの深いオマージュが捧げられたキャラクターと考えるのが正しいようです。ラストシーンの引用映画のラストで、回復したロイが再びスタントマンとして活躍する姿(とアレクサンドリアが想像するシーン)として流れる白黒フィルムのモンタージュ映像には、実際にキートンの映画のスタントシーンがそのまま使われています。 監督のターセム・シンは、この映画を「CGのない時代に、命がけで映画を作っていた名もなきスタントマンたちへのラブレター」として作っているのです。また時代設定を考えてみても、舞台となっている1915年〜1920年代のロサンゼルスは、まさに「サイレント映画の黄金期」と重なります。

最後に、この映画でダーウィンが出てきた意味を考えてみましょう。これには実は映画のテーマに関わる「知的な遊び」と「象徴的な意味」が幾重にも込められています。具体的には、以下の4つの重要な意味があります。

  1. 「歴史の勝者と敗者」の皮肉

「自然選択説」は、ダーウィンだけでなく、同時代のアルフレッド・ラッセル・ウォレスという学者がほぼ同時に発見していました。しかし、映画の中では、名声を得た「ダーウィン」が人間として描かれ、歴史の影に隠れた「ウォレス」が言葉を持たない猿として描かれています。これは「物語は誰によって語られるか」という映画のテーマに通じます。(ダーウィン自身は論文のアブストラクトにウォレスを含めてそれを提出するという〈利他的行為〉をとったことで知られています。)

  1. 「追い求めるもの」の虚構性

他のキャラクターが、総督オディウスへの「復讐」を行動原理にしているのに対し、ダーウィンだけは「アメリゴ蝶」という幻の蝶を探求するために旅をしています。 彼は「理性」や「科学」を象徴する存在ですが、彼が追っているのは「世界で最も美しいもの」という、非常にロマンティックで捉えどころのない存在です。物語の終盤で、ダーウィンは蝶を見つけられないまま死を迎えます(ロイの絶望により殺されます)。これは、「理路整然とした科学や知識」でさえも、ロイの深い絶望の前では無力であり、救いにはならないことを示唆しています。

  1. 衣装が語る「分類学」

これについては、「ブルーシティ」の項で書きました。

  1. 現実世界とのリンク

物語世界ではダーウィンですが、現実世界での彼のモデルは「病院の職員」です。現実の彼は、ギブス姿のロイの世話をしたり、掃除をしたりする、裏方的な存在です。進化論が「生命がいかにして生き残ってきたか」を説く学問であるように、現実の彼もまた、ロイやアレクサンドリアの生命を実務的に支える役割を担っています。

ダーウィンの登場は、この映画が単なる活劇ではなく、「事実と真実」「語られる者と語られざる者」といった哲学的なレイヤーを持っていることを示すアンカー(錨)の役割を果たしています。また、彼が最期に「魂などない、あるのはただの化学反応だ」といったような虚無的なことを悟って死んでいくシーンは、理性の崩壊を表しており、ロイの精神状態が極限まで悪化していることを示す、非常に痛切な場面でもあります。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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