吉本隆明が今生きていたら、たとえばグレタ・トゥンベリが展開している環境保護活動対してなんと言うでしょうか。
彼の思想の根幹にある「大衆の原像」や「共同幻想論」、そして晩年の「ハイ・イメージ論」などの視点から推測すると、以下のような論理で批判を展開するのではないでしょうか。
- 「上空飛行的」な正義への批判
吉本は、現実の生活(食うこと、寝ること、働くこと)から遊離した「高み」から正義を説くことを最も嫌いました。
・「生活者の現実」の無視: 吉本にとって、最も尊いのは「名もなき大衆が、日々の糧を得るために黙々と働く姿」です。環境保護のために「経済活動を止めろ」「飛行機に乗るな」と叫ぶことは、その経済活動にぶら下がって必死に生きている労働者や、貧しい国の人々の「生存の現実」を無視した「インテリの傲慢(啓蒙主義)」だと断じるでしょう。
・言葉: おそらく「君たちは、今日の米代を稼ぐ苦労を知らずに、地球の未来という『共同幻想』に酔っているだけではないか」といった趣旨のことを言うはずです。彼は「抽象的な善(地球、未来)」よりも「具体的な生活(今日の夕飯)」を優先しない思想を信用しませんでした。
- 「新しい共同幻想」としての全体主義への警戒
吉本は、国家や宗教だけでなく、「正義」や「倫理」が巨大な力を持って個人を圧迫することを警戒しました。
・「エコ・ファシズム」への懸念: 「環境のため」という誰も反対できない「絶対善」を掲げて、個人の行動を監視したり、異論を封じ込めたりする動きは、吉本が『共同幻想論』で解明しようとした「個を飲み込む国家(あるいは同調圧力)」の変種に見えるはずです。 「地球を守る」というお題目の前では、個人の自由や生活がないがしろにされても構わない、という空気感に対し、彼は「それはかつての戦争中の『お国のため』と同じ構造だ」と警鐘を鳴らすでしょう。
- 晩年の「消費社会」論の視点から
晩年の吉本(『ハイ・イメージ論』など)は、資本主義社会が高度化し、あらゆるものが「イメージ(記号)」として消費される様を分析しました。
・運動の「商品化」: 彼は、環境保護活動そのものが、資本主義の中で一つの「商品」や「エンターテインメント」になっていると冷ややかに分析するかもしれません。「反体制」を叫ぶことさえも、システムの中に組み込まれた「ポーズ」に過ぎないと見抜くでしょう。
あくまでも想像ですが、吉本ならこう言うかもしれません。
「環境が大事だとかそういうことを言うのは勝手だが、それはあくまで君個人の『自己幻想(心の問題)』にとどめておくべきだ。それを『普遍的な正義』だとして、必死に生きているおばちゃんやおじちゃんたちの食卓や仕事に口を出すな。彼らは君たちが考えるよりずっと深く自然と付き合い、そして罪を背負って生きている。自分の手が汚れていないと信じている人間ほど、実は一番残酷なことができるんだよ。」
今回は吉本隆明ならばこう言うだろうという展開を想像してみましたが、これは一方的な意見に過ぎません。当然グレタ・トゥンベリ側の反論もあり得ます。次回はそれについて、考察してみます。