最初にお断りしたように、本論考は吉本隆明の思想で倫理の〈きれいごと〉を断罪することが目的ではありません。吉本隆明が「土着の生活者・大衆のリアリティ(現在)」を擁護する立場だとすれば、グレタ・トゥンベリ(環境活動家)は、「科学的真理」や「普遍的な倫理(未来・他者)」を擁護する立場です。もし彼らが対峙したら、吉本の「インテリ批判」や「大衆重視」の論理に対して、グレタ・トゥンベリも自分の立場から強烈なカウンターを放つでしょう。以下にその仮想的な反論を構成します。

  1. グレタ・トゥンベリからの(ありうる)反論
    「あなたの言う『大衆の生活』を守るためにこそ、私たちは叫んでいる」
    グレタは、吉本の難解な哲学用語には付き合わず、「科学」と「生存の危機」という冷厳な事実を突きつけるでしょう。

・「リアリズム」の逆転: 「あなたは『今日の米を稼ぐ生活者の現実』が大事だと言いますが、気候変動でその農地が水没し、干ばつで米が取れなくなったら、その生活はどうなるのですか? 科学的事実(物理法則)を無視して『今の生活実感』に固執することこそ、あなたが批判する『共同幻想(現実逃避)』そのものではないですか?」
・「弱者」の定義の拡張: 「あなたが守ろうとする『日本の大衆』は、グローバルに見れば、温室効果ガスを大量に排出し、途上国(グローバル・サウス)の人々を苦しめている『強者(加害者)』です。 真の『弱者』は、あなたの見えないところにいる、気候変動の被害者たちです。あなたは国境という古い幻想の中で、既得権益を守っているに過ぎません」

要するに、彼女は、吉本が批判する「上空飛行的な正義」ではなく、「沈没船の底に穴が空いているという物理的事実」として反論するはずです。

  1. 両者の決定的な対立点
    この架空の討論は、噛み合うことなく平行線をたどる可能性が高いです。なぜなら、彼らが「守るべき聖域」としている場所が全く違うからです。

吉本隆明 とグレタの立場の違いを整理してみましょう。

【重視するもの 】
(吉本)「現在」の生活者の「実感(エトス)」
(グレタ)「未来」の生存と「理性(ロジック)」

【人間観】
(吉本)罪や業を抱えた、矛盾に満ちた存在
(グレタ)理性によって、より善く変われる存在

【批判対象】
(吉本)エリートの空理空論
(グレタ)啓蒙主義 非合理な慣習、科学の軽視

現代において吉本の(架空の)グレタ批判は、どこまで正当化されるでしょうか。

吉本の思想は「高度成長期の日本」という、「明日の生活は今日より良くなる」ことが前提の社会で、強力なリアリティを持ちました。「理屈を言う前に働け」が正解だったからです。しかし、環境危機によって「ただ働くだけでは、明日の世界が壊れる」時代においては、彼の「現状肯定的なリアリズム」は分が悪くなります。

しかし、それでも吉本の批判が正当性を持ちうるとすれば、「反発のメカニズム」を予言している点です。 「正論(グレタ)」があまりに潔癖で、大衆の生活や欲望を否定しすぎると、大衆はトランプ現象のように「反知性主義」へとなだれ込みます。 吉本ならこう言うでしょう。 「君たちの論理がいかに正しくても、大衆の『食いたい、楽をしたい』という欲望を『悪』と決めつける限り、君たちは永遠に大衆から孤立し、最後にはしっぺ返しを食らうだろう」

この「正しさ」対「人間の業」の対立こそが、現代の分断そのものと言えます。

第3、4回では主にグレタ・トゥンベリの活動と、吉本隆明の思想に焦点を当てましたが、次回は、第1回で紹介した「心情左翼」という観点により関連していると考えられるSDGsに焦点を当てて考察を加えてみたいと思います。

投稿者 shobota

都立高校で40年以上英語を教えている教員です。哲学や倫理に関心があります。

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