吉本隆明が「心情左翼」という言葉をそのまま用いて論じた記述は、厳密には見当たりません。しかし、吉本隆明の思想活動全体、特に「戦後民主主義」や「進歩的文化人」に対する痛烈な批判は、まさに今日でいう「心情左翼(理論的裏付けのない、良心や気分による左派的支持)」の精神構造を鋭く解剖し、否定したものであると言えます。彼がどのような論理で、この「心情的な左派」のメンタリティを批判したのか、いくつか重要な概念と関連づけて解説します。
- 「善意」と「良心」への不信(空虚なモラリズム)
吉本隆明は、戦後の平和運動や民主主義擁護を唱える知識人(丸山眞男ら)や市民たちの「善意」や「良心」を、徹底的に疑いました。
・批判の核心: 彼は、自らは安全な場所に身を置きながら、「戦争反対」「弱者救済」といったきれいごと(正義)を唱える姿勢を「擬制(フィクション)」と断じました。 心情左翼の多くは「かわいそうな人を助けたい」「平和が大事」という素朴なヒューマニズム(心情)を出発点としますが、吉本にとってそれは、現実の過酷な生活や大衆のドロドロとした実存から遊離した、上滑りな「インテリの自己満足」に映りました。
・関連する記述の方向性: 吉本は、自分自身が戦争中に軍国少年であったことの罪悪感や責任を直視せず、戦後になって急に民主主義者としての「善き心」を語り出した人々を「転向者」として批判しています。これは、昨今の「時流に乗ってリベラルな発言をする」層への批判とも重なります。
- 「大衆の原像」と、理論なきインテリの乖離
吉本隆明の思想の根幹には「大衆の原像」という概念があります。
・概念の概要: 彼は、思想や理論を振りかざすインテリ(前衛)よりも、日々の生活(食うこと、寝ること、家族を養うこと)を黙々と営む「名もなき大衆」の生活実感(生活防衛の論理)の方に、真正な価値を置きました。
・心情左翼的なものとの対比: 心情左翼的な人々が、しばしば「大衆は無知だから啓蒙して導かねばならない」あるいは「大衆はかわいそうな被害者だ」と上から目線で捉えがちなのに対し、吉本は「大衆はしたたかで、思想家よりも現実的だ」と捉えました。 彼は、「高踏的な正義(心情的左派の理想)」が、「地を這うような生活者の現実」と乖離していることを、戦後最大の欺瞞であると論じ続けました。
- 「転向」論に見る「心情」の脆さ
吉本隆明のデビュー作とも言える『マチウ書試論』や、その後の『転向論』も、このテーマに関連します。
・論点: 戦前の共産主義者たちが、なぜ警察による拷問や家族の説得によって簡単に「転向」してしまったのか。吉本は、彼らが「輸入された西洋の理論」だけで武装し、日本的な人間関係や「心情(情愛、家族愛)」という土着の構造を無視していたからだと分析しました。
・現代への示唆: これは、「理論(ロジック)」と「心情(エトス)」の関係を逆説的に示しています。「心情左翼」と呼ばれる人々が、確固たる理論を持たずに「かわいそうだから」「なんとなく正しそうだから」という心情だけで動いている場合、状況が変われば容易にその立場を捨てたり、逆に極端なポピュリズムに流されたりする脆さがあることを、吉本の転向論は示唆しています。
吉本隆明は「心情左翼」という言葉こそ使いませんでしたが、以下のような言葉でその「精神的態度」を批判の対象としていました。「戦後民主主義の欺瞞」「進歩的文化人の啓蒙主義」「安全地帯からのモラリズム」
吉本隆明の立場からすれば、「自分の生活の根っこ(自立)から出ていない正義感や同情心は、どれほど美しくても信用しない」ということになります。 もし吉本が存命で、現代の「心情左翼」と呼ばれる層(例えば、SNSで正義を振りかざすが、現実の行動は伴わない層など)を見たとしたら、「それは『共同幻想』に酔っているだけで、真の『個』の確立ではない」と厳しく論評した可能性が高いと考えられます。
次回は、仮に吉本隆明が今生きていたら、たとえばグレタ・トゥンベリが展開している環境保護活動対してなんと言うかについて考察してみます。グレタからの考えられる応答については、第4回で扱います。